岩崎弥太郎と渋沢栄一の海運大競争の結末は

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岩崎弥太郎は三菱財閥の創始者として知らない人はいないでしょう。土佐の下級武士から身を起して、坂本龍馬の海援隊に関わり、その頃から海運に軸足を置くようになりました。

明治維新の直後の政府の海運需要を一手に引き受けて海運業を独占する勢いでした。これに政府も含めて立ち向かったのが渋沢栄一です。この戦いの結末はどのようだったのでしょう。

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岩崎弥太郎が海運事業で成功するまでを説明します

岩崎弥太郎は1835年(天保5年)土佐の下級武士に生まれます。20歳の時に父親の喧嘩がもとで投獄されますが、この時同獄の商人から算術、商法を習ったのが後で役立ちます。

その後、吉田東洋に学んだり、大阪に出かけたりしましたが大して成果もなく過ごしていました。吉田東洋の甥の後藤象二郎との知己を得たことから、道が開けてきます。グラバーとの関係、坂本龍馬の海援隊の仕事にもかかわります。

九十九商会の経営に携わり本格的に海運業へ

弥太郎は最初、土佐藩が立ち上げた九十九商会の事業監督にあたりますが、1871年(明治4年)には経営者となります。

藩船3艘の払い下げを受けて海運業に本格的に参入します。高知、神戸路線、東京、大阪間の輸送で他の業者を圧倒します。

社名を三菱商会に変えて政府の仕事を通じ大きく伸びる

1873年(明治6年)三菱商会と社名を変更します。

この時、後藤象二郎から政府が各藩の藩札を買い上げるという情報を得て藩札を大量に買い占めて巨万の富を得ることになります。

今で言えばインサイダー取引で捕まってしまいますが、当時は平気だったのでしょう。

1874年(明治7年)台湾出兵の輸送を各社が躊躇していたところを一手に引き受けます。

これで政府とのパイプを太くし、横浜上海間の航路に乗り出します。政府から船舶の無償供与、パシフィックメイル社との交渉も成立し、この地域での独占を果たすことになります。

この2年間の事業が三菱を作ったともいえるでしょう。しかし、人生の中で数少ないチャンスをみんなが臆する中積極的に取りに行く勇気は貴重なものです。

1877年(明治10年)西南戦争の政府軍の徴用に全面協力、戦費総額4156万円のうち三菱の運航収入299万円、利益93万円という莫大な利益を上げることになります。

所有船61隻となり日本の汽船総数の7割を超えるようになっていました。

これで押しも押されもしない海運の第一人者となります。

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渋沢栄一は海運業に乗り出すが

三菱の独占により海運業の運賃が高額のため、値下げ交渉にも応じないということもあり、三井物産社長の増田孝が海運業に乗り出し、「東京風帆船株式会社」を作り対抗しようとします。

第一銀行頭取の渋沢栄一もこれに手を貸すことになります。

しかしながら、岩崎弥太郎の方が一枚上手でした。政府、マスコミに働きかけ東京風帆船株式会社の妨害工作を始めます。

東京風帆船の株主に工作し、又は商人に工作しこれに関わらないように手を打ちます。こんなことから、この会社は大した働きもなく休眠してしまいます。

渋沢栄一の再度の挑戦は共同運輸会社の設立から

明治14年の政変で大隈重信が失脚すると風向きが変わり始めます。下野した大隈重信は立憲改進党を作りますが三菱との関係を強化していきます。

一方政府はこの動きを危惧し反三菱に動き始めます。逆に弥太郎としては強力な後ろ盾を失い、危機が訪れるわけです。

前回敗れた益田や渋沢は東京風帆船会社、北海道運輸会社、越中風帆船会社を合併して共同運輸会社を設立します。政府もこれに加担し資金提供をします。

郵便汽船三菱会社と共同運輸会社は熾烈な競争を

共同運輸株式会社の参入により、海運業は厳しい競争に陥ります。運賃の値下げから始まって、経費削減、人員削減、更には不採算路線の廃止まで行きます。

政府もこれを黙って見過ごしているわけではなく、さすがに両者の経営環境が悪くなり共倒れの危険性が出て来たため、仲裁に入ったりしますが、なかなか競争は留まるところをしりません。

なんでも運賃は当初の10分の1ぐらいになったといわれています。この状態が約2年続いたといわれています。

この間に、岩崎弥太郎は激しいストレスがあったのでしょう、胃病ということになりますが、実はどうも誤診で胃がんでした。

それでも病床の中から指示を出し続けていたそうです。何としても負けるわけにはいかなかったのでしょう。

そして1885年(明治18年)2月7日岩崎弥太郎は亡くなってしまうことになります。壮絶な戦死ということですね。

これによって両者の競争が亡くなったわけではありませんが、頑なに仲裁を拒んでいた岩崎弥太郎の死によって事態は変わってきます。

郵便汽船三菱会社の社長を継いだ岩崎弥太郎の弟弥之助は政府の方針を受け入れることになります。同年9月には両者を合併させて、日本郵船株式会社が成立することになります。

その後日本郵船は文字通り日本のフラッグシップキャリアとして世界の海運業界に乗り出すことになります。

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岩崎弥太郎と渋沢栄一の海運大競争の結末のまとめ

岩崎弥太郎は土佐の下級武士から身を起して、日本三大財閥の三菱財閥の祖となった人です。

たしかに、その経営手法は強引でしかも政府、新聞なども使ってまさに政商と言われる方法だったかもしれません。

しかし、その頃にはまだ、インサイダーとか癒着とか言う概念がなかった頃ですので仕方がないでしょう。そんな中を強烈な上昇志向で駆け上った経営者と言えるのではないでしょうか。

後日になって、渋沢栄一の経営手法と違って専制的だと言われていますが、まだ混とんとした黎明期ですのでやむを得ないと思います。

しかしながら、このエネルギーと競争が明治の時代を作っていったのでと思います。

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