孝謙上皇が淳仁天皇を廃位にして、第48代の称徳天皇として即位してからの治世について説明します。この時期の最大の話題は弓削の道鏡でしょう。
また、この道鏡を皇位に付けるべしとした宇佐八幡宮の託宣を確かめた和気清麻呂も登場します。これらの人の生末も説明いたします。
第48代称徳天皇の治世
第47代淳仁天皇を廃位したことで、事実上孝謙上皇は皇位に復帰します。これの解釈として孝謙上皇が重祚したこととして、称徳天皇と読んでいます。
この特徴は史上初の出家のままで即位した天皇であることです。その他にも皇太子がふさわしい人物がいないとして決められていません。
和気王の乱
和気王は天武天皇の息子の舎人親王の孫にあたる人です。一時臣籍降下していましたが、再び皇籍に復帰します。天平宝宇8年(764年)の藤原仲麻呂の乱では仲麻呂が軍備を整えていたことを孝謙天皇に伝えます。
この功績で公卿に列します。また淳仁天皇の廃位に当たっては、天皇の居所を取り囲む役を行っています。こんなことから、望みが出てきたのでしょう。
天平神護元年(765年)巫女にまじないを依頼するとともに謀反を計画しますが、計画が露見し、逮捕され伊豆国に流罪になりますが、途中で殺されてしまいます。
#女系天皇は皇統の終わり
過去に4回皇統断絶の危機があった皇室の歴史
26代継体天皇は武烈天皇から、5代10親等離れてます。 48代称徳天皇から、49代光仁天皇は8親等離れてます。 称徳天皇は2回天皇を務められた女性天皇
歴史に学べば、女系天皇はあり得ません。pic.twitter.com/DI28ct4OLR— genチャンネル (@gen49774080) June 19, 2021
道鏡の出世と没落、称徳天皇の崩御
天平神護元年(765年)道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸し、道鏡を太政大臣禅師に任じます。天皇即位にともなう、大嘗会にも僧侶を参加させています。
墾田永年私財法によって開墾が過熱して墾田私有を禁じますが、寺社についてはそのまま認めています。
天平神護2年(766年)海龍王寺で仏舎利が出現したとして、道鏡を法王とします。また、道鏡の弟弓削御淨淨人が中納言に取り立てられます。
称徳天皇は西大寺の拡張、西隆寺の造営、百万塔の政策を行うなど、仏教重視の政策を行い、伊勢神宮、宇佐八幡宮内に神宮寺を建立します。
このようにドンドン仏教重視の政策に精力を注いでしまいます。お父さんの聖武天皇も思いついたように遷都に邁進していましたよね。
庶民としてはたまらないでしょう。しかも段々恐怖政治に近い形になってきます。
神護景雲3年(769年)称徳天皇の異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、流刑にされてしまいます。
そして最後のクライマックスにたどり着きます。
大宰府の主神が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じました。これを確かめるために、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送りますが、和気清麻呂はその託宣は虚偽であると報告しました。
このため和気清麻呂は称徳天皇の怒りを買うことになります。 別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ、因幡員外介として左遷し、大隅国に配流させられました。
神護景雲4年(770年)称徳天皇は病臥して崩御します。宝算53でした。
この間に、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備に奪われ、道鏡は手も足も出なかったようです。
後継として選ばれたのは、称徳天皇の異母妹・井上内親王を妻としていた、白壁王です。かれは、天智天皇の息子である志貴皇子の第6皇子にあたる人です。
不破内親王の事件の時には災いが及ぶのを避けるため自重していたのが幸いでした。一説によれば酒におぼれたようにして、凡庸を通していたそうです。
即位したのはなんと62歳でこれまでの最年長での即位だそうです。
#女系天皇は皇統の終わり
過去に4回皇統断絶の危機があった皇室の歴史
26代継体天皇は武烈天皇から、5代10親等離れてます。 48代称徳天皇から、49代光仁天皇は8親等離れてます。 称徳天皇は2回天皇を務められた女性天皇
歴史に学べば、女系天皇はあり得ません。pic.twitter.com/DI28ct4OLR— genチャンネル (@gen49774080) June 19, 2021
道鏡のその後
道鏡は失脚しても、称徳天皇の御料を守っていたが、下野国薬師寺別当に左遷されます。2年後の宝亀3年(772年)にその地で没しました。
こんな時期ですからたいていは殺されてしまいますが、その点は良かったかと思います。龍興寺に道鏡の墓とされている塚が現在でも残っています。
弟の弓削淨人を含む親族4名は捕らえられて、土佐国に配流されました。
和気清麻呂のその後
和気清麻呂は備前国の出身で、藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側について活躍しており、その頃から少しずつ官位を上げてきております。
本来は宇佐八幡宮の託宣事件では、側近の尼僧和気広虫を使わそうとしていましたが、病弱のため弟の清麻呂が確認することとなったようです。
道鏡失脚後は神護景雲4年(770年)に大隅国から呼び戻され、宝亀2年(771年)には豊前守となりました。
備前国の治水、私墾田について活躍しています。
天応元年(781年)桓武天皇が即位すると能力を買われて、摂津大夫に任ぜられています。ここでも神崎川、淀川の工事、大和川の工事など治水作業に功績を上げています。
更に、民部大輔、民部卿に延暦7年(788年)には中宮大夫になります。延暦3年(784年)長岡京に見切りをつけて平安京への遷都を進言、延暦12年(793年)造宮大夫となります。
延暦15年(796年)ついに公卿まで上り詰め。延暦18年(799年)薨去します。
和気清麻呂は楠木木正成と並ぶ勤皇の忠臣とみられており、皇居平川門の側にも銅像が建てられております。
第48代称徳天皇とは?孝謙天皇重祚による道鏡と和気清麻呂の行方のまとめ
第49代称徳天皇の治世と道鏡と和気清麻呂のその後について説明しました。この宇佐八幡宮神託事件が大きな衝撃を受けたおかげで、女帝というと危ういという印象を与えてしまったようです。
でも、女帝といっても孝謙天皇、称徳天皇があまりにも人間臭いことをしただけで、他の女帝は総じて良く節制して、皇統を守るために努力している様子がわかります。
男性天皇であっても聖武天皇のようにどうも政治には興味を示さなく、ひたすら仏教と遷都に邁進した天皇もいることですので大なり小なり同じことです。
そして道鏡の最後も案外平穏で少し拍子抜けした感じがします。どうして殺されなかったのかわかりませんが、不思議なものですね。
最後に、和気清麻呂です。現代では全く興味を示す人がいませんが、戦前は、皇室を守った大殊勲者としてたたえられているのです。その証拠が皇居にある銅像です。
楠正成は馬に乗った姿ですし、ある程度現代でも知られているのですが、和気清麻呂の方は解説が必要となっています。結果として楠は敗れて、和気は成功したのですからこちらの方が貢献度は高いのですが。
しかもこの人は真面目な実務家のようで、許されて大隅国から帰った後も、配所配所で力を発揮するお手本のような人ですね。
孝謙天皇の時代についてはこちらをご覧ください。
コメント