中心にいたのは、二度も天皇の位についた稀有な女性天皇、第48代称徳天皇(孝謙天皇)、彼女から絶大な寵愛を受け、天皇の座を狙った謎多き僧侶・道鏡(どうきょう)、そして国家の危機を救った勇敢な忠臣・和気清麻呂(わけのきよまろ)です。
この記事では、単なる教科書的な知識ではなく、当時の人々が感じた**「権力、宗教、そして国家のあり方を巡る激しい攻防」**の臨場感を交えながら、道鏡事件の全貌を徹底的に解説していきます。なぜ僧侶が皇位に就こうとしたのか?その野望を止めた清麻呂の命がけの行動とは?ぜひ最後までお読みいただき、当時の人々の息遣いを感じ取ってみてください。
1. 称徳天皇という異彩:二度即位した波乱万丈の女性天皇
物語の主役、称徳天皇(孝謙天皇)は、単なる女性天皇ではありません。彼女の生涯と政治手腕が、後に起こる大事件の舞台装置となりました。
1-1. 仏教国家を支えた孝謙天皇としての最初の治世(749年〜)
称徳天皇は、西暦718年に奈良の大仏を建立した聖武天皇と、奈良仏教文化の礎を築いた光明皇后の間に、**阿倍内親王**として誕生しました。極めて高い出自を持つ彼女は、30歳で第46代孝謙天皇として即位します。
- 東大寺大仏造立事業の完成: 父の悲願であった奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)の造立事業を完成させ、752年には「大仏開眼供養会」を盛大に執り行いました。 これは、仏教の力で国家の安定と繁栄を願うという、当時の日本の国家的な一大プロジェクトのクライマックスでした。
- 積極的な政治介入: 彼女は深く仏教に帰依し、僧侶との交流を積極的に行います。この強い信仰心が、後に道鏡という人物を朝廷の枢要に招き入れる大きな要因となりました。
1-2. 異例の「重祚(ちょうそ)」:再び天皇の位へ
758年に一時退位し太上天皇(上皇)となった孝謙上皇ですが、実権を手放しませんでした。この「院政」的な立場が、新天皇との対立を生みます。
- 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の鎮圧: 孝謙上皇は、当時の権力者であった藤原仲麻呂(恵美押勝)の専横に危機感を抱き、彼を排除するための動きに出ます。764年に仲麻呂が反乱を起こすも、上皇は迅速かつ冷静に対応し、これを鎮圧。この決断力は、彼女の並外れた政治力を証明しました。
- 称徳天皇として再即位(764年): 反乱を平定した後、孝謙上皇は再び天皇の位に就き、称徳天皇と名乗ります。女性天皇が一度退位した後に再び即位する「重祚」は日本史上極めて異例であり、彼女の**「誰にも邪魔させない」という強い意志**と、当時の朝廷の不安定な状況を物語っています。
2. 権力の中枢を揺るがした男:謎多き僧侶・道鏡の台頭と野望
称徳天皇の再即位後、彼女の絶大な信頼を背景に、瞬く間に権勢を極め、一時は日本の皇統を断ち切ろうとした人物がいます。それが、僧侶・道鏡です。
2-1. 称徳天皇の「病」を癒やし、権力への道を切り開く
道鏡は、現在の栃木県にあたる下野国出身の僧侶で、仏教の深い知識と、人々を惹きつける弁舌の才を持っていました。
- 運命の出会い: 彼の運命が大きく変わったのは、称徳天皇(当時、孝謙上皇)の重い病気を治療したことでした。当時の未発達な医療の中で、道鏡の医療知識や祈祷が功を奏したことで、称徳天皇からの**「命の恩人」としての絶大な信頼と寵愛**を得るようになります。
- 異例の昇進: 天皇の信任を背景に、道鏡は僧侶としては異例の**「太政大臣禅師」**という役職を経て、ついに**「法王(ほうおう)」**という特別な地位に就きます。この法王の位は、**天皇に次ぐ、あるいは天皇と同等の権力を持つ**と解釈されるほど、前代未聞の大きな権力でした。
2-2. 「皇位簒奪」の危機!高まる朝廷内の強い反発
道鏡が国家の中枢に食い込み、人事や政策決定に絶大な影響力を振るうようになると、朝廷内外で強い反発が生まれます。
特に、日本の伝統的な**神道を重んじる勢力や、藤原氏などの貴族層**は、仏教の僧侶がここまで政治権力を握り、さらに天皇の位に就こうとする動き(皇位簒奪の動き)は、**日本の国家体制の根幹を揺るがす「最悪の危機」**であると捉えました。
3. 和気清麻呂の登場:命がけの「神託」が国家を救った瞬間
道鏡の野望が頂点に達しようとしていたその時、歴史の表舞台に登場したのが、一人の勇敢な官僚、**和気清麻呂**です。彼の命がけの行動が、道鏡失脚の決定打となりました。
3-1. 道鏡擁立のための「偽りの神託」事件
道鏡を天皇の位に就けることを正当化するため、驚くべき策略が実行されました。
- 宇佐八幡宮からの報告: 九州にある**宇佐八幡宮(現在の宇佐神宮)**から、「道鏡を皇位につければ天下は太平になる」という内容の神託があったと、道鏡派によって報告されたのです。これは、皇位継承の正統性を**「神の言葉」**で裏付けようとする、極めて悪質な政治工作でした。
- 信頼の男の派遣: 朝廷の重臣たちはこの神託を安易に信じられず、神託の真偽を直接確認させるため、**最も信頼できる人物**を宇佐八幡宮へ派遣することにしました。その人物こそが、当時から誠実で知られた和気清麻呂だったのです。
3-2. 宇佐八幡宮神託事件:清麻呂の奏上と野望の終焉
和気清麻呂は、道鏡の怒りを買い、命を奪われるかもしれないという**絶体絶命の危機**を顧みず、宇佐八幡宮へ向かいます。
そして、彼は朝廷に戻り、毅然としてこう奏上します。
「皇位は、天つ日嗣(あまつひつぎ)の子孫(=天皇の血筋)が継ぐべきものであり、臣下である道鏡が皇位に就くことは断じて許されない。これこそが神の真意である。」
和気清麻呂が命がけで伝えたこの**「真の神託」**は、道鏡を支持する勢力に決定的な打撃を与え、彼の皇位への道は完全に閉ざされることになります。この事件を「宇佐八幡宮神託事件」と呼びます。清麻呂のこの勇敢な行動が、**日本の天皇制の伝統を結果的に守り抜く**ことになったのです。
3-3. 忠臣の苦難と名誉回復、そして「平安遷都」への貢献
野望を砕かれた道鏡の怒りはすさまじく、和気清麻呂は激しい報復を受けます。
- 屈辱的な流罪: 清麻呂の名前は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という屈辱的な名前に改名され、遠く大隅国(現在の鹿児島県)へ流刑となりました。
- 劇的な名誉回復: しかし、770年に称徳天皇が崩御すると、後ろ盾を失った道鏡は即座に失脚し、流罪となります。その直後、和気清麻呂は名誉を回復し、京に戻ることが許されました。
- 平安遷都の立役者: その後、清麻呂は新たな天皇である桓武天皇に重用され、**平安京への遷都(794年)**において、その地相調査や建設推進などで大きな役割を果たしました。まさに「国家を救い、新しい時代を築いた忠臣」として、その功績は現代にまで語り継がれています。
4. 事件の終焉と歴史的意義:現代に問いかける普遍的なテーマ
道鏡事件の終焉は、日本の歴史に大きな転換点をもたらしました。この一連の出来事は、現代を生きる私たちにも重要な教訓を与えてくれます。
4-1. 称徳天皇の崩御と「皇統の移動」という大転換
770年、称徳天皇が崩御すると、皇子がいなかったため後継者問題が深刻化します。道鏡を排除した朝廷は、第49代天皇として光仁天皇(こうにんてんのう)を即位させました。
- 天武系から天智系へ: 光仁天皇は、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統ではなく、古くからの天智天皇系の血筋を引く人物でした。この即位は、**皇統における大きな方向転換**であり、後の平安時代への安定的な移行に大きく寄与することになります。
4-2. 称徳天皇・道鏡・清麻呂が私たちに残した「教訓」
この激動の時代が、私たち現代人に問いかけている普遍的なテーマは何でしょうか?
- 宗教と政治の適切な関係性: 道鏡事件は、仏教という**「特定の宗教勢力が国家の政治に過度に介入しようとしたこと」**に対する、強い反省と教訓を残しました。この事件を境に、天皇制において僧侶が権力を握ることには強い警戒心が持たれるようになりました。
- 「国体の守護神」和気清麻呂の信仰: 和気清麻呂は、皇統の正当性を守り抜いた忠臣として、後世の人々から高く評価されました。彼の功績は語り継がれ、京都の護王神社(ごおうじんじゃ)などでは「皇室の守護神」として祀られ、**足腰の健康や厄除けの神**として現在も信仰を集めています。
- 女性天皇の難しさと限界: 称徳天皇は高い政治手腕を持っていたものの、その**個人的な信仰や人間関係が国家の危機に繋がってしまった**という側面も浮き彫りにしました。この事件以降、約850年間、日本の歴史に女性天皇が登場することはありませんでした。
まとめ:激動の奈良時代末期に思いを馳せて
奈良時代末期、日本の歴史は称徳天皇、道鏡、そして和気清麻呂という三人の人物によって、大きな転換点を迎えました。
それは、ただ古い歴史の知識ではありません。そこには「権力と宗教の適切な関係性」「天皇と政治のあり方」「そして個人の信念が国家を救う力」といった、現代の政治や社会にも通じる普遍的なテーマが深く刻まれています。
この複雑で、しかし極めて魅力的な時代に思いを馳せ、歴史の深さを感じてみてはいかがでしょうか?
古代の日本の人物についてはこちらで。古代 – 天水仙のあそび


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