日本の歴史には、時代を大きく変える転換点や、人々の記憶に深く刻まれるドラマティックな出来事が数多く存在します。その中でも、奈良時代末期に起こった一連の事件は、まさに日本の国家体制そのものを揺るがす大事件でした。
中心にいたのは、二度も天皇の位についた稀有な女性天皇、第48代称徳天皇(しょうとくてんのう)、彼女から絶大な寵愛を受けた謎多き僧侶・道鏡(どうきょう)、そして国家の危機を救った忠臣・和気清麻呂(わけのきよまろ)です。彼ら三人の人間関係と、権力、宗教、そして国家のあり方を巡る激しい攻防は、現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれます。
この記事では、奈良時代最大の危機ともいえる「道鏡事件」の全貌を、歴史初心者の方にも分かりやすく、丁寧な語り口で徹底的に解説していきます。称徳天皇の生涯から、道鏡の台頭と失脚、そして和気清麻呂による劇的な政局転換まで、ぜひ最後までお読みいただき、当時の人々の息遣いを感じ取ってみてください。
称徳天皇とは?二度即位した波乱の女性天皇の生涯
まず、物語の主役の一人である称徳天皇がどのような人物だったのか、その生涯を追ってみましょう。
1. 聖武天皇と光明皇后の皇女として誕生
称徳天皇は、西暦718年に、あの奈良の大仏を建立したことで知られる聖武天皇と、奈良時代の仏教文化を支えた光明皇后の間に生まれました。幼い頃の名前は「阿倍内親王(あべないしんのう)」。当時、絶大な権勢を誇っていた藤原氏(光明皇后の実家)とも血縁を持つ、まさに日本最高峰の家柄のご出身でした。幼い頃から聡明で、周囲の期待を一身に受けて育ったことでしょう。
2. 孝謙天皇として初めての即位(749年)と仏教政策
父である聖武天皇が譲位したことにより、阿倍内親王は30歳で即位し、第46代孝謙天皇(こうけんてんのう)となりました。女性天皇として、彼女は非常に積極的な政治手腕を発揮します。特に注目すべきは、父の代から続く仏教を重視する政策を強力に推進したことです。
- 東大寺大仏造立事業の継承と完成: 聖武天皇の悲願であった東大寺の盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう、いわゆる奈良の大仏)の造立事業を孝謙天皇が引き継ぎ、752年には完成を祝う「大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)」が盛大に行われました。これは、仏教の力によって国家の安定と繁栄を願う、当時の国家的な一大プロジェクトだったのです。
- 仏教信仰の深化: 孝謙天皇自身も深く仏教に帰依し、僧侶との交流も積極的に行いました。これが後の道鏡との関係に繋がっていきます。
3. 一時退位し「太上天皇」に
758年、孝謙天皇は突如として従兄弟の淳仁天皇(じゅんにんてんのう)に位を譲り、自身は「太上天皇(だいじょうてんのう)」となります。これは表向きは引退を意味しますが、実際には上皇として政治の実権を握り続ける「院政」のような立場でした。これにより、孝謙上皇は引き続き政治に大きな影響力を持つことになります。
孝謙天皇の「重祚(ちょうそ)」とその背景:日本史上異例の再即位
一度退位した孝謙上皇がなぜ、再び天皇の位に就くことになったのでしょうか?その背景には、当時の政治状況と、ある人物の存在が深く関わっています。
1. 淳仁天皇と孝謙上皇の対立
孝謙上皇が退位した後、新しく即位した淳仁天皇は、当時の有力者であった藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と協力し、孝謙上皇の意向とは異なる独自の政治を進めようとしました。この動きは、実権を手放したくない孝謙上皇との間に、次第に深刻な対立を生み出していきます。
藤原仲麻呂は、光明皇后の甥にあたり、孝謙天皇が太上天皇となった際に淳仁天皇を強く推挙した人物です。彼は次第に権力を掌握し、「恵美押勝(えみのおしかつ)」という名前まで賜るほどでした。
2. 恵美押勝の乱(764年)と孝謙上皇の決断
淳仁天皇と藤原仲麻呂(恵美押勝)の権力拡大に危機感を抱いた孝謙上皇は、彼らを排除するための動きを始めます。これに対し、恵美押勝は764年に反乱を起こしました。これが「恵美押勝の乱」です。
しかし、孝謙上皇は非常に迅速かつ冷静に対応しました。軍を派遣して仲麻呂の反乱を鎮圧し、仲麻呂を討ち取ることに成功します。この乱の鎮圧は、孝謙上皇の政治力と決断力の強さを示すものでした。
3. 重祚して「称徳天皇」に:女性天皇の異例の再登場
恵美押勝の乱を平定した後、孝謙上皇は再び天皇の位に就くことを決意します。そして、新たな元号「神護景雲(じんごけいうん)」とともに、称徳天皇と名乗りました。女性天皇が一度退位した後に再び即位する「重祚(ちょうそ)」は、日本史上でも極めて珍しく、称徳天皇の強い意志と、当時の朝廷が抱えていた特殊な状況(他に有力な皇位継承者がいなかったことなど)を物語る出来事です。
この再即位により、称徳天皇はさらに強力な権力を手に入れ、その後の道鏡との関係が深まっていくことになります。
道鏡とは何者か?称徳天皇に寵愛された謎多き僧侶の台頭と影響
称徳天皇の再即位後、彼女の政治に深く関わり、一時は国家を揺るがすほどの権勢を誇った人物がいます。それが僧侶・道鏡です。
1. 下野国出身の僧侶、称徳天皇の病を癒やす
道鏡は、奈良時代前期の700年頃、現在の栃木県にあたる下野国(しもつけのくに)の出身と言われています。若い頃に仏門に入り、仏教の深い知識と、人々を惹きつける弁舌の才で頭角を現しました。
彼の運命が大きく変わったのは、称徳天皇(この時はまだ孝謙上皇)の病気を治したことでした。当時の医療技術が未発達な中で、道鏡の医療知識や祈祷が天皇の病状を好転させたことで、称徳天皇からの絶大な信頼と寵愛を得るようになります。この出来事が、道鏡の政治的台頭の大きなきっかけとなりました。
2. 法王の位に就き、権勢を極める
称徳天皇からの信任を背景に、道鏡は急速に昇進していきます。僧侶としては異例の「法王(ほうおう)」という特別な地位を与えられ、さらに太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)という役職に就き、政務に深く関与するようになりました。この「法王」という位は、天皇に次ぐ、あるいは天皇と同等の権力を持つものと解釈されるほど、非常に大きな意味を持っていました。
道鏡は、国家の中枢に食い込み、人事や政策決定に大きな影響力を行使しました。一時は、道鏡を天皇の位に就けようとする動きすら表面化し、朝廷内外に大きな動揺が走ったのです。
3. 道鏡への批判と反発の高まり
道鏡が天皇にまでなろうとする動きは、当然ながら朝廷内外から強い反発を招きました。特に、日本の伝統的な神道を重んじる勢力や、藤原氏などの貴族層は、仏教の僧侶が皇位に就くことは、日本の国家体制の根幹を揺るがす危機であると捉えました。このような状況の中、道鏡の権勢を阻もうとする動きが水面下で活発になっていきます。
和気清麻呂の登場と「宇佐八幡宮神託事件」:道鏡失脚への決定打
道鏡の野望が頂点に達しようとしていた時、歴史の表舞台に登場したのが、一人の勇敢な官僚、和気清麻呂です。彼の行動が、道鏡の失脚、そして日本の歴史の流れを大きく変えることになります。
1. 道鏡擁立のための「宇佐八幡宮神託」
道鏡を天皇の位に就けることを正当化するため、驚くべき「神託(しんたく)」が持ち出されました。九州にある宇佐八幡宮(うさはちまんぐう、現在の大分県宇佐市)から、「道鏡を皇位につければ天下は太平になる」という内容の神託があったと報告されたのです。これは、皇位継承の正統性を神の言葉で裏付けようとする、極めて政治的な動きでした。
しかし、朝廷の重臣たちはこの神託を安易に信じようとはしませんでした。そこで、神託の真偽を直接確認させるため、信頼できる人物を宇佐八幡宮へ派遣することになります。その人物こそが、和気清麻呂でした。
2. 和気清麻呂の命がけの奏上:道鏡の野望を砕く
和気清麻呂は、命の危険を顧みず宇佐八幡宮へ向かい、そこで神の真意を問いました。そして、彼は朝廷に戻り、こう奏上します。
「皇位は、天つ日嗣(あまつひつぎ)の子孫(=天皇の血筋)が継ぐべきものであり、臣下である道鏡が皇位に就くことは断じて許されない。」
これは、道鏡の野望を明確に否定する、神からの「真の神託」でした。和気清麻呂が命がけで伝えたこの言葉は、道鏡を支持する勢力に決定的な打撃を与え、彼の皇位への道は完全に閉ざされることになります。この事件を「宇佐八幡宮神託事件」と呼びます。この清麻呂の行動が、結果的に日本の天皇制の伝統を守り抜くことになったのです。
3. 和気清麻呂の苦難と名誉回復、そして平安遷都への貢献
道鏡は、自らの野望を砕かれた怒りから、和気清麻呂に激しい報復を行います。清麻呂の名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という屈辱的な名前に改名させ、遠く大隅国(現在の鹿児島県)へ流刑としました。しかし、清麻呂はそれでも屈することなく、その信念を貫きました。
道鏡の権勢は長くは続きません。称徳天皇が崩御すると、道鏡は失脚し、流罪となります。その直後、和気清麻呂は名誉を回復し、京に戻ることが許されました。
その後、和気清麻呂は桓武天皇に重用され、平安京への遷都(794年)において、その地相を調査し、新都建設を推進するなど、平安時代の幕開けにも大きな役割を果たしました。まさに「国家を救った忠臣」として、その功績は後世に語り継がれることになります。
称徳天皇の死と、その後の皇位継承、そして歴史的意義
道鏡事件の終焉は、称徳天皇の崩御によってもたらされます。そして、その後の皇位継承は、日本の歴史に大きな転換点をもたらしました。
1. 770年、称徳天皇の崩御
770年、称徳天皇は病に倒れ、享年53歳で崩御しました。彼女には皇子が一人もいなかったため、崩御後には深刻な後継者問題が発生します。道鏡の存在が排除された今、新しい天皇を誰にするのか、朝廷内での議論は白熱しました。
2. 光仁天皇の即位と皇統の移動
称徳天皇の死後、熟慮の末、第49代天皇として光仁天皇(こうにんてんのう)が即位しました。光仁天皇は、天武天皇の子孫ではなく、古くからの天智天皇の血筋を引く人物(白壁王)でした。この即位は、奈良時代を通じて続いてきた天武系皇統から、天智系皇統への大きな転換を意味します。
この皇統の移動は、平安時代へと続く日本の政治体制の安定に大きく寄与することになります。
3. 称徳天皇と道鏡・和気清麻呂の歴史的意義
称徳天皇、道鏡、そして和気清麻呂が織りなしたこの一連の出来事は、単なる奈良時代の一幕としてだけでなく、現代にも通じる普遍的なテーマを私たちに問いかけています。
- 宗教と政治の関係性を問う: 道鏡事件は、仏教が国家の政治に過度に介入しようとしたことに対する、強い反省と教訓を残しました。この事件を境に、天皇制において僧侶が権力を握ることには強い警戒心が持たれるようになり、その後の日本の政治における宗教の位置づけに大きな影響を与えました。
- 和気清麻呂の神格化と信仰: 和気清麻呂は、国家の危機を救い、皇統の正当性を守った忠臣として、後世の人々から高く評価されました。彼の功績は語り継がれ、京都の護王神社(ごおうじんじゃ)などでは「皇室の守護神」として祀られ、足腰の健康や厄除けの神として信仰されています。彼の行動は、道義を重んじる精神の象徴として、現在も多くの人々に尊敬されています。
- 女性天皇の役割と限界: 称徳天皇は、女性天皇として極めて高い政治手腕とカリスマ性を持っていた一方で、その個人的な信仰や人間関係が政治に大きな影響を与えてしまうという、当時の社会における女性天皇の難しさも浮き彫りにしました。この事件以降、約850年間、日本の歴史に女性天皇が登場することはありませんでした。
まとめ:称徳天皇とその激動の時代を振り返る
奈良時代末期、日本の歴史は称徳天皇、道鏡、そして和気清麻呂という三人の人物によって、大きな転換点を迎えました。
称徳天皇は、二度も天皇の位に就き、仏教を深く政治に取り入れた、まさに革新的な存在でした。彼女の治世は、寵愛する僧侶・道鏡との関係によって大きく揺れ動きましたが、最終的には和気清麻呂による正義の一手によって、国家の伝統と秩序は守られました。
この時代の出来事は、単なる古代史の一幕として片付けることはできません。そこには「権力と宗教の適切な関係性」「天皇と政治のあり方」「そして個人の信念が国家を救う力」といった、現代にも通じる普遍的なテーマが深く刻まれています。この複雑で魅力的な時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
皇居の気象庁側にアイキャッチにある像があります。この主は和気清麻呂の像です。今ではあまり知られていませんが、戦前までは和気清麻呂は皇室の危機を救った最大の忠臣として讃えられているのです。
孝謙天皇についてはこちらもどうぞ
コメント