幕末の動乱期において、表舞台に立ったのは西郷隆盛や大久保利通といった英雄たちでした。しかし、彼らを支え、時には導いた影の立役者が存在します。その人物こそ、薩摩藩の「国父」こと島津久光です。藩主ではなかったにもかかわらず、久光は藩政を主導し、幕政改革に挑み、最終的に討幕へと踏み切る意思決定を下しました。
本記事では、島津久光の生涯とその時代背景をひもとき、徳川慶喜との複雑な関係と、討幕に至る経緯を詳細に解説します。幕末の政局を動かした知将の実像に迫ります。
藩主にはなれなかったが、藩を動かした「国父」島津久光
島津久光は文化14年(1817年)に、薩摩藩主・島津斉興の五男として誕生しました。幼少より聡明で知られ、天保10年(1839年)には支藩である重富家の家督を相続。幕政への直接関与はありませんでしたが、藩内での発言力は次第に高まっていきます。
嘉永4年(1851年)、兄である島津斉彬が藩主となったことで、久光は藩政の実務から一歩退く形となりました。兄弟の間に表立った対立はありませんでしたが、斉彬が西洋化を推進したのに対し、久光は国学を重視するなど、政治思想には大きな隔たりがあったとされます。
斉彬の急死後、遺言によってその養子・忠義(のちの忠教)が藩主に就任。ここで久光は「国父」として藩政の実権を握り、以後の薩摩藩の進路に決定的な影響を与えていくのです。
幕政改革と公武合体への道:久光の理想と挫折
文久元年(1861年)、久光は幕政改革の実行を目指し、自ら上京を決意します。目的は、幕府と朝廷の関係修復、すなわち「公武合体」の推進でした。このとき久光は朝廷から勅使を伴い、徳川幕府に対して以下の三大要求を突きつけます。
- 将軍・徳川家茂の早期上洛
- 五大藩による政権協議体(五大老)の創設
- 一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の大老職就任
この提案は一旦は受け入れられ、慶喜と春嶽がそれぞれ役職に就任しました。久光の構想は実現に近づいたかに見えましたが、その帰路、東海道で生麦事件が発生します。
生麦事件がもたらした国際問題
文久2年(1862年)、神奈川県横浜市で英国人が薩摩藩士に殺傷される事件が発生。久光一行の行列に対し無礼を働いたという理由でしたが、これが日英関係を緊張させ、後の薩英戦争の火種となります。
薩摩藩の行動は外交的に大きなリスクを生み、久光の改革構想にも陰りが見え始めました。幕府からの圧力も強まり、久光の立場は一層厳しくなっていきます。
参預会議と徳川慶喜との亀裂
文久3年(1863年)、久光の提案により「参預会議」が設立されました。これは朝廷の政策決定に有力諸侯を加えるという画期的な試みで、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、松平容保といった有力大名が参画しました。
しかし、横浜鎖港をめぐって会議は混迷。久光・春嶽らは鎖港反対(武備充実優先)、慶喜は鎖港支持(外交重視)という立場で対立。議論は平行線をたどり、参預会議はわずか半年で崩壊してしまいます。
この一件を境に、久光と慶喜の間には深い溝が生まれ、久光は幕府そのものに不信を抱くようになっていきました。
四侯会議と討幕への決断
慶応3年(1867年)、島津久光は松平春嶽、山内容堂、伊達宗城とともに「四侯会議」を開きました。主な議題は、兵庫の開港問題と長州征討の処遇でした。
しかし、将軍・慶喜は長州処分の決定を優先し、兵庫問題の棚上げを図ります。朝廷の裁定も曖昧となり、久光は再び幕府主導の政策に振り回される結果となります。
度重なる裏切りや不信により、久光は幕府との協調路線に見切りをつけ、薩摩藩は倒幕に大きく舵を切ることになりました。
維新後の久光と明治政府との距離
王政復古後、久光は左大臣に任命されましたが、実際には政府の意思決定にはほとんど関与できませんでした。明治新政府が進めた「廃藩置県」や「版籍奉還」などの政策に対して、久光は懐疑的であり、国学的な立場から「別の幕藩体制」を構想していた可能性もあります。
その結果、久光は新政府内で孤立し、薩摩藩内でも大久保や西郷ら下級武士の勢力が台頭。彼らによって久光の影響力は削がれ、政府からも距離を置かれるようになります。
明治10年(1877年)に西南戦争が勃発するも、久光は中立を維持。明治20年(1887年)12月、失意のうちにこの世を去ります。
まとめ:理想と現実のはざまで生きた久光
島津久光は、幕末における最大の改革者でありながら、最終的には保守派として新時代に取り残されるという皮肉な運命をたどりました。
幕藩体制の再構築を目指していた彼にとって、明治政府の中央集権的近代化政策は受け入れがたいものであり、その結果として政治の第一線から退くことになります。
とはいえ、徳川幕府に対する最後の一撃を与える土台を築いたのは間違いなく久光の手腕でした。島津久光の生涯を通じて、保守と革新、伝統と変革の間で揺れ動いた日本の姿が浮かび上がります。
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