島津久光、徳川慶喜との軋轢により幕府を倒した薩摩藩の国父の実像

歴史人物

島津久光は、薩摩藩の藩主にはならなかったものの、国父としての待遇を受けて、実質的に藩の運営を左右してきた人です。

幕末において何度か幕政改革を試みながら受け入れられずに討幕に舵を切った国父の実像を解説します。

 

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島津久光、徳川慶喜との軋轢により幕府を倒した薩摩藩の国父の生涯

文化14年(1817年)10月24日、鹿児島城において誕生する。

文政11年(1828年)斉興が烏帽子親となり元服。

天保7年(1836年)千百子と婚礼の式を挙げる。

天保10年(1839年)重富家の家督を相続。

嘉永4年(1851年)斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となる。

弘化4年(1847年) 軍役方名代を仰せつかり、海岸防備を任される。

安政5年(1858年)遺言により忠教の実子・忠徳が藩主に就任する。

文久元年(1861年)「国父」として、藩政の実権を掌握する。

文久2年(1862年) 公武合体運動推進のため上京する。江戸に勅使随従。生麦事件。

翌文久3年(1863年)薩英戦争。

慶応2年(1866年)イギリス公使ハリー・パークスの一行を鹿児島に迎える。

慶応3年(1867年)四侯会議。

明治4年(1871年)鹿児島・山口・高知3藩の兵力で御親兵の設置が決定。

明治5年(1872年)明治天皇に意見書を奉呈する。

明治6年(1873年)左大臣となるが意思決定からは排除。

明治8年(1875年)、左大臣を辞す。麝香間祗候を命じられる。

明治10年(1877年)西南戦争が勃発。中立を守る。

明治20年(1887年)12月6日に死去、享年70。

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島津久光、徳川慶喜との軋轢により幕府を倒す決断をした経緯

島津久光の行動を時系列に見ていくと、最初は幕藩体制の維持、強化を志向していたのが、だんだん幕藩体制では難しいと感じるようになった経緯がわかります。

 

文久の改革における島津久光の活躍 (文久2年 1862年)

朝廷に幕政改革を要求して、直接勅使に随従して江戸に下る。その時の要求事項としては、次の通りでした。

1.将軍・徳川家茂の上洛

2.沿海5大藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩)で構成される五大老の設置

3.一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽の大老職就任

これによって、一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政治総裁職が実現した。

つまり、この時においても島津久光は幕藩体制の枠の中で改革を実現しようとしていました。また一橋慶喜も高く評価して、期待していたようです。

一橋慶喜にしても、表舞台に立つ契機となったので、感謝してもよかったはずなのです。これによっていったんは成功裏に終わったのですが、その帰りに大変なことが起こってしまいます。

東海道を帰京の途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)でイギリスの民間人4名と遭遇し、久光一行の行列の通行を妨害したという理由で随伴の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件が起こります。

 

参預会議(文久3年 1863年)

久光の建議によって朝廷会議(朝議)に有力諸侯を参与させることになり、一橋慶喜、松平春嶽、前土佐藩主・山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城、会津藩主・松平容保(京都守護職)が朝議参預を命じられる。

また、島津久光も元治元年(1864年)1月14日に参預に任命されます。

薩摩藩の公武合体論を体現した参預会議が成立するが、孝明天皇が希望する横浜鎖港をめぐって、限定攘夷論(鎖港支持)の慶喜と、武備充実論(鎖港反対)の久光・春嶽・宗城とのあいだに対立が生じる。

結果的に久光ら3侯が慶喜に譲歩し、幕府の鎖港方針に合意したものの、両者の不和は解消されず、参預会議は機能不全に陥り解体します。

当初一橋慶喜も、横浜鎖港であったはずなのですが、他の大名のことをあまり評価していなかったようで、どうも議論で負かしてしまおうという姿勢がみられるようです。

やはり徳川の看板を背負っていて、外様大名のような者の意見など聞きたくないという感じが見えていたのではないかと思います。

ここらあたりから様子がおかしくなってきます。一橋慶喜は島津久光の軍事力、財力を過小評価していたと思われます。

四侯会議(慶応3年 1867年)

島津久光、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに四侯会議を開きます。開港予定の兵庫開港問題と、長州征伐の休戦問題を議論することとしていた。

ところが、将軍慶喜は長州の処分問題を先決すべきとしていたことに対して、兵庫開港問題を先決すべきとして主張。

朝議の結果は、2問題を同時に勅許するというものだったが、慶喜の意向により長州処分の具体的内容は不明確であった。

こんなことの繰り返しで、これまで幕府を立てて議論を尽くしていても、慶喜の政策の進め方に不信感を得たのでしょう。

もはや幕府とは一緒にやっていけないという感触を持つことになってしまいます。慶喜としては誤算だと思うのは、島津久光、薩摩藩の軍事力、財力を過小評価していた節があることです。

これによって、薩摩藩は討幕路線に舵を切ってしまいます。

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島津久光、徳川慶喜との軋轢により幕府を倒した薩摩藩の国父の立ち位置

島津久光は兄の島津斉彬と家督を争うことになってしまいましたが、個人的な関係は決して悪くなかったようです。

どちらもお互いの能力を評価していましたし。藩主の斉彬としても藩内での重用しておりました。

ただ、志向的には相当開きがあったようです。兄の斉彬は洋学志向ですので、外国のものを積極的に取り入れてきております。

政治体制についてはどのように考えていたか発揮できる前に亡くなってしまいましたので、近代政府についての考え方まで持っていたかどうかは判別しません。

一方、島津久光は国学中心ですので、幕府を倒したのちも、別の幕藩体制を志向していたのではないかと思います。

そのため、明治政府が行う、廃藩置県、版籍奉還などの近代政府を目指した施策にはついていけなくなります。

本来はそのことに気がつくべきだったのでしょうが、戊辰戦争で活躍したのは、主に下級武士であったことから、藩内の権力闘争で旧来の勢力が一掃されてしまします。

また、力の源泉であった軍事力も御親兵制度によって、政府に吸い上げられてしまい、もはや手足を奪われた状態になってしまうわけです。

最後まで大久保、西郷に騙されたといっていたのはこういうことだったのですね。

 

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島津久光、徳川慶喜との軋轢により幕府を倒した薩摩藩の国父の実像のまとめ

島津久光は実質的に徳川幕府を倒すことになった中心人物です。それでも、かなりの間は幕藩体制の維持に尽力していた様子がわかります。

それでも、徳川幕府の体制、徳川慶喜が考える体制についてけなくなったことが分かった時、ついに決断してしまいます。

幕府崩壊後もある意味で別の幕藩体制を考えていたのではないでしょうか。

その点が、明治政府を形づくった人々と大きなギャップを生じ、地位としては遇されても、政府への関与ができなくなったようです。

何事も全てがうまくいくとこはないようですね。

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