福沢諭吉は一万円札の図柄にも取り入れられているとても有名な幕末から明治にかけての蘭学者であり、著述家、思想家、教育者でもあります。「学問のすすめ」などの著作も多数あります。
また慶應義塾大学の創立者でもあります。福沢諭吉がどのように世に出てきたかを解説します。
福沢諭吉の最初の転機は大阪の適塾で学んだこと
天保5年(1835年)摂津国大阪堂島の中津藩蔵屋敷で福沢百助と於順の次男として生まれます。天保6年(1836年)父親が亡くなったため、大阪から中津に戻ります。
5歳ごろから、漢学、剣術などの取得に努めます。やはり武士の子ですか一通りは習得しなければいけません。安政元年(1854年)長崎に蘭学を学びます。長崎では砲術家の山本宅からオランダ通詞のもとに通います。
福沢諭吉は大阪の適塾で学びやがて塾頭へ
安政2年(1855年)中津に戻るようにとの連絡を受けますが、大阪に向かい適塾で学ぶことになります。この後、腸チフスに罹り、兄が亡くなり家督を継ぐときに一時中津に戻りますが、後は大阪にとどまります。
安政4年(1857年)には適塾の塾頭にまでなります。
安政5年(1858年)、中津藩から江戸の藩邸の蘭学塾の講師になるため、江戸出府を命じられます。
もともと中津藩江戸藩邸では第三代藩主奥平昌鹿の影響で蘭学が盛んにおこなわれており、ここで前野良沢、中川順庵、杉田玄白が「ターヘル・アナトミア」の解読を始めたのはここであった。
その後、中津藩の蘭学は衰退しましたが、当主の祖父の奥平昌高が蘭学研究に熱心で、杉亨二を蘭学教授として招いていました。
ところが、ペリー来航の対応を巡って、当主の奥平昌服と昌高が対立し、杉亨二の辞任につながってしまいます。
代わりに薩摩藩蘭医松木弘安(寺島宗則)が教授となっていましたが、薩摩藩主の帰国に随行することになってしまいます。そこで、適塾の塾頭をしていた福沢諭吉に白羽の矢が立ったのです。
福沢諭吉横浜に出かけて世界は英語で動いていることを実感する
安政6年(1859年)に転機が訪れます。日米修好通商条約で外国人居留地となった横浜に出かけますが、オランダ語では外国人に全く役に立たず、英語でないと使い物にならないことを実感してしまいます。
理屈で考えれば大英帝国が世界を牛耳っている時代でしたので、その通りですが、それが実感として分かったということです。そこで英語、英学をまなぶことになります。
長崎の福沢諭吉を見なさい😢 pic.twitter.com/Kn4wn3YMmY
— 福田陽二郎 (@perceptualreco) July 17, 2021
咸臨丸によるアメリカ訪問など外国訪問で見聞を広げる
同年、日米修好通商条約の批准の交換とため、幕府使節団をアメリカに派遣することになります。幕府の正使、副使はアメリカの軍艦でいきますが、その他の随員は咸臨丸で出かけることになります。
咸臨丸によるアメリカ訪問
福沢諭吉は軍艦奉行木村摂津守の従者として加わります。この船には勝海舟も、中浜万次郎も乗船していました。しかし、勝海舟とは軍艦奉行木村摂津守と関係が悪い影響もあり、福沢とも反りが合わなかったようです。
この旅行の後は、すっかり英語に切り替わって仕事をするようになっています。さらに「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用されます。
幕府の欧州使節団にも参画
文久元年(1861年)幕府の欧州使節団にも翻訳方として参画することになります。年末に今度は西回りで、英国の船で出発します。
香港、シンガポールからスエズに到着し、陸路でカイロ、アレキサンドリアまで行き、海路でマルセイユに着きます。そこからパリに到着します。
この使節団は、イギリスのロンドン、オランドのユトレヒト、プロイセン、ロシアのペテルスブルグを回ってパリにもどり、さらポルトガルのリスボにンまで足を延ばしています。この内容を西洋事情、西航記にまとめています。
帰ってきた後は、文久2年(1862年)12月の英国交換焼き討ち事件とか文久3年(1863年)7月の薩英戦争が起こり、その関係の翻訳作業に没頭されることになります。
軍艦受け取りのために再度のアメリカ訪問
慶応3年(1867年)アメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため幕府使節団の随行メンバーに加わることになります。今回はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンを訪れることができました。
その後これらの旅をまとめて、西洋旅案内を書き上げました。
アリスと福沢諭吉 1860.1.1#oldphotography #sanfrancisco pic.twitter.com/fs6yQCof0F
— 杉本健太郎 / Kentaro Sugimoto (Book Editor) (@hippies21th) July 13, 2021
福沢諭吉の慶應義塾はどのように設立したか
福沢が着任した時は江戸築地鉄砲洲(中央区明石町)の中津藩中屋敷からスタートしますが、文久元年頃から芝新銭座(港区浜松町)に移ります。また文久3年ごろから中屋敷内に移転します。
慶応2年には紀州藩から多数の学生を受け入れることになり、塾舎を建設し「紀州塾」と称していました。しかし築地一隊が外国人居留地区となったため、また移転することになります。
慶応4年から明治3年まではまた芝新銭座に塾を移します。越前丸岡藩の土地400坪を購入して設立します。この頃に元号をとって慶應義塾と名付けています。
修身論、経済、歴史、地理、窮理、算術、文典などを教えていました。この頃で塾生は22、3人ぐらいです。
どうやら、福沢諭吉もやっと天職を見付けたようで、この塾の経営については熱心に取り組んでいたようです。また、三度の海外訪問で、大量の書籍を購入して帰国しており、蔵書も相当充実していたようです。
福沢諭吉も最初はこんな小さな館(それでも十分に立派だけど)から始めた。
独立自尊
半学半教
社中協力
の精神が、彼の遺した素晴らしいものであり、建物はその意志を受け継いだ人達がいたからできたもののに過ぎない。 pic.twitter.com/3nFHzxo4S9— 山本秀樹/Hideki Yamamoto (@Amo846) July 14, 2021
福沢諭吉とは何した人?その功績は?修業時代から慶應義塾の設立へのまとめ
福沢諭吉の修業時代、蘭学を生かした通詞としての海外訪問、さらには英語に目覚め、慶応義塾を設立するまでを説明しました。
幕末の人といっても、福沢諭吉は尊皇攘夷も徳川幕府の争いも蚊帳の外ですから、他の人のように派手な立ち回りもありません。
しかし、自分の与えられた環境を生かして、自らの道を決めていったことは、称賛に値しますね。やっと自分の生きがいを見つけて、教育、思想分野に道を見付けたようです。
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