西郷隆盛の明治政府離脱から西南戦争まで|最後の戦いとその敗因を徹底解説

歴史人物

明治維新の立役者の一人として知られる西郷隆盛は、明治政府内での役割を終え、故郷鹿児島に戻り、そして最後の戦いである西南戦争へと歩みを進めていきます。本記事では、西郷がなぜ明治政府を辞して私学校を設立し、西南戦争に至ったのか、その背景や経緯、そして敗因に至るまでを詳しく解説します。

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西郷隆盛と明治政府の確執|政変の始まり

明治4年から6年にかけて、岩倉具視を中心とした特命全権大使団(岩倉使節団)が条約改正のために海外へ派遣され、政府中枢は不在となります。三条実美が太政大臣として留守政府を率いることになりますが、実質的な機能は限定的でした。

それでも、官制、軍制、警察制度などの改革が進められ、明治5年には兵部省が廃止されて陸軍省と海軍省が設置され、御親兵も近衛兵へと組織変更されました。この頃、西郷隆盛は陸軍元帥兼参議に任命されています。また、明治6年には徴兵制が導入され、軍制の近代化が進みます。

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征韓論と政変|辞職、そして帰郷

この時期から、朝鮮問題(征韓論)が政府内で議論の中心となります。李氏朝鮮は明治政府からの国書の受け取りを拒否しており、居留民の安全や国交正常化のために使節派遣が検討されました。西郷は自ら朝鮮に赴くことを望みましたが、政府内で意見がまとまらず、ついに西郷は職を辞して鹿児島に戻ります。

この「明治六年の政変」では、西郷とともに600名以上の政治家・軍人・官僚が辞任し、明治政府の分裂を象徴する出来事となりました。

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鹿児島での私学校設立と士族の不満

明治7年、西郷は帰郷後、多くの若者の指導と統制を目的に「私学校」を設立します。大山綱良、大久保利通らの支援を受けたこの学校は、士族教育と自治組織として鹿児島県内で一定の機能を果たします。

しかし、明治9年には廃刀令、金禄公債証書条例が施行され、士族の特権が廃止されることになります。これを契機に、全国で士族反乱が勃発。熊本の新風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱などが相次ぎます。

西郷はこれらの動きに共感を寄せつつも、直接行動は取らず、温泉地での隠棲や狩猟に時間を費やしていたとされます。

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西南戦争の勃発|政府との決裂

明治10年、政府は鹿児島での反乱を警戒し、火薬庫からの火薬搬出と24名の巡査派遣を実施。しかし、私学校側はこの動きを西郷暗殺の前兆と捉え、火薬庫を襲撃してしまいます。これにより、武力衝突は避けられない状況となり、ついに西南戦争が始まります。

熊本城攻防戦(2月)、田原坂の戦い(3月)、人吉・宮崎への転戦(5〜6月)を経て、9月24日、西郷は鹿児島・城山で自刃。享年51歳で、その生涯を閉じます。

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西南戦争の敗因を考察する

日本最後の内戦となった西南戦争の敗因は、以下の通りです。

  1. 熊本城攻略に手間取り、時間を浪費したこと:迅速に進軍していれば、他地域の呼応も見込めた可能性がありましたが、熊本城に固執した結果、政府軍に体勢を立て直す猶予を与えてしまいました。
  2. 武器・弾薬の不足:薩摩軍はスナイドル銃を装備していたものの、弾薬の製造設備が政府により鹿児島から撤去されており、持久戦に耐える補給体制を欠いていました。
  3. 兵站と輸送の劣位:政府軍は海軍力を活かして物資・兵員の輸送を迅速に行えた一方で、薩摩軍は徒歩による陸路に依存し、兵站線の脆弱さが戦線を消耗させました。
  4. 通信手段の格差:政府軍は電信を駆使して迅速な情報伝達と命令系統の確立が可能でしたが、薩摩軍は人による伝令に頼るしかなく、戦局に即応する柔軟性を欠いていました。
  5. 士族の内発的限界:薩摩軍の中心を成した士族層は個々の勇猛さには優れていたものの、近代戦における組織的戦術の運用には不慣れであり、官軍の近代的軍制に対抗しきれませんでした。
  6. 戦略的構想の欠如:西郷自身が当初は全面衝突を望んでいなかったこともあり、全国的な士族との連携や外交的な根回しが不十分で、孤立無援の状況に陥っていきました。

総じて、士気や忠誠心は高かったものの、時代が要請する近代的な軍事・政治・物流の要件を満たしていなかったことが、薩摩軍を敗北に導いた最大の要因と言えるでしょう。

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西郷の戦略と「誤算」

西郷隆盛は本来、戦略家であり調略を得意とする人物でした。戊辰戦争では多くの藩と連携し、無血開城を実現するなど巧妙な策を展開しました。しかし、西南戦争ではそのような調略を行わず、正攻法での戦いに突入しています。

この背景には、急な私学校暴発により準備が整っていなかったこと、政府の警戒が早すぎたことなどが考えられます。実際、西郷が「しまった」と言ったという証言も残されており、不本意な戦争突入であったことが示唆されています。

もし、東京を海上から急襲するなど別の手法をとっていれば勝機があったかもしれませんが、当時の政府の海軍力を考えれば、かなりの冒険策でした。

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まとめ|西郷隆盛の最期に学ぶべきもの

明治政府を辞して故郷に戻った西郷隆盛は、私学校設立を通して士族の支えとなりながら、最終的に西南戦争という大きな武力衝突に至りました。その背景には明治政府との路線対立、士族の不満、時代の変化といった複合的な要因が存在します。

西南戦争は、日本における士族の終焉と、明治国家の中央集権化を象徴する出来事です。西郷の悲劇からは、理想と現実のギャップ、戦略の重要性、そして「時」を見極めることの難しさが学べるのではないでしょうか。

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