織田信長がこの世を去り、天下が再び乱れ始めた時代。その中で着実に力をつけ、豊臣秀吉に次ぐ実力者となったのが徳川家康です。しかし、家康はすぐに天下を獲りにはいきませんでした。なぜ彼は、秀吉のもとでNo.2の道を選んだのでしょうか?
この記事では、歴史にあまり詳しくない方にも分かりやすく、豊臣政権下で家康がどのようにして力を蓄え、天下人へと駆け上がっていったのか、その巧みな戦略と処世術を、語りかけるように丁寧にご紹介します。
家康の着実な歩みを知ることで、実力をつけた者が次にどう動くべきか、現代の私たちにも通じるヒントが見つかるかもしれません。さあ、一緒に家康の天下取りへの道のりを辿ってみましょう。
実力は互角?徳川家康と豊臣秀吉の直接対決「小牧・長久手の戦い」
家康の力を天下に示した最初の大きな出来事が、天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」でした。この戦いで家康は、当時、破竹の勢いであった豊臣秀吉の大軍と互角以上に渡り合い、その武威と、彼に従う家臣たちの結束力の強さを見せつけました。
もしこれが戦国時代の真っ只中であれば、どちらかが滅びるまで戦いは続いたかもしれません。しかし、長引く戦乱に世の中全体が疲れ果てていた時代。家康もまた、大きな決断を迫られます。
なぜ戦いをやめたのか?家康の現実的な判断
実は当時、家康の領国は地震や大雨といった天災に見舞われ、財政的に非常に苦しい状況でした。田畑は荒れ、これ以上戦いを続ける体力は残されていなかったのです。
一方で、秀吉は圧倒的な経済力と動員力を誇ります。戦術では勝てても、国力を含めた総力戦ではいずれ不利になる。家康は冷静にそう判断したのでしょう。
戦って勝てない相手ではない。しかし、その先に待っているのは、さらなる混乱と疲弊した国かもしれない…。家康の脳裏には、彼が掲げた旗印「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」(汚れたこの世を離れ、平和な浄土を求める)という誓いの言葉がよぎったのかもしれませんね。
こうして家康は、秀吉に臣従する道を選びます。これは決して単なる敗北ではなく、未来を見据えた戦略的な選択だったのです。
No.2としての生存戦略!豊臣政権下での家康の巧みな立ち回り
家康の臣従を受け入れた秀吉も、彼の力を高く評価し、最大級の敬意をもって遇しました。秀吉は家康を力で押さえつけるのではなく、味方として取り込むことで、自らの政権を盤石にしようと考えたのです。
- 天正14年(1586年):正三位に叙任。本拠地を浜松から駿府城へ移します。
- 天正15年(1587年):従二位・権大納言に昇進。関東・奥羽の監視役という重責を任されます。
秀吉は家康を豊臣政権の重鎮として遇し、家康もそれに応えて関東の雄・北条氏に秀吉への恭順を促すなど、いわば「Win-Win」の関係を築こうとしました。(結果的に北条氏は抵抗し、滅亡してしまいますが…)
250万石への大出世!「関東移封」の真意とは?
天正18年(1590年)、北条氏が滅亡すると、秀吉は家康に大きな命令を下します。それが「関東移封」です。
これは、家康が代々治めてきた駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の5か国から、新たに武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総など関東8か国へ領地を移すというものでした。これにより、家康の石高は120万石から一気に250万石へと倍増します。
この移封については、「秀吉が家康を中央から遠ざけ、まだ統治が不安定な関東で力を削ごうとした」という見方もあります。しかし、見方を変えれば、日本の中心地となりうる広大な関東平野と、東国の抑えという重要な役割を、最も信頼できる家康に託したと考えることもできます。秀吉にとって、家康はそれほど重みのある存在だったのです。
国力を温存できた「朝鮮出兵」
文禄元年(1592年)から始まった秀吉の「朝鮮出兵」。この戦いは、多くの西国大名たちに大きな負担を強いました。
しかし、幸いなことに、家康をはじめとする関東・東北の大名は、出兵の拠点である九州の名護屋城まで軍を進めたものの、実際に朝鮮半島へ渡ることはありませんでした。これにより、西国大名が疲弊していくのを横目に、家康は自らの国力を温存することに成功します。これもまた、結果的に家康の天下取りを後押しする一因となりました。
【⑥名護屋城跡/佐賀】
秀吉の朝鮮出兵の際に拠点となった城。何故か野営地みたいな場所を想像をしていたんだけどまさかの大城下町が築かれていたとは…!
本丸に辿り着くと海が広がっていて色んな思いが駆け巡りました🥺
ガイドさんが休止中だったのでいつかリベンジしたい!#30日歴史旅チャレンジ pic.twitter.com/g8yMzr6r3h— 加治まや (@maya_kaji) July 6, 2021
ツイートにもあるように、名護屋城は単なる陣地ではなく、全国から大名が集まり、巨大な城下町が形成されるほどの一大拠点でした。この大規模な事業に参加しながらも、最前線での消耗を免れた家康の立ち位置は、非常に幸運だったと言えるでしょう。
豊臣家の弱体化を招いた「豊臣秀次事件」
文禄4年(1595年)、豊臣政権を揺るがす大事件が起こります。秀吉が、後継者として関白の位に就けていた甥の豊臣秀次に謀反の疑いをかけ、高野山へ追放。ついには切腹を命じ、その妻子や家臣たちまでも処刑した「豊臣秀次事件」です。
一般的には、その2年前に側室の淀殿との間に待望の実子・秀頼が生まれたことで、将来の争いの種を摘むために秀次を排除した、と言われています。しかし、この非情な決断が、結果的に豊臣政権の命取りとなりました。
もし秀次が生きていれば、秀頼が幼いうちは秀次が政権を担い、豊臣家は安泰だったかもしれません。たとえ将来二人が対立したとしても、それは豊臣家内部の問題で済みました。しかし、秀吉は自らの手で後継者の選択肢を断ち切ってしまったのです。これにより、豊臣家に何かあった場合、頼れるのは家康しかいないという状況が生まれてしまいました。
水の郷「八幡堀」の過去知ってますか💁❓
①豊臣秀次(秀吉の甥)によって、町の発展をと八幡堀と琵琶湖を繋いだ
②汚水による公害化で埋め立て予算が集まるが市民の清掃活動で守られる「死に甲斐のあるまち」をまちづくりのコンセプトに人の想いが紡いだ景色。
📍滋賀県近江八幡市📸by @motoki_film pic.twitter.com/9COJj8PGh9
— HISTRIP|古き良き日本の魅力旅を発信中!! (@HISTRIP_JPN) July 4, 2021
このツイートが紹介するように、秀次は近江八幡の城下町を発展させるなど、優れた為政者としての一面も持っていました。彼を失ったことは、豊臣家にとってあまりにも大きな損失だったのです。
ついにその時が来た!秀吉死後、天下への布石
慶長3年(1598年)、天下人・豊臣秀吉が病に倒れ、その生涯を閉じます。死の直前、秀吉は幼い秀頼の将来を案じ、有力大名による「五大老」と、実務を担う「五奉行」という制度を定め、彼らに秀頼の後見を託しました。
機能しなかった「五大老・五奉行制度」
五大老は、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家という、そうそうたる顔ぶれです。秀吉は彼らが互いに牽制し合うことで、権力のバランスが保たれると考えたのでしょう。
しかし、これはしょせん気休めに過ぎませんでした。各大名の石高を見てみると、その力の差は歴然です。
- 徳川家康:250万石
- 毛利輝元:120万石
- 上杉景勝:120万石
- 前田利家:83万石
- 宇喜多秀家:57万石
家康の石高は、他の4人を合わせた石高に匹敵するほど突出していたのです。この圧倒的な実力差の前では、制度などあってないようなものでした。
着々と影響力を強める家康
秀吉の死後、家康は五大老の筆頭として、天下の差配を始めます。秀吉が生前禁じていた大名同士の私的な婚姻を推し進めるなど、巧みに味方を増やし、その影響力を強めていきました。
もちろん、石田三成ら五奉行は「秀吉様の遺言に背くものだ!」と猛反発します。しかし家康は、表向きは秀頼公を敬い、礼を尽くす姿勢を崩しません。「すべては豊臣家のため」という大義名分を掲げながら、着々と自分の思う通りに事を進めていくのです。
家康は、焦らずとも、時が来れば自然と天下は自分の元に転がり込んでくると確信していたのかもしれません。そして、その思惑通りに時代は動いていきます。
初めて大阪城みました。
素晴らしかった✨ pic.twitter.com/CLHMJ2jXUu— DOLLY℗ ドリー (@dollyfunklove) July 5, 2021
この大阪城こそ、秀頼が座する豊臣政権の中心地。しかし、その権威も、家康の巨大な実力の前では、徐々に影が薄くなっていくのでした。
天下分け目の決戦!「関ヶ原の戦い」へ
慶長5年(1600年)、ついに歴史が大きく動きます。家康は、五大老の一人である会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いて会津征伐へと向かいます。これはあくまで豊臣家の名のもとに行われる公式な出兵でした。
家康を追い詰めた石田三成の策
家康が江戸に到着した頃、この隙を突いて、五奉行の石田三成が毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、「打倒家康」の兵を挙げます。これは、家康を東国へおびき出し、その留守に西国で挙兵するという、三成と上杉家の軍師・直江兼続が仕組んだ壮大な作戦だったと言われています。
三成の思惑通り、家康は東西から挟み撃ちにされる危機に陥りました。しかし、三成には大きな誤算がありました。
なぜ豊臣恩顧の大名は家康についたのか?
三成の最大の誤算は、秀吉に恩を受けたはずの豊臣恩顧の大名たちが、こぞって家康側についてしまったことです。加藤清正や福島正則といった武断派の大名たちは、かねてから文治派の三成と対立しており、彼に従うことを良しとしませんでした。
人望の面で三成に勝る家康の周りには、自然と人が集まったのです。それだけ家康の度量や包容力が大きかった証拠とも言えるでしょう。
こうして会津へ向かっていた討伐軍は、反転して西へ。家康率いる「東軍」と、三成率いる「西軍」による、天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」の火蓋が切って落とされたのです。
戦いの実態は「豊臣家中の内乱」だった
この戦いは、よく「豊臣vs徳川」の戦いと見られがちですが、実態は少し違います。総大将を見ても、東軍は徳川家康、西軍は毛利輝元と、どちらも豊臣家の五大老。つまり、これは「豊臣政権内部の勢力争い」だったのです。
そのため、豊臣家の当主である豊臣秀頼やその母・淀殿は、どちらにも味方せず、静観の構えをとりました。これが三成にとってはさらなる誤算となります。もし「秀頼公は西軍にあり」というお墨付きがあれば、戦況は大きく変わっていたかもしれません。
戦いは当初、地の利を得た西軍が優勢に進めました。しかし、戦の趨勢を見守っていた小早川秀秋が、突如として西軍を裏切り、東軍に寝返ったことで勝敗は一瞬にして決しました。
関ヶ原町指定史跡松尾山城跡
小早川秀秋陣地跡としても国指定史跡になっており美濃国最大級の山城と言われます。
関ヶ原合戦で小早川隊1万5千人の陣地になっていた城跡に曲輪や堀切、土塁が現在でも良好に残っていて見応えがあります。
麓に駐車場があり約30分で主郭です。 pic.twitter.com/0bNq5Ikz0d— 岐阜お城研究会代表 (@shirosukiGifu) July 5, 2021
小早川秀秋が陣を敷いた松尾山は、関ヶ原の戦場全体を見渡せる絶好の場所でした。彼の一挙手一投足が、戦いの行方を左右する重要なカギを握っていたのです。
この勝利により、家康は事実上の天下人としての地位を確立しました。豊臣家は領地を失わずに済みましたが、その権威は大きく失墜し、日本は徳川家康を中心とする新たな時代へと突入していくことになります。
まとめ:徳川家康の天下取りに学ぶ「待つこと」の重要性
今回は、大大名となってからの徳川家康が、豊臣政権下でどのように立ち回り、天下を手にしたのかを見てきました。
家康の行動は、一貫して「慎重」でした。彼は決して焦らず、No.2の立場に甘んじながらも着実に力を蓄え、ライバルが自滅していくのを待ち、機が熟すのをじっと待ったのです。
関ヶ原の戦いでは、敵の策にはまり危うい場面もありましたが、それまでに築き上げてきた人望と信頼が、彼を勝利に導きました。
すぐに結果を求めがちな現代ですが、時には家康のように、じっと耐え忍び、大局を見て行動することの重要性を、彼の生き様は教えてくれているのかもしれませんね。
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