東京養育院廃止の危機を渋沢栄一はどのように切り抜けたか

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渋沢栄一は東京養育院の経営に積極的にかかわりあって、最終的には50年間も院長を続けることになります。

しかしこの養育院は1881年(明治14年)に廃止の危機を迎えることになります。簡単に言えば東京府の歳出カットなのですが、渋沢栄一はこの危機にあたり、どのような手段で養育院を守ることができたのでしょうか。

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東京養育院はどのような経緯で設立されたのでしょうか

東京養育院の創設の発端は、そもそも、困った人々を救うために作ったわけではありませんでした。

明治の代になって、これまでの価値観がすべて変わってしまいました。更に、戦争が続いたこともあり、江戸の町にも家の無い人があふれかえることになるのです。

何もなければそれでもよかったのかもしれませんが、1872年(明治5年)ロシアの皇太子アレクセイ大公が日本に立ち寄ることになりました。

実際には10月13日に横浜に接岸し、22日に新富町で歌舞伎を見ています。いったん帰国しようとしますが、天候不順で11月26に再来日し、2ヵ月後に帰国の途に就いたようです。

このころの政府の最大関心事は、条約改正です。首都の巷にホームレスがゴロゴロしていては、たまらないということになり。これらの人を一時的にも収容することとなったのです。

これに加えて、東京府の知事であった大久保一翁は困窮した市民の救済として計画するようになったのです。

このための資金として、寛政の改革以来、町方に積み立てさせた七分金が幕末期には170万両にも及んでおり、明治政府はこれを接収し社会基盤の整備に活用することとしました。その一部が使われることになりました。

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渋沢栄一はどうして東京養育院にかかわるようになったのか

渋沢栄一はその頃までは大蔵省で働いていましたが、思うところあって、民間に転じることになります。渋沢栄一はほどなく東京会議所の設立に関与するとともに、この七分金の管理も任されることになるのです。

東京養育院はこの東京会議所の管轄の下にあったため、渋沢が監督役になることになったのです。

最初の頃はどうも養育院の仕事というものはなじめなかったようですが、社会のためということで続けていたようです。それでも続けているうちに、渋沢の工夫も導入されて、順調に経営ができるようになり、渋沢自身もこの事業に力を注ぐようになります。

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東京府議会で東京養育院廃止論が起こるようになります

1881年ごろのことでしょう。東京養育院の事業も順当に拡大していきますが、ここで廃止論が起こるようになります。現代のように不祥事があったわけではありません。

東京養育院は、東京府の税金で賄われていますから、やはり無駄と考える人が出てくるのです。現代でもよく起こる議論ですが、「怠けた人間を助けるだけでは何の利益にもならない。」というのが理由だったようです。

さすがに、この頃には渋沢栄一も東京養育院の事業に相当力を入れていましたので、このような議論に真っ向から反論し、各個撃破のために説得に駆けずり回ることになります。一方では、自主努力としていくらかの合理化も行っているようです。

しかしながら、東京府からの資金援助が途絶えてしまっては、いくら渋沢が大金持ちでも支え切れるものではありません。何とか資金を途絶えさせないように頑張っていました。

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渋沢栄一が提示したアイディアはどのようなものだったのか

渋沢栄一はこの養育院の生い立ちをよく考えたのです。東京府が望んでいたのは養育院の立っている土地を売却したいとのことに着目し。

京養育院が立っている土地はそもそも東京府のお金ではなく、江戸時代から積み上げた七分金を流用して得たものであるので、売却費は養育院に戻されるべきだと議論を展開していきます。

彼なりの計算でいけば売却費をもとにして、更に有志からの寄付金を集めれば何とか経営が可能であると試算してみます。ここら辺が計数に明るい渋沢の得意なところです。

そしてこの方針で東京府と決着をつけることになります。

渋沢は養育院の費用の寄付を募ることになります。また、世間からの同情もとりつけ、かなりの寄付金が集まったと言われています。こうして、養育院存亡の危機を免れることになったのです。

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東京養育院廃止の危機を渋沢栄一はどのように切り抜けたかのまとめ

最初はどうしてやることになったかわからないままに始めた事業ですが、彼が提唱する合本主義ともあっていたこともあり、その後には熱が入っていきます。

そして、50年間、他の仕事の役職は退いても東京養育院の仕事だけは最後まで続けることになります。

しかも、月に1回は必ず出かけてお菓子をもって現れたそうです。渋沢にとっても励みとなる良い仕事だったのでしょう。

この東京養育院も2000年に条例が廃止されてしまい名前はなくなりましたが、「東京都健康長寿医療センター」として東京都板橋区に残っています。構内には渋沢栄一の銅像も残されています。

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