新しい**一万円札の顔**であり、**「日本資本主義の父」**として今、日本中から注目を集めている**渋沢栄一**。
1. 東京養育院の設立背景:困窮者支援と「七分積金」の役割
東京養育院の設立は、単なる慈善事業というだけでなく、当時の政府が抱えていた切実な「事情」と、江戸時代からの**市民の互助精神**が深く関わっていました。
① 明治初期の社会混乱と外交上の懸念
明治時代に入り、江戸時代の制度が大きく変化する中で、都市部には職を失い、生活に困窮した人々があふれていました。特に1872年(明治5年)にロシア皇太子が日本を訪問する際、政府は**国際的な体裁**を整える必要に迫られます。帝都の街中にホームレスが多数いる状況は、外交上好ましくないと考えられたのです。
そこで政府は、これらの困窮者を一時的に収容する施設の設立を急ぎます。当初は外交上の側面が強かったものの、東京府知事であった大久保一翁は、これを真に市民を救済する機会と捉え、本格的な支援施設の計画を進めました。
② 寛政の改革から受け継がれた「七分積金」とは?
養育院の設立に不可欠な資金として活用されたのが、江戸時代に**寛政の改革**の一環として町方が積み立てていた「七分積金(しちぶつみきん)」と呼ばれる資金です。
- これは、町入用の節約分の**7割**を積み立てさせたもので、市民の相互扶助のために使われる資金でした。
- 幕末期には**170万両(現在の価値で数千億円ともいわれる膨大な金額)**にも達していたと言われています。
明治政府はこの七分積金を接収し、その一部を東京養育院の設立資金に充てました。養育院は、七分積金という**市民の互助精神**から生まれた資金を背景に、日本の社会福祉の先駆けとしてその歴史をスタートさせたのです。
2. 渋沢栄一と養育院の出会い:合本主義という信念
大蔵省を辞めて実業家へ転身した渋沢栄一は、ほどなくして**七分積金の管理**を任されます。これが、東京養育院との運命的な出会いでした。
① 監督役から「生涯の仕事」へ
東京養育院は、渋沢が設立に関与した東京商法会議所(現在の東京商工会議所の前身)の管轄下に置かれていたため、渋沢がその監督役を務めることになりました。最初は戸惑いもあったようですが、「社会のため」という強い使命感からこの事業を続けます。
やがて彼は、多くの人々の力を合わせて社会貢献をするという**「合本主義」**の精神が、この養育院の事業にぴったりと当てはまることに気づきます。渋沢の卓越した経営手腕が導入されると、養育院の経営は順調に進むようになり、渋沢自身もこの事業に深く魅了され、生涯をかけて力を注ぐようになっていくのです。
◇養育院◇
渋沢栄一は35歳のとき、身寄りのない子どもや老人を養うための施設である東京市養育院を設立し、92歳の天寿をまっとうするまで、50年以上にわたり院長を務めました。 pic.twitter.com/yjCIivSYom— kazu (@kazu409366471) October 12, 2023
#英雄たちの選択 渋沢栄一が明治初年から50年以上に渡って関わった東京養育院(東京市養育院)。明治40年頃。
— むかしもん文庫 (@MukashimonBunko) September 4, 2019
3. 1881年(明治14年)の廃止危機:公的支援停止という厳しい現実
事業が順調に拡大する一方で、養育院の存続を疑問視する声が東京府議会で上がり始めます。そしてついに、養育院は極めて厳しい現実に直面することになるのです。
① 「無駄論争」と公的資金の打ち切り
議論の主な理由は、**「養育院は東京府の税金で賄われているのだから無駄である」「怠けた人間を助けるだけでは何の利益にもならない」**というものでした。現代にも通じる、社会福祉に対する厳しい意見です。
廃止論は日増しに強まり、ついには1885年(明治18年)には**東京府からの支出が止められてしまう**という事態に追い込まれます。これは、現代で言えば公的な支援が突然打ち切られるような、養育院の存続にとって致命的な状況でした。
② 渋沢の反論と「人道」の訴え
この危機に対し、渋沢栄一は真っ向から反論します。彼は、**「困窮した人々を救うことは、いわば『人道』である」**と力強く訴え、養育院の重要性を説いて回りました。しかし、どれほど渋沢が個人的に資産家であったとしても、公的資金が途絶えてしまっては、養育院の存続は極めて困難でした。
4. 危機を乗り越えた革新的アプローチ:渋沢の知恵と行動力
絶体絶命の危機を救うため、渋沢栄一は彼の卓越した知性と行動力、そして経済人としてのノウハウを惜しみなく発揮します。
① 「七分積金」の論理で土地売却益を確保
渋沢は、養育院が建っている土地が、そもそも東京府のお金ではなく、江戸時代から町方が積み立ててきた七分積金を流用して得たものであるという事実に着目しました。
そして、**「この土地の売却益は、本来、養育院に戻されるべきである」**と力強く主張し、東京府との交渉を進めました。彼の精密な計算によれば、この売却益を元手に、さらに有志からの寄付金を集めることができれば、養育院の経営は十分に可能であると試算しました。これは、計数に明るい渋沢ならではの**ビジネス手腕を福祉事業に応用した**好例と言えます。
② 日本初!鹿鳴館でのチャリティーバザーと「泥棒袋」
資金集めの方針が決まると、渋沢は世間からの同情や共感を呼び起こし、より多くの人々を巻き込むための**革新的な方法**を実行しました。
- 日本初のチャリティーバザー:1884年(明治17年)頃、渋沢は西洋式の社交場であった鹿鳴館で、華族や政府高官、財界の婦人たちに働きかけ、チャリティーバザーを成功させます。これは、富裕層から広く資金を集めるための画期的な試みでした。
- 「泥棒袋」で寄付を募る:渋沢は自ら篤志家(とくしか:慈善を志す人)のもとを訪問し、大きなカバン(一部では「泥棒袋」と揶揄されたそうです!)を置き、「養育院のために」と寄付を募り、多額の資金を集めました。
これらの行動には、たとえ少額であっても多くの人々から寄付を集めることを重視する、渋沢の**「合本主義」の思想**が色濃く表れています。彼の努力の結果、養育院は存亡の危機を免れ、その後も長きにわたり社会に貢献し続けることができました。
NHK BSP「英雄たちの選択」
渋沢栄一の救いのショベルがテーマ。
社会福祉事業の創始者で、
東京養育院が公的には廃止されたおり、鹿鳴館で日本初のチャリティーバザーを開き成功、篤志家を訪問し大きなカバン(泥棒袋🤣)をどんと置き何某かの寄付を集め継続に成功。
富の根源は仁義道徳と言う貫禄。— 🌕forest vita (@forestvta) February 16, 2021
5. 慈善活動の広がり:瓜生岩子の貢献とアメ横の逸話
渋沢栄一の奔走により養育院の活動が安定すると、全国の慈善活動とも深く結びついていきます。明治の偉大な慈善家、**瓜生岩子(うりゅういわこ)**もその一人です。
① 養育院と「芋飴」の普及
瓜生岩子は、明治24年(1891年)に東京養育院に招かれ上京し、貧しい人々の自立支援のために「芋飴」や「飴粕(あめかす)」の普及活動に尽力します。彼女は、それらの利用法や製造法、さらには機械の貸与まで行い、貧しい人々が自活できるよう支援しました。
この活動の拠点の一つが、現在の上野駅前、**アメ横(アメヤ横丁)**として知られる場所だったという逸話があり、彼女がその地で「飴」に関する活動を行ったことから「アメ横」と呼ばれるようになったという説も語り継がれています。
ただし、一般的にアメ横の名称の由来は、戦後に飴を売る露店が多数集まったことや、アメリカ進駐軍の払い下げ品を扱う店が多かったことから「アメヤ横丁」や「アメリカ横丁」と呼ばれたという説が有力です。瓜生岩子の活動は、地域での慈善活動の象徴的な出来事として、今も貴重なエピソードとして残っています。
アメ横の発祥の云われは、なんと喜多方が生んだ、明治の偉人、慈善事業に生涯をかけた、瓜生岩子によるものだ。岩子は明治24年に東京養育院に頼まれて上京して貧困者に芋飴や、飴粕の普及活動、利用法、製造、機械の貸与等、その活動の場所が現在の上野駅前のアメ横だった。それでアメ横となった。
— kazuyan (@kazuei123) September 3, 2018
6. 渋沢栄一の生涯にわたる貢献と養育院の現在
東京養育院は、渋沢栄一にとって当初は戸惑いながらも始めた事業でしたが、その後の人生を決定づけるものとなりました。
① 50年以上にわたる院長職
渋沢栄一は、他の多くの役職を退いた後も、東京養育院の院長だけは**生涯にわたって務め続け**、その期間は実に**50年以上に及びました**。しかも、月に1回は必ず養育院に出向き、子どもたちにお菓子を持って現れたという温かい逸話も残っています。
これは、渋沢にとって養育院の仕事が、自身の生きがいや、提唱する「合本主義」を実践するための具体的な場所であったことの証でしょう。
② 受け継がれる「共生」の精神
この東京養育院は、1999年(平成11年)に条例が廃止され、その名称はなくなりましたが、その精神と事業は現在の**「地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター」**として、東京都板橋区に受け継がれています。
センターの敷地内には、渋沢栄一の功績を称える**銅像**が今も残されており、彼の社会福祉への貢献が未来へと語り継がれています。
結び:現代に生きる渋沢栄一の「共生」の精神
渋沢栄一と東京養育院の物語は、単なる歴史の出来事ではなく、現代社会にも通じる深いメッセージを持っています。
彼の**「合本主義」**の精神は、**「富の根源は仁義道徳にある」**という彼の信念に基づいています。つまり、経済的な豊かさだけを追求するのではなく、倫理観と人道に基づいた行動こそが、真の社会の発展に繋がるという考え方です。
現代社会においても、貧困、格差、高齢化といった様々な社会課題が存在します。渋沢栄一が東京養育院の危機を乗り越えたように、私たちもまた、目の前の問題に対して「自分に何ができるか」を考え、多様な人々が協力し合うことで、より良い社会を築いていくことができるはずです。
渋沢栄一の足跡は、私たちに「共生」の精神と、困難に立ち向かう勇気を与えてくれます。ぜひ、彼の物語を通じて、未来をより豊かにするためのヒントを見つけてみてくださいね。
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