樋口季一郎陸軍中将は、終戦後の昭和20年8月18日に始まった占守島の戦いを指揮し、スターリンの北海道進出を阻止したとも言われています。
さかのぼること7年前に樋口季一郎少将がハルピンの特務機関長の時、ソ連国境のオルトポールにナチスドイツから逃げてきた多くのユダヤ人を満州国に入国させ、上海までの輸送ルートを作った事件を説明します。
そして、意外な人が意外な活躍をしております。
ナチスドイツからの逃亡者を受け入れた日本の特別なアプローチ:オトポール事件
日本は基本的に人種的なアレルギーが少なかったため、ユダヤ人に対しても歴史的に特別な感情をいだいてはいませんでした。
そこらあたりが欧米とはかなり違う様相を呈しております。驚くでしょうが、むしろユダヤ人の入国については、アメリカの方が厳しかったようです。
このため、日本及び満州国の各地にもユダヤ人コミュニティが形成されている状況でした。日本及び満州国にとっても世界から孤立していく中で、ユダヤ人コミュニティはその情報源及び資金力からも貴重な存在と認識していました。
このため、最終的には失敗に終わりますが満州国のユダヤ人の大移住計画も一時、真剣に検討されていました。
さはさりながら、ユダヤ人から東條英機は「英雄」と称えられています。彼らが東條英機を英雄と称えるポイントは二つあります。
(画像はハルピンでの極東ユダヤ人大会) pic.twitter.com/eK11ySs36X
— 吉備太秦 (@99zmxn123) October 8, 2020
ユダヤ人のソ連国境のオトポールでの足止め
昭和13年(1938年)の頃です。その頃にはドイツではナチスドイツが支配していました。そして、反ユダヤ政策を展開しておりました。その頃から身の危険を感じたユダヤ人は国外に脱出することを始めておりました。
ドイツのユダヤ人の中にはシベリア鉄道を経由して満州国に入り、ユダヤ人社会が充実している上海に渡ることを希望する者が多かったのです。
しかしながら、当時、ドイツと日本は日独伊防共協定を結んで急接近していたため、これを忖度した満州国がユダヤ人の入国を認めないという事態になったのです。
樋口氏がハルビン特務機関長に着任していたときにユダヤ人のアブラハム・カウフマン(以下カウフマン氏)と出会い、第一回極東ユダヤ人大会に参加し祝辞を述べます。その内容が物議を醸し出しました。ナチスドイツのユダヤ人迫害を批判するものだったからです。日独防共協定が締結された直後でした。 pic.twitter.com/Kpmf5GqKqW
— サムライ (@VNbPDrNVHp5QA5X) February 27, 2021
ユダヤ人の苦境と樋口季一郎の人道的行動
当時ハルピンの特務機関長をしていた樋口としては、このようなユダヤ人コミュニティと良好な関係を結んでおり、対ソ戦の諜報活動を行っていました。
特筆すべきは、この事件の始まる4か月前の昭和12年12月に第1回極東ユダヤ人大会に樋口も参加しており、ナチスのユダヤ人政策を批判する祝辞をしており、大会参加者から賞賛を浴びております。
確かに日本人としてはこのような民族的差別については、感覚が違うようですね。
そして3月極東ユダヤ人代表のアブラハム・カウフマン博士から国境で足止めを食ったユダヤ人の窮状を訴えられます。3月と言っても満州国境ですから極寒の中です、この中での足止めは命にかかわります。
樋口はあくまでも人道的な配慮が優先したようです。食料、衣類、燃料の供給、満州国内の入国や上海租界への移動の手配を行います。
そして、このルート(ヒグチルートと言われています。)を通って満州に入国したユダヤ人は5千人とも2万人とも言われています。2万は多いかもしれませんが。
そしてこれは、その地名を取ってオトポール事件と言われています。
協力者としての松岡洋右の役割
このルートの策定のためには、満州鉄道を使うしかありません。そしてこの計画に協力したのが、当時、南満州鉄道総裁であった松岡洋右でした。
松岡は後に日独伊三国軍事同盟締結の外務大臣だったり、国際連盟脱退時の全権だったりして、はなはだ評判が悪いのですが、このようなことも行っているのです。
むしろ、松岡はユダヤ人コミュニティを大切にしており、ユダヤ人移住計画にかかわったとも言われています。
ドイツからの抗議と日本の対応
当然ドイツは大変怒ります。そして日本に対してドイツのリッベントロップ外相から抗議が届きます。また陸軍内部でも問題となり、何らかの処分をしようとします。とにかくドイツが好きな陸軍ですから。
樋口は、関東軍司令部に呼び出されることになります。
東条英機との重要な対話
樋口は当時関東軍参謀長の東条英機中将と面会します。
そしてこの件を説明し、「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることを正しいと思いますか。」とも「日本はドイツの属国ではない。」とも言ったと言われています。
東条はこの樋口に理解を示します。そして関東軍司令も同意します。東条はその後の本国、ドイツからの抗議に対しても、「人道上の配慮によって行った行為である。」と一蹴しています。
東条英機も後の日米開戦時の首相ではなはだ後世からは評判が良くありませんが、筋が通るときはきちっと対応しているのです。
有名な杉原千畝の命のビザの2年前、ナチスドイツから逃れて来た大勢のユダヤ人がソ連、満州国境のオトポール駅で立ち往生した。
そのユダヤ人を樋口季一郎や東條英機らが満州に受け入れて救ったのがオトポール事件。
彼らが救ったユダヤ人は2万人とも言われているが、この話が語られる事はない。 pic.twitter.com/HuGU504bos
— テリマカシ 。。 (@terimakasih0001) January 5, 2021
樋口季一郎と協力者の評価とその影響
樋口季一郎のオトポール事件の顛末を解説しました。
樋口はこの事件の結果として、イスラエルのテルアビブにあるゴールデンブックに名前が記載されております。同僚の安江仙弘陸軍大佐も記載されているとされております。そして、あの有名な外交官の杉原千畝も。しかし、軍人だったせいか両者の評価は戦後の日本では皆無で、杉原とは相当な差があるようです。
樋口の協力者であった、松岡洋右、東条英機はこの情報がユダヤ人社会に知られなかったのか、東京裁判で裁かれる立場になっております。
もしも、彼らの行ったことが知られていたら、あるいは刑を免れたかもしれませんね。現に、樋口はユダヤ人コミュニティからの圧力によって、極東軍事裁判にかけられるのを免れたとも言われていますから。
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