かつて日本の100円札に描かれていた長いひげの人物、板垣退助(いたがき たいすけ)。現在では名前を聞いてもピンと来ない方も多いかもしれませんが、彼は明治時代の自由民権運動を象徴する政治家のひとりです。
その彼が暴漢に襲われた際に放ったとされる名言、「板垣死すとも自由は死せず」。教科書などで一度は目にしたことがある方も多いはずですが、実際にその場で発言されたのかどうかは、長らく議論の的になってきました。
本記事では、この言葉が生まれた背景となる「岐阜事件」の詳細、犯人の正体とその後、さらに名言の真偽や人々の証言、事件が現代に残した意味までを徹底的に掘り下げて解説していきます。
板垣退助とはどんな人物だったのか?
板垣退助は1837年、現在の高知県(旧・土佐藩)に生まれました。もともと土佐藩士として戊辰戦争でも活躍し、明治維新後は新政府で要職を歴任します。
しかし、やがて藩閥政治に反発して政府を離れ、国会の開設と立憲政治の実現を求める「自由民権運動」のリーダーへと転身。1881年には自由党を結成し、全国を遊説して憲法制定と国民の参政権拡大を訴えました。
岐阜事件とは?名言誕生のきっかけとなった襲撃事件
自由党党首として全国を巡っていた板垣退助は、1882年(明治15年)4月6日、現在の岐阜市にある中教院(神道布教所)で演説を行いました。
夕方6時過ぎに演説を終え、建物から出てきたその瞬間、一人の男が「将来の賊!」と叫びながら短刀を振りかざし襲い掛かります。
犯人は相原尚褧(あいはら なおふみ)、当時27歳の元武士であり、小学校の教員でもありました。彼は短刀で板垣の左胸を刺しましたが、板垣は柔術を学んでいたこともあり、とっさに当て身を見舞って反撃。さらに、相原が再び襲いかかろうとしたところ、彼の手首をつかんで押さえ込み、騒ぎを聞きつけた周囲の人々によって取り押さえられました。
この劇的な事件の際に叫んだとされるのが、
「板垣死すとも自由は死せず!」
この言葉は新聞報道によって全国に伝わり、板垣の名は一躍国民的な英雄となります。
本当に言ったのか?「板垣死すとも自由は死せず」の真偽
この名言については後日、多くの議論が巻き起こりました。とっさにこれほど気の利いた言葉が口をついて出るものなのか?という疑問が多くの人に共有されたからです。
有力な3つの説
- 板垣本人が発言した説
・襲撃された直後に叫んだという説
・相原を取り押さえたあとに発したという説
・「吾死するとも自由は亡ひす」など、表現に複数のバリエーションが存在 - 内藤魯一(ないとうろいち)発言説
・現場に駆け付けた自由党員の内藤が叫び、それが板垣の発言として伝えられた説 - 発言そのものがなかった説
・事件後に後付けで作られた創作であるという可能性
それでも“名言”に意味がある理由
実際に正確な言葉を口にしたかどうかよりも重要なのは、この言葉が板垣退助という人物の信念や行動の象徴として、民衆に深く受け入れられたという事実です。
板垣は全国各地で自由主義の重要性を説いており、このような趣旨の言葉を演説で繰り返していた記録も残っています。
犯人・相原尚褧とは?動機とその後の運命
相原尚褧は尾張国(現在の愛知県名古屋市)に生まれ、200石取りの武士の家柄出身でした。明治維新によって武士階級が失われた後、教師として働いていたものの、急進的な自由民権運動に強い反感を抱いていました。
彼は「民権派が国家を危うくしている」と考え、板垣退助の暗殺を決意。一週間前には遺書を残し、犯行計画を入念に準備。板垣が泊まっていた旅館にも面会を申し出たものの断られ、当日に演説会場を狙ったのです。
裁判と刑罰、そして“謎の最期”
事件後、相原は岐阜重罪裁判所で無期懲役の判決を受けますが、板垣退助本人が助命嘆願書を提出したことで極刑は免れます。
さらに7年後、明治22年(1889年)に発布された「大日本帝国憲法」に伴う恩赦によって釈放。その後、紹介者に伴われて板垣を訪ね、謝罪します。
「私心からではなく、天下国家を思っての行動ならば謝る必要はない。私に誤りがあれば、また刀をもって成敗してくれ」
その後、北海道で開拓に従事すると語って旅立ちますが、遠州灘で船から失踪。享年36。自殺説・事故説・暗殺説などが囁かれましたが、今も真相は不明です。
もう一つの注目人物:後藤新平との関わり
岐阜事件には、後に政界の重鎮となる後藤新平も登場します。当時は愛知県病院長だった後藤は、事件の翌日、内藤魯一の要請を受けて板垣の診察に岐阜へ駆けつけました。
その際、後藤は板垣にこう語ったと伝えられています。
「閣下、ご本懐でございますね。」
これに対して板垣は、
「あの男(相原)を政治家にできなかったのが残念だ。」
後藤新平はその後、満鉄初代総裁、東京市長、外務大臣などを歴任し、日本近代化の立役者となりました。
まとめ:名言が現代に伝える自由の重み
「板垣死すとも自由は死せず」は、たとえ正確に発せられていなかったとしても、板垣退助の生き様や思想を象徴するフレーズとして、日本人の心に刻まれています。
襲撃事件に見舞われながらも、加害者を許し、国家の未来を見据えた板垣の姿勢は、現代の政治や社会にも通じるものがあるのではないでしょうか。
時代を超えて語り継がれるこの言葉が、もう一度注目されるべき時が来ているのかもしれません。
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