かつて日本の100円札に描かれていた、長いひげの人物をご存じでしょうか? そう、板垣退助(いたがき たいすけ)です。今では名前を聞いても「どんな人だっけ?」と感じる方もいらっしゃるかもしれませんね。しかし、彼は明治時代に「自由民権運動」という、日本の近代化において非常に重要な役割を果たした政治家なんです。
そんな彼が暴漢に襲われた際に放ったとされる名言「板垣死すとも自由は死せず」。歴史の教科書などで一度は目にしたり、耳にしたりしたことがあるかもしれませんね。しかし、この力強い言葉が本当にその場で発言されたのかどうかは、長らく多くの人々によって議論されてきました。
本記事では、この歴史に残る名言が生まれた背景となる「岐阜事件」の詳しい内容から、事件を起こした犯人の正体とその後の運命、さらに名言の真偽に関するさまざまな説、そしてこの事件が現代の私たちに何を伝えているのかまでを、初めてこの分野に触れる方にも分かりやすく、丁寧な言葉で徹底的に解説していきます。さあ、一緒に歴史の扉を開いてみましょう!
1. 板垣退助ってどんな人物だったの?〜明治維新から自由民権運動の旗手へ〜
まずは、板垣退助がどのような人物だったのか、その生涯を簡単に見ていきましょう。
板垣退助は1837年、現在の高知県(旧・土佐藩)に生まれました。彼はもともと土佐藩士として、幕末の動乱期には薩摩藩や長州藩と共に新政府側として活躍し、戊辰戦争でも重要な役割を果たしました。明治維新が成功すると、新政府で参議(現在の閣僚に相当する要職)を歴任するなど、新しい日本の礎を築くために尽力します。
しかし、明治政府が一部の藩閥(特定の藩出身者が政治の実権を握ること)によって牛耳られていることに疑問を抱き、不満を持つようになります。そして、より多くの人々の意見が政治に反映される「国会の開設」や、憲法に基づいた政治(立憲政治)の実現を強く求めるようになり、1874年(明治7年)に政府を去る決断をします。
政府を離れた板垣は、全国に広がる「自由民権運動」のリーダーへと転身しました。彼は1881年(明治14年)には「自由党」を結成し、全国各地を精力的に遊説して回り、憲法制定の必要性や、国民が政治に参加する権利(参政権)の拡大を熱心に訴えかけました。彼の情熱的な演説は、多くの人々の心を動かし、自由民権運動は大きなうねりとなっていきます。
2. 岐阜事件の全貌:名言が生まれた運命の日
「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が誕生するきっかけとなったのが、1882年(明治15年)に起きた「岐阜事件」です。この事件は、板垣退助の人生、そして自由民権運動に大きな影響を与えました。
2.1 演説会場での突然の襲撃
自由党の党首として全国を巡り、自由民権を説いていた板垣退助は、1882年4月6日、現在の岐阜市にあった中教院(神道の教えを広めるための施設)で演説を行っていました。多くの聴衆が彼の話に耳を傾け、会場は熱気に包まれていました。
演説を終え、夕方6時過ぎに建物から出てきたその瞬間、一人の男が突然「将来の賊!」と叫びながら、短刀を振りかざして板垣に襲い掛かったのです! まさに緊迫の瞬間でした。
2.2 犯人・相原尚褧と板垣の反撃
板垣に襲いかかった犯人は、当時27歳の相原尚褧(あいはら なおふみ)という人物でした。彼はもともと武士の家柄出身で、事件当時は小学校の教員をしていました。相原は短刀で板垣の左胸を刺しましたが、幸いにも傷は致命的なものではありませんでした。
なぜなら、板垣退助は若い頃から柔術(武術の一種)を学んでおり、その訓練のおかげで、とっさに当て身を見舞って反撃することができたのです。相原が再び襲いかかろうとしたところ、板垣は彼の手首を素早くつかんで押さえ込みました。その騒ぎを聞きつけた周囲の人々が駆けつけ、相原は取り押さえられました。
2.3 伝説となった「板垣死すとも自由は死せず」の誕生
この劇的な襲撃事件の際に、板垣退助が叫んだとされているのが、あの有名な言葉です。
「板垣死すとも自由は死せず!」
この言葉は、事件直後から新聞報道によって日本全国に瞬く間に伝えられました。刺客に襲われながらも毅然とした態度で自由を叫んだ板垣の名は、一躍国民的な英雄となり、自由民権運動の象徴として多くの人々の心に深く刻まれることになります。
1882年4月6日、自由党党首の板垣退助が遊説中に暴漢に襲われる「岐阜事件」が起きました。
「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった事件として知られています。
また、負傷した板垣を治療したのが、のちに政治家として活躍する当時医者であった後藤新平でした。 pic.twitter.com/azBK1YiK2Y— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) April 5, 2025
3. 本当に言ったの?「板垣死すとも自由は死せず」の真偽を探る
岐阜事件の報道と共に広まった「板垣死すとも自由は死せず」という名言。しかし、その言葉が本当に板垣退助によって発言されたのかどうかについては、後日、多くの議論が巻き起こりました。「とっさにこれほど気の利いた言葉が口をついて出るものなのか?」という疑問が多くの人に共有されたからです。ここでは、有力な説をいくつかご紹介しましょう。
3.1 有力な3つの説
説1:板垣本人が発言した説
- 襲撃直後に叫んだという説: 実際に襲撃された直後に、とっさに出た言葉だとされています。
- 相原を取り押さえたあとに発したという説: 犯人である相原を自力で取り押さえた後、落ち着いて発言したという見方もあります。
- 表現にバリエーションが存在: 実は「吾死するとも自由は亡ひす(われしすともじゆうはほろびず)」など、言葉の表現に複数のバリエーションが存在することも、この説を裏付ける要素とされています。記憶や伝聞によって表現が少しずつ異なった可能性も考えられます。
説2:内藤魯一(ないとうろいち)発言説
- この説は、事件現場に駆けつけた自由党員の盟友である内藤魯一(ないとう ろいち)が叫んだ言葉が、混乱の中で板垣の発言として伝えられた、というものです。内藤もまた自由民権運動の熱心な活動家であり、このような言葉を発するにふさわしい人物でした。
説3:発言そのものがなかった説(後世の創作説)
- この説では、そもそも事件の現場でこの言葉は発せられておらず、事件後に人々の記憶や理想の中で作り上げられた「創作」である可能性が指摘されています。板垣の思想や当時の社会状況を象徴する言葉として、後から「あったこと」にされたという見方です。
3.2 それでも“名言”に意味がある理由
では、これらの説の中で何が真実なのでしょうか? 実際のところ、決定的な証拠はなく、どの説が完全に正しいとは断言できません。しかし、実際に正確な言葉を口にしたかどうかよりも重要なことがあります。
それは、この言葉が板垣退助という人物の信念や行動を象徴するフレーズとして、当時の民衆に深く受け入れられ、共感を呼んだという事実です。板垣は全国各地で、国民が政治に参加することの重要性や、個人の自由の大切さを熱心に説いていました。彼が普段から、まさにこのような趣旨の言葉を演説で繰り返し語っていた記録も残っています。
たとえ、その場で一字一句同じ言葉を口にしていなかったとしても、この言葉は板垣退助の生涯を凝縮した「彼らしい言葉」であり、当時の人々が抱いていた「自由への強い願い」を代弁するものであったからこそ、時代を超えて名言として語り継がれることになったのです。
4. 犯人・相原尚褧とは?〜動機と数奇な運命〜
板垣退助を襲撃した犯人、相原尚褧とは一体どのような人物だったのでしょうか。彼の背景や、事件後の意外な運命について見ていきましょう。
4.1 犯行の動機:「国家を危うくする民権派」への反感
相原尚褧は尾張国(現在の愛知県名古屋市周辺)に生まれ、200石取りの武士の家柄出身でした。明治維新によって武士という身分が失われ、社会が大きく変化する中で、彼は小学校の教師として生計を立てていました。
しかし、彼は急進的な自由民権運動に対して強い反感を抱いていました。当時の相原は、「自由民権派が国家の秩序を乱し、日本を危うくしている」と深く信じていたようです。彼の目には、板垣退助が唱える自由や国民の権利拡大は、国を不安定にする危険な思想と映っていたのでしょう。
この考えがエスカレートし、彼は板垣退助の暗殺を決意します。事件の一週間前には遺書を残し、犯行計画を入念に準備していました。事件当日も、板垣が泊まっていた旅館に面会を申し出たものの断られ、演説会場で襲撃の機会を狙っていたのです。
4.2 裁判と極刑回避、そして“謎の最期”
事件後、相原は逮捕され、岐阜重罪裁判所で裁かれます。結果は無期懲役の判決でした。しかし、ここで驚くべき展開が訪れます。なんと、襲われた当事者である板垣退助本人が、相原の助命嘆願書を提出したのです! 板垣のこの寛大な行為により、相原は極刑を免れることになります。
さらに7年後、1889年(明治22年)に「大日本帝国憲法」が発布されることに伴い、恩赦(罪が許されること)によって相原は釈放されます。自由の身となった相原は、紹介者に伴われて板垣を訪ね、直接謝罪しました。
この時、板垣は相原に対して、伝説ともいえる言葉をかけたと言われています。
「私心からではなく、天下国家を思っての行動ならば謝る必要はない。私に誤りがあれば、また刀をもって成敗してくれ」
これは、個人の恨みを超え、国家の未来という大局的な視点から物事を捉える、板垣退助の器の大きさを物語るエピソードとして語り継がれています。
釈放後、相原は北海道で開拓に従事すると語って旅立ちますが、その後、遠州灘で船から失踪してしまいます。享年36歳という若さでした。彼の最期については、自殺説、事故説、さらには暗殺説など、さまざまな憶測が囁かれましたが、今も真相は不明のままです。相原尚褧の人生もまた、明治という激動の時代に翻弄された、数奇な運命だったと言えるでしょう。
5. もう一人の重要人物:後藤新平と岐阜事件
岐阜事件には、後に日本の政界で重要な役割を果たすことになる、後藤新平(ごとう しんぺい)も登場します。彼の関わりもまた、この事件の興味深い一面です。
5.1 医師・後藤新平の登場
事件当時、後藤新平はまだ若き医師であり、愛知県病院長を務めていました。岐阜事件の翌日、板垣退助の盟友である内藤魯一の要請を受け、後藤は急いで岐阜へ駆けつけ、板垣の診察を行いました。
5.2 伝説的な会話:「閣下、ご本懐でございますね。」
板垣を診察した後、後藤は彼にこう語ったと伝えられています。
「閣下、ご本懐でございますね。」
この言葉は、「あなたの長年の願いが叶いましたね」といったニュアンスを含んでいます。つまり、板垣が身を挺して自由民権を訴えた結果、世間の大きな注目を集めたことに対する、後藤なりの評価だったのでしょう。
これに対して板垣は、さらに深い言葉で返したとされています。
「あの男(相原)を政治家にできなかったのが残念だ。」
これは、自分を襲った相手すらも、国家のために尽くす志を持つ人材と見ていた板垣の深い人間性と、政治家としての器の大きさを示すエピソードとして知られています。私怨にとらわれず、相手の行動の根底にある「天下国家を思う心」を見抜こうとした板垣の姿勢がうかがえます。
5.3 後藤新平のその後の活躍
この岐阜事件での板垣との出会いは、若き後藤新平にも大きな影響を与えたのかもしれません。後藤新平はその後、医学の世界から政界へと転身し、満鉄初代総裁、東京市長、鉄道院総裁、外務大臣、内務大臣など、数々の要職を歴任しました。特に、関東大震災後の東京復興計画を主導するなど、日本の近代化において「大風呂敷」と称される壮大な構想力と実行力で、多大な功績を残しました。
まとめ:時代を超えて語り継がれる「自由の重み」
「板垣死すとも自由は死せず」。この言葉が、たとえその場で正確に発せられていなかったとしても、板垣退助の生き様や思想、そして彼が命をかけて守ろうとした「自由」の精神を象徴するフレーズとして、日本人の心に深く刻まれていることは間違いありません。
暴漢に襲われるという危機に見舞われながらも、加害者を許し、私怨にとらわれず国家の未来を見据えた板垣退助の姿勢は、現代の政治や社会にも通じる、非常に大切なメッセージを含んでいるのではないでしょうか。
現代の私たちは、当たり前のように享受している「自由」や「権利」ですが、それは歴史上の多くの人々が命をかけて勝ち取ってきた尊いものです。板垣退助と岐阜事件、そしてこの名言を通して、自由の重みや、異なる意見を持つ人々との向き合い方について、改めて考えるきっかけにしていただけたなら幸いです。
時代を超えて語り継がれるこの言葉が、もう一度多くの人々に注目され、その真の意味が理解される時が来ているのかもしれませんね。
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