板垣退助の名言「板垣死すとも自由は死せず」は何時何処で生れた?

歴史人物

板垣退助と聞いても、知っている人は少なくなってきています。一時は100円札の肖像に載った髭の長いおじさんでした。明治時代の自由党総裁で、自由民権運動の象徴的な方です。

この方が、岐阜市で暴漢に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず。」と言ったことになっており、その名言ですっかり国民的な人気を博したといわれています。

ところがその時にこの明言を言ったか言わなかったかが後日議論にもなりました。

その後板垣退助はどうなったか、その時の犯人相原尚褧はその後どうなったのでしょうか。

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板垣退助の名言「板垣死すとも自由は死せず。」が生まれた事件はどのように起こったか

明治15年(1882年)のことです。10年後に国会が開設されることになり、各地で政治活動が盛り上がりを見せていました。板垣退助は自由党を率いて、全国を遊説して廻っていました。

4月6日は今の岐阜市の岐阜公園にあった神道の布教所中教院で演説を行い、6時ぐらいに終わります。

板垣は帰ろうとして玄関の階段を下りてきたとき、「将来の賊」と叫んで相原尚褧(あいはらなおふみ)が短刀を振りかざして板垣に襲い掛かります。

そして、短刀は板垣の左胸に刺さりますが、板垣は柔術を会得していたこともあり、腹部に当て身を行い、怯ませます。

再び短刀で相原が襲い掛かりますが、板垣は短刀を持った手を掴み、もみ合いになります。そこに人がかけつけ相原は抑え込まれ警察に引き渡されます

定説ではこの襲われたときに、「板垣死すとも自由は死せず。」と叫んだといわれています。

板垣はその後、警察医が派遣されたところ、左胸、右胸に1か所ずつ、右手、左手に2か所ずつ、左ほおに1か所の傷を負うが、命には別条なしということとなりました。

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犯人の相原尚褧(あいはらなおふみ)が板垣退助を襲った理由は何か

相原尚褧は尾張国名古屋にて出生しています。犯行当時の年齢は27歳です。家は名古屋藩に仕える200石取の武士ですから、それなりの身分です。

しかし、明治維新になって世間に埋没してしまいます。相原はその後愛知県師範学校に入学し、小学校の教師をしており、犯行直前までは愛知県の知多半島にある横須賀村にいました。

政治結社には所属していませんが、いわゆる保守主義、漸進主義者であったため、国会開設によって盛り上がる民権派には反感を持っていたようです。

このような急進的な活動が進めば国家のためにならないと、民権派、自由党の首領である板垣退助の殺害を計画したものです。

一週間前には殺害を決意し、遺書を書いています。一週間かかって準備をしていました。板垣が岐阜で泊まる旅館も突き止め面会を求めたが断られたようです。

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犯人の相原尚褧(あいはらなおふみ)はその後どうなったか

相原は岐阜重罪裁判所で裁判を受け、無期懲役となります。板垣退助から助命嘆願書が提出されており極刑は避けられております。

相原は特例恩赦により出獄

7年後の明治22年(1889年)大日本帝国憲法発布の恩赦の対象になりました。

当初は民間人の殺害未遂として処理されていましたが、自由民権運動の逮捕者も国事犯として恩赦の対象となり、板垣負傷に際して明治天皇が勅使を差し向けたことから、国事犯に準じて恩赦の対象となったようです。

相原は板垣を訪問し謝罪

出獄後、相原は紹介者に伴われて板垣退助を訪問しております。そして、当時のことを謝罪に及んでいます。この時、板垣退助が言った言葉が素晴らしいと思います。

本当に天下を思って出た行動であれば謝る必要はない。国を思うにこのような心掛けがなければ何もできない

昔、中岡慎太郎が自分を暗殺しようとしたことがあり、その後私に謝りに来た。これと同じで、私心から出たことではなく、天下を思って出た行動であり、惜しむらくは、その気持ちが伝わらなかっただけだ。

今、その考えの違いも解けたので、自分は一命をとして仕事をしていく。もし、今後自分に誤ったことをしていたら、刀をもって成敗しても良い。

なかなか、ここまで言える人はいないと思います。やはり明治の人は生き死にを超越してここまで来たから言えることでしょう。

そして、相原は北海道に渡って人のため国のために開拓に従事したいと述べて、別れることになります。

しかし何を思ったのでしょうか。相原は北海道に渡る途中遠州灘付近を航行中の船から失踪してしまいます。享年36です。この失踪には、自殺説、背後の組織に抹殺された説、事故説がうわさされていますが、真相は謎のままです。

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板垣退助の名言「板垣死すとも自由は死せず。」は本当に発せられたのか

板垣の名言についても後日いろいろな意見が出てきています。暴漢に襲われてとっさにあのような名言が出てくるものだろうかという疑問をいだくのが自然かもしれません。

主な説は次の通りです。

  • 板垣退助発言説 これには2説あって、襲われたときに言ったのと、相手を組み伏せたときに言ったという説があります。また、発言内容も、「板垣は死するとも自由は亡ひす」とか、「吾死するとも自由は死せん」とか、「我今汝か手に死することあらんとも自由は永世不滅なるへきぞ」
  • 内藤魯一発言説 真っ先に駆けつけた同志の内藤魯一が叫んだものを板垣が叫んだことにした。
  • 全く何も言わなかった説

でも、私的には正確に「板垣死すとも自由は死せず」と硬く言ったかどうかは不明ですが、この趣旨のことは言ったのではないかという説に賛成したいと思います。

といいますのは、板垣はこの前から半年以上各地を遊説しており、このような趣旨の演説をあちらこちらでしている関係上、とっさの場合でも、この趣旨の発言はできてしまったと考えられるのです。

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板垣退助の名言「板垣死すとも自由は死せず」は何時何処で生れたのまとめ

板垣の遭難については一時死亡の連絡も入ったりして、翌日の閣議は中止となります。また明治天皇が勅使を派遣するなど大騒動になりました。

幸い、10日ほどで傷も癒えて、再び演説会を開催できるようになりました。この時にはすっかり人気者になって、群衆が押し掛けたそうです。

実はこの事件にもう一つのエピソードがあります。板垣が遭難した時、同僚の内藤魯一の要請を受けて、当時愛知県病院長になっていた後藤新平が翌日板垣を診察に岐阜まで出かけています。

この時後藤は「閣下、御本懐でございましょう。」と言ったといわれ、板垣は、「あの男を政治家にできないのが残念だ。」と言ったといわれています。

後藤新平はその時は医者でしたが、ある時期から転身し満鉄初代総裁、逓信大臣、外務大臣、東京市長を歴任する政治家になっていきます。

人はいろいろなところで繋がっているものです。

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