維新の功労者の山縣有朋は明治政府の陸軍を作った功労者とも言われ、総理大臣も経験し、元老として長く君臨した方です。しかしながら世間的には官僚的ともみられ、あまり評判はよくありません。
そんな中でも彼としてはとてもユニークな事業も手を出しております。実際は山縣有朋から子孫の山縣伊三郎、有道、有信が受け継いで経営した山縣農場と言われている事業です。今回はその農場について解説します。
山縣農場に関連する人物一覧
山縣有朋は湯玉の庄屋の娘友子と結婚しており、友子の没後は芸奴吉田貞子が事実上の夫人として活動しております。
友子との間に7人の子供をもうけますが、次女を除いて夭折してしまいます。このため、姉の壽子の次男伊三郎を養子として迎えます。
伊三郎は枢密顧問官、逓信大臣、徳島県知事を務めます。
伊三郎は有朋の次女松子の三男有光も養子に迎えます。そして有光は山縣家分家として男爵を授かります。
伊三郎の子、有朋の孫にあたりますが、山縣有道は侍従、式武官を務めます。
有道の子、ひ孫にあたりますが、山縣有信は栃木県矢板市長を務めます。
今回の話はこれらの方が関係するので紹介しておきました。
山縣農場の歴史と特徴
那須野ヶ原は栃木県北部の那須地域にある広大な扇状地で、標高150m~500m程度の緩やかに傾斜した台地となっていました。
水源は伏流水になっており井戸は相当深く掘らないと届きません。おまけに砂礫層であるため水がたまらず農地には適さない土地でした。このため江戸時代までは集落のない原野となっていました。
明治政府はこの那須野ヶ原の官有地を払い下げることになります。そしてこの土地に当時の著名人が次々と払い下げを受けて農場を開墾することになります。ざっと次のような人たちです。
三島通庸、青木周蔵、山田顕義、大山巌、西郷従道、松方正義、佐野常民、品川弥二郎、戸田氏共、毛利元敏、鍋島直大
これらを華族農園と称しています。
山縣有道邸(1927年/矢板市)
山縣有朋別邸の隣にある私邸。山縣有朋の養嗣子伊三郎が死去し、孫の有道が山縣農場の経営を引き継いだときに建てたもの。現在はひ孫の妻、山縣睦子(今年で93歳になるのだそう)が年に数度管理しに来ているそうです。非公開。#近代建築 #てくてく近代建築 pic.twitter.com/cHRhSwtku9— 藤沢うるう / 近代・建築・土木・遺産 (@fujisawa_uruu) November 12, 2017
渋沢栄一も那須野ヶ原開拓事業に乗り出す
渋沢栄一もこの那須野ヶ原に隣接する地域に明治13年、拝借届出を出しますが、なぜか地元の反対にあって頓挫してしまいます。
明治16年山縣有朋がこの土地に拝借届出を提出して、地元の同意も取り付けて、翌年「山縣開墾社」として事業を始めます。
山縣有朋はドイツに出かけた際、プロシアの貴族が農場を構えて経営しているのも見て、自分もやってみたいと思うようになったようです。しかし、前述の華族農園は平地にありましたが、山縣が手にしたのは隣接した山地のようでした。
それにしても、どうして渋沢栄一の届けがトラブルになって不受理で、山縣がすんなり受理されたのかは判明しません。やっぱり何かあったのかと勘繰りたくなりますが、現在ではわかりません。
山縣有朋のユニークな事業「山縣農場」とは?
明治19年には、伊佐野農場(後の山縣農場)を開きます。この土地は自然林150町歩、草山600町歩の広大な土地です。今の呼び方で言えば750haになります。
山縣有朋は開墾を行う人員の募集に際して、土地を持っていない農家の二男、三男という条件を付けたようで。この条件に合った小作人に土地を与えて自作農とするものであったようです。
このため、住まいを用意したり、学校を開いたりしています。ここまで考えると、山縣有朋って偉いなと見直してしまいます。巷の風評とは相当違いますね。
この方針は子供の伊三郎、有道にも引き継がれています。そして昭和9年には山縣農場開設50周年を迎え、36名の小作人に土地を分譲したそうです。
こんな経緯もあったため太平洋戦争後の農地解放にあたっても混乱なく自作農への転換ができたそうです。
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🍎山縣農場 #日本遺産 #おいでよ栃木 pic.twitter.com/IpDY7A9VQh
— 🥟テレンコM🍓 (@terenkoM) July 11, 2020
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山縣農場の敷地内にある山縣有朋記念館
山縣有朋は趣味は和歌を詠むのが得意であり、その他漢詩、仕舞、書も好んでいたようです。また、普請道楽、造園道楽として知られています。東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園などは評価が高いものです。
このうちの小田原の古希庵は山縣が古希の時に作ったもので、晩年、引退してからも大御所としてここから政治をコントロールしていたところです。
建物としては平屋の和風木造、木造2階建ての洋館、レンガ造り平屋建ての洋館があります。ところが大正12年の関東大震災で被災したので、これを山縣農場に移設したものです。
山縣有道邸(1927年/矢板市)
山縣有朋別邸の隣にある私邸。山縣有朋の養嗣子伊三郎が死去し、孫の有道が山縣農場の経営を引き継いだときに建てたもの。現在はひ孫の妻、山縣睦子(今年で93歳になるのだそう)が年に数度管理しに来ているそうです。非公開。#近代建築 #てくてく近代建築 pic.twitter.com/cHRhSwtku9— 藤沢うるう / 近代・建築・土木・遺産 (@fujisawa_uruu) November 12, 2017
山縣有朋が手がけたユニークな事業「山縣農場」のまとめ
山縣有朋というと長州閥の親玉と見られていますし、汚職事件もおこしたりして、実力者ではありますが、あまり、評判が良くはありませんでした。
亡くなった時も、見送りの人もあまり集まらなくて、生前の権力の割には寂しかったと聞いています。そんなこともあってとんでもない人かなと思えば、意外と良いこともしています。
この那須の土地の農場はご紹介したように多くの華族が出資して、農場を解説していますが、山縣農園のように自作農の育成を考えて作った農場はどのくらいあったのでしょうか。
何かと評判の悪かった山縣有朋の意外な側面が見られて良かったかなと思います。
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