山縣有朋とその子孫:維新の英雄から現代まで

歴史人物

山縣有朋、日本の近代化に貢献した維新の英雄。元陸軍大将、そして二度にわたる内閣総理大臣として知られる山縣有朋の功績は、多くの人々に語り継がれています。しかし、彼の功績は政治や軍事にとどまらず、その子孫たちもまた、様々な分野で日本の発展に貢献してきました。この記事では、山縣有朋の生涯からその子孫の現代に至るまでの歩みを追います。

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山縣有朋の生涯と業績

山縣有朋は、幕末から明治にかけての日本を代表する政治家・軍人であり、その生涯は日本の近代化に大きく寄与した。長州藩の下級武士の家に生まれ、若き日には松下村塾で学び、吉田松陰に大きな影響を受けました。

奇兵隊の一員として、幕末の動乱期に活躍。特に下関戦争や戊辰戦争では新政府軍の一員として戦い、明治維新の立役者の一人となります。

幕末から明治への功績

海外の軍事制度を学ぶためにヨーロッパへ渡り、帰国後は陸軍の基礎を築いた。兵部省次官として、西郷隆盛と協力し、陸軍・海軍の棲み分けなどの改革を実施。陸軍大輔として陸軍の長官職に任じられ、日本の軍制確立に尽力しました。

山縣有朋と西郷隆盛の関係

山縣有朋は、西郷隆盛と深い関係を築いていた。奇兵隊時代に西郷隆盛と出会い、西南戦争では対峙することになるが、西郷隆盛の死を深く悼んだとされる。この複雑な関係は、二人が日本の近代化に果たした役割の大きさを象徴しています。

政界での活躍と晩年

政界では、内務大臣として地方の自治体制を整備し、日本の行政体系の基盤を作り上げた。また、二度にわたって内閣総理大臣を務め、その政治手腕で国内外の課題に取り組んだ。晩年は枢密院議長としても活躍し、日本の近代政治に大きな足跡を残しました。

これらの業績は、山縣有朋が日本の近代化において、軍事だけでなく政治面でも重要な役割を果たしたことを示しています。彼の生涯と功績は、日本の近代史を理解する上で欠かせない要素となっています​​。

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山縣有朋の子孫とその活躍

山縣有朋は、日本の近代化に貢献した維新の英雄として知られています。彼の直接の子孫は次女の松子のみでしたが、山縣家は養子によってその血筋を継いでいきました。

山縣家の系譜と子孫の紹介

山縣有朋は湯玉の庄屋の娘友子と結婚しており、友子の没後は芸奴吉田貞子が事実上の夫人として活動しております。

友子との間に7人の子供をもうけますが、次女を除いて夭折してしまいます。このため、姉の壽子の次男伊三郎を養子として迎えます。

伊三郎は枢密顧問官、逓信大臣、徳島県知事を務めます。

伊三郎は有朋の次女松子の三男有光も養子に迎えます。そして有光は山縣家分家として男爵を授かります。

伊三郎の子、有朋の孫にあたりますが、山縣有道は侍従、式武官を務めます。

有道の子、ひ孫にあたりますが、山縣有信は栃木県矢板市長を務めます。

現在の当主である山縣有徳さんは、祖先の功績を後世に伝えるため「山縣有朋記念館」を運営しており、山縣家の歴史を今に伝えています​。

山縣農場の歴史と特徴

那須野ヶ原は栃木県北部の那須地域にある広大な扇状地で、標高150m~500m程度の緩やかに傾斜した台地となっていました。

水源は伏流水になっており井戸は相当深く掘らないと届きません。おまけに砂礫層であるため水がたまらず農地には適さない土地でした。このため江戸時代までは集落のない原野となっていました。

明治政府はこの那須野ヶ原の官有地を払い下げることになります。そしてこの土地に当時の著名人が次々と払い下げを受けて農場を開墾することになります。ざっと次のような人たちです。

三島通庸、青木周蔵、山田顕義、大山巌、西郷従道、松方正義、佐野常民、品川弥二郎、戸田氏共、毛利元敏、鍋島直大

これらを華族農園と称しています。

渋沢栄一もこの那須野ヶ原に隣接する地域に明治13年、拝借届出を出しますが、なぜか地元の反対にあって頓挫してしまいます。

明治16年山縣有朋がこの土地に拝借届出を提出して、地元の同意も取り付けて、翌年山縣開墾社」として事業を始めます。

山縣有朋はドイツに出かけた際、プロシアの貴族が農場を構えて経営しているのも見て、自分もやってみたいと思うようになったようです。しかし、前述の華族農園は平地にありましたが、山縣が手にしたのは隣接した山地のようでした。

それにしても、どうして渋沢栄一の届けがトラブルになって不受理で、山縣がすんなり受理されたのかは判明しません。やっぱり何かあったのかと勘繰りたくなりますが、現在ではわかりません。

山縣有朋のユニークな事業「山縣農場」とは?

明治19年には、伊佐野農場(後の山縣農場)を開きます。この土地は自然林150町歩、草山600町歩の広大な土地です。今の呼び方で言えば750haになります。

山縣有朋は開墾を行う人員の募集に際して、土地を持っていない農家の二男、三男という条件を付けたようで。この条件に合った小作人に土地を与えて自作農とするものであったようです。

このため、住まいを用意したり、学校を開いたりしています。ここまで考えると、山縣有朋って偉いなと見直してしまいます。巷の風評とは相当違いますね。

この方針は子供の伊三郎、有道にも引き継がれています。そして昭和9年には山縣農場開設50周年を迎え、36名の小作人に土地を分譲したそうです。

こんな経緯もあったため太平洋戦争後の農地解放にあたっても混乱なく自作農への転換ができたそうです。

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山縣農場の敷地内にある山縣有朋記念館

山縣有朋は趣味は和歌を詠むのが得意であり、その他漢詩、仕舞、書も好んでいたようです。また、普請道楽、造園道楽として知られています。東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園などは評価が高いものです。

このうちの小田原の古希庵は山縣が古希の時に作ったもので、晩年、引退してからも大御所としてここから政治をコントロールしていたところです。

建物としては平屋の和風木造、木造2階建ての洋館、レンガ造り平屋建ての洋館があります。ところが大正12年の関東大震災で被災したので、これを山縣農場に移設したものです。

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山縣有朋が残したもの

山縣有朋は、明治維新を経て日本の近代化に大きく貢献した人物です。彼の遺したものは、政治や軍事の分野だけに留まらず、文化面にも大きな影響を及ぼしました。

文化への影響

山縣有朋は、日本の近代軍制の父として知られていますが、その影響は軍事の範疇を超えています。彼は、プロイセン(現在のドイツ)を模範として日本の軍制を整備し、国力の強化に努めました。また、日本の近代教育制度や地方自治制度の確立にも関与し、日本の社会構造の近代化に貢献しました​。

一方で、彼は個人として庭園造りに深い愛着を持ち、京都の村雲庵は彼の代表作とされています。この庭園は、彼の美意識と哲学を反映した空間として、現在も多くの人々に親しまれています。庭園造りへの情熱は、彼の文化への貢献の一例です​。

後世へのメッセージ

山縣有朋は、彼の政治哲学や行動を通じて、後世に多くのメッセージを残しました。特に、彼の指導の下で成立した「軍人勅諭」は、日本軍の精神的指針とされ、その影響は第二次世界大戦まで続きました。また、彼が推進した徴兵制度は、日本の国民全体が国家のために責任を持つべきだという考え方を示しています​。

さらに、彼の私生活での趣味である庭園造りは、自然への深い敬愛と、日本の伝統美を大切にする心を示しています。椿山荘の庭園など、彼が手掛けた庭園は、今なお多くの人々に愛され、彼の美意識を後世に伝えています​​。

山縣有朋の業績は、政治や軍事の分野だけではなく、日本の文化や社会にも深く根を下ろしています。彼の生き方や考え方は、現代にも通じる普遍的な価値を持ち、私たちに多くの示唆を与えてくれます。

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