毛利敬親は幕末に何をしたの、逸話は?そうせい侯と言われた長州藩主

歴史人物

幕末にあって明治維新を成し遂げた原動力は薩摩、長州の二藩であることは異論がないでしょう。更に、将軍を始め幕末の四賢侯など大名も活躍します。

例えば、徳川慶喜、松平容保、松平春嶽、山内容堂、島津久光、遡れば徳川斉昭、島津斉彬などが挙げられます。

しかし、長州の藩主は誰も挙げませんよね。少し変だと思いませんか。これほどの大業を成し遂げたのに、藩主の存在が見えないのです。その謎の藩主について調べてみました。

スポンサーリンク

謎の藩主第13代藩主毛利敬親(たかちか、よしちか)の生い立ちは

敬親は世襲家老の一門である福原房昌の長男として文政2年(1819年)2月10日に生まれます。父親はその年に毛利本家に戻り、第10代藩主斉熙の養子となって毛利斉元となり第11代藩主となります。

天保7年(1836年)9月8日に父が死去し、斉熙の次男である斉広が第12代藩主として幕府に届け出ますが、僅か20日で死去してしまいます。

このため、当時は毛利教明と名乗っていましたが、斉広の養子となり、天保8年(1837年)に慶親と改名し第12代藩主として家督を相続します。

斉広の長女都美姫を正室にすることになっていましたが、当時5歳でしたので、正式な婚儀は10年後となりました。

藩主が急逝したりなかなか大変な状況でしたが、内紛も起こらず無事に藩主になったわけです。

歴史人物一覧の長州藩へはここをクリック

スポンサーリンク

第13代藩主毛利敬親が取り組んだことは

天保9年(1838年)萩に入ります。この頃は長州藩も他の藩に漏れず財政がひっ迫していました。このためまず取り組むのは質素倹約と貨幣流通の改正、村田清風を登用して藩政改革を実行します。

37ヵ年賦階済仕法という借財返済法を実施。特産物の専売を商人に預け運用銀を課税。下関海峡の金融兼倉庫業を行います。これにより財政再建が果たされます。

しかしながら村田清風は途中で失脚します。この後、坪井九右衛門も登用しますが、これも藩内の勢力争いで失脚します。

ここまで見ていると少し変に思うでしょう。今まで、活躍していた重臣も藩内で勢力争いに負けると助けることもなく失脚させてしまうのです。

坪井に至っては処刑されてもいます。どうして功労の臣を助けないのでしょうか。

その他、江戸の藩校有備館の建設、国元の明倫館の改革も行っています。

スポンサーリンク

黒船来航以来、藩論は二転三転する。その時の毛利敬親の取った方針は

安政5年(1858年)密勅を受けてことにより尊皇に舵を切り替えます。坪井を引退させ、周布政之助を登用して、藩論として攘夷に舵を切り替えます。

攘夷から穏健な開国後攘夷へ

文久元年(1861年)には長井雅樂を登用し、航海遠略策を採用して、公武合体に与する動きを見せます。ところが、翌年となると幕府の公武合体派が勢力を失うと、長井は失脚して文久3年には切腹させられてしまいます。

再び過激な攘夷へ

再び藩論は攘夷となり、文久3年には外国船に攻撃をかけるようになります。

攘夷から幕府恭順路線へ

文久3年、8月18日の政変で長州藩の攘夷派が京から一掃され、幕府から長州征討が命じられます。敬親の官位も剝奪されてしまいます。更に、下関も報復攻撃を浴びます。まさに藩存亡の時になります。

第一次長州征伐を前に、藩論は抗戦、恭順に二分され、一向に決着する様子が見えません。それまで、全く何も言わなかった敬親は退席時に恭順とすると一言言って席を立ったと言います。

このため、三家老は切腹、敬親は謹慎ということになります。敬親が決断したのはこの時ただ一回だけだと言われています。

このように藩論が二転、三転しても、いつも「そうせい」と返事をするだけだったので、「そうせい侯」と言われていたようです。

高杉晋作のクーデターを受けて

しかし、幕府恭順派も長続きしません。翌年1月には高杉晋作が馬関で挙兵をして、いわゆる藩内クーデターを図ります。

内戦の後3月にはクーデターが成功し、幕府恭順派が一掃されてしまいます。そして藩はこの方針のまま、戊辰戦争に突入してしまいます。

歴史人物一覧の長州藩へはここをクリック

スポンサーリンク

総括すると毛利敬親の治世のスタイルはどのようだったのか

このように、毛利敬親はよく言えば柔軟、悪く言えば自分の意見がない暗愚な藩主ということになります。このように、藩の中の大勢が決まればそれに乗っかっていくという方針なのです。

どうやらこの方針は、毛利藩代々そのような考え方が主流と言われています。幕末の名君と言われる例えば島津斉彬などは自分の意見、考え方が前面に出て藩の方向を決めていきます。

我々の感覚から言えばこれこそが名君と考えるのですが、それとは相当の考え方の開きがあるような気がします。

確かに君主としては、積極的に目標を提示して政策を推進する君主と、このように君臨すれど統治せずの方針に徹する君主の両方があるのですが、敬親はその後者の典型なのでしょう。

後の先進国家の君臨形態の先取りともいえるのかもしれません。

けれども、長州藩のように藩論が二転三転するところであれば、このような方が良かったのかもしれません。藩主としてどちらかに加担すれば、失脚した時にそれらを支えなければなりません。

そうすると藩内の意見が自由に通らなくなる恐れがあり、へたをすれば領主が排斥されてしまう恐れもあるのです。その代り、功臣に対しても非情な措置を取らなくてはならなくなります。

切腹させられた、坪井、長井の例などもそうでしょう。

 

スポンサーリンク

毛利敬親は幕末に何をしたの、逸話は?そうせい侯と言われた長州藩主のまとめ

長州藩の君臨すれど統治せずの典型的な見本を見せた毛利敬親の政治手法の紹介をしていきました。

その他にも毛利敬親の特質として、確かに見込んだ人間に藩政のすべてを任せるというスタイルですが、とても大切なのはその人を見る姿勢だろうと考えます。

この点について毛利敬親は人を見る目が非常に優れていたと言われています。その都度藩論が変わってもそれを支える人材が豊富だったのも幸いしたことでしょう。

また、吉田松陰がまだ10代の頃に見出し、進んでその意見を聞く姿勢を持つなど、藩内で身分の上下にかかわらず意見を言わせたことは、藩内での風通しを良くしたとも言われています。

最後に逸話として残っていることを紹介しておきます。

木戸孝允が慶応4年(1868年)版籍奉還を行うため、まず長州藩から範を示す必要があるということで、毛利敬親公に版籍奉還の願いを説明します。

そのとき「そうせい」と言ったかどうかわかりませんが、敬親は了承しました。これだけで木戸孝允は肩の荷が下りたことでしょう。

しかし退出するときに「待て。」と言われます。

敬親は、「これだけの改革をしようとすれば、今は戦乱の世であるので、気が立っている。どのようなことが起こるかわからにから、京に行って時期を見計らってするように。」と注意します。

この時木戸孝允は初めて、藩主の偉大さを知ったということです。木戸孝允は長州藩の上士です。長い間見ていても気がつかなかったというのが驚きです。それほど自分を出さなかったのでしょう。

歴史人物一覧の長州藩へはここをクリック

コメント

タイトルとURLをコピーしました