第19代内閣総理大臣は平民宰相として有名でしたが、1921年(大正10年)神戸で開催される政友会の大会に出席するため東京駅で暗殺されました。
犯人は中岡艮一という青年でしたが、なぜこの犯行に及んだのか、その原因は実ははっきりしておりません。その事件について解説します。
総理大臣原敬が暗殺された状況は
1921年(大正10年)11月4日のことです。内閣総理大臣原敬は翌日の立憲政友会近畿大会に出席するために、東京駅に午後7時10分ごろに到着します。
駅長室に立ち寄り、丸の内南口の改札から入ろうとするところを、群衆の中から突進してきた青年に短刀で胸を刺されてしまいます。青年はその場で逮捕されます。
原首相は駅長室に運び込まれ応急処置を受けますが、右肺から心臓に達する状況でほぼ即死という状態でした。
現在でも丸の内南口の改札の外に事件の概要を示したプレートと遭難場所を示す印が残されています。
実はこの前日に、原首相宛に暗殺の情報があるとして連絡が入っておりました。この連絡を届けたのが三島由紀夫の祖父である平岡定太郎です。
しかし原首相は其の注意には感謝するが、運は天に任せて警戒は特に加える必要なしとしております。しかし、その後、自ら遺書を書いております。
と言いますのは、この頃、皇太子のご成婚問題について宮中某重大事件と言われる事件で、婚約者の良子女王の家系に色盲の遺伝があると言って山縣有朋が疑義を唱えた事件です。
これについては、不問として既定方針通りとしていました。
また、皇太子の外遊についても積極的に推進しよとして公表しており、これについては頭山満を中心とする右翼勢力から大正天皇が病弱なこともあり、相当な批判が寄せられていました。
折角東京駅に来たので今から100年前1921年11月4日19時20分第19代内閣総理大臣原敬が中岡艮一の持っていた短刀で刺され死亡した暗殺事件の場所
つむつき2巻第22話最後のお話ですね #紡ぐ乙女と大正の月 pic.twitter.com/cwMu6itrvU
— 麻子 (@I_love_mako) October 16, 2021
総理大臣原敬はなぜ暗殺された。その理由は。
1918年(大正7年)から内閣総理大臣に就任しておりますが、主には次のような施策をしていたといわれています。
1.内閣総理大臣が海軍大臣を代行することができるようにしました。1921年のワシントン海軍軍縮会議に出席するにあたって海軍大臣を代行することができることとしました。
また、植民地の長官も文官が就任できるようにしました。
2.高等教育の拡充に力を入れて、膨大な予算を支出します。官立高等学校、大学のみならず私立大学の大幅な昇格が実現しました。
3.軍事費への多額の予算を配分します。1921年は1917年の2倍を超える予算を配分することになります。
このような感じですから、平民宰相と言っても、就任後は積極的な政策をとったため、財閥、政商向けの予算となってしまいます。
逆に普通選挙法については否定的ということで、いささか期待とは違う方向に向いていたようです。従って、国民の不満もたまってきていたようです。
1921年、大正10年11月4日
原敬暗殺事件19:25頃、内閣総理大臣 原敬、東京駅乗車口の改札口(現在の丸の内南口)付近で、短刀を持った大塚駅転轍手 中岡艮一によって刺殺される。中岡氏による犯行動機は現在も不明のままである。 pic.twitter.com/zgY6GQki4H
— J.WH (@JPNHistoria) November 4, 2018
中岡艮一はなぜ犯行に?
中岡艮一は1903年(明治36年)生まれですから当時はまだ18歳でした。栃木県に生まれて高等小学校を中退し、2年前から山手線大塚駅の駅夫見習、転轍手をしていました。
犯行に及んだいくつかの原因は挙げられていますが、今一つ要領を得ないのです。
1.野党が出した普通選挙法に原首相が反対していたこと。中身が漠然としていてとても殺人まで行きそうもないのです。
2.ロシアの住民虐殺事件「尼港事件」で日本人731名が巻き添えとなったことに腹を立てたこと。
3.上司の橋本が常々原敬首相の政治姿勢を批判していたこと。
「今の日本には武士道性精神が失われた。腹を切るというが、実際に腹を切った例はない。」というと、中岡は「私が原を斬ります。」と答えていること。いささか、理解がトンチンカンですよね。
4.残された斬奸状が本人のものとは思えない。内容は次のようなものなのです。
「内閣総理大臣原敬、就任以来政道をつかさどる に私慾をはさみ、おのれの利すところに万民愁苦を顧みず、列国の笑侮を悟らず、その罪数う可らず。もし、唾手(勇んで)もってこれを誅鋤(根絶やしにす る)せずんば、何時の日か天日を仰がれん」
と書かれているが、自分の名前が良一となっていること。しかも高等小学校中退の文面とは思えないこと。
11/4は原敬総理刺殺事件の日。犯人の中岡艮一は右翼との関係を疑われたが不明。出獄後に頭山満や陸軍と関係し、後にイスラム教に入信。 pic.twitter.com/DE1OrPEHnj
— 渡貫賢介@右翼情報調査会 (@watanuki1989) November 4, 2020
犯人の中岡艮一のその後の人生は
中岡艮一は裁判で単独犯として無期懲役の判決を受けます。しかしながら、その原因、背景については深く追及されることはありませんでした。
通常、一国の首相が暗殺されたのですから、その背景、原因、誰が教唆したのかも含めて、徹底的に調べるはずなのですが、なぜか徹底的に追及された様子がないのです。
中岡艮一は無期懲役でしたが、皇太子ご成婚、大正天皇の御大葬、昭和天皇の即位の3回の恩赦のため、13年で出所することになります。昭和9年ですから、まだ31歳です。
そして出所後は右翼の大物頭山満を頼っています。その後満洲に渡り、なぜかハルピンの第4軍管区司令部に出入りしているのです。
さらに大連で弘報主任にをしています。変わったところでは、昭和12年にイスラム教に改宗して、イスラム教徒と結婚しています。戦後も長く生きて1980年(昭和55年まで)生きています。
このような経緯もあって、右翼団体から何らかの示唆又は支持を受けて犯行に及んだのではないのかといううわさがその後も続いていました。
総理大臣原敬は東京駅でなぜ暗殺されたのかのまとめ
以上の状況から行くと、やはり右翼の動きがあったのではないかという推測もなされますが、今となっては不明のままに終わっています。
確かに、皇太子の問題では右翼を逆なでするような行為をしていますが、軍部に関しては相当の予算をつけていることからして、必ずしも関係は悪くはなかったのでしょう。
そしてもう一つこの事件の前日に暗殺事件を暗示するようなエピソードがあります。前日原敬首相はベルギー大使館の晩餐会に出席しています。
このベルギー大使館は実は大久保利通の邸宅でした。同行した大久保利通の次男の牧野伯爵がかっての自分が住んだ家でしたので、原敬を案内し、大久保利通が遭難した時に遺骸が置かれた部屋も案内したそうです。
その時原首相はその遺骸が置かれた場所をじっと見つめて動かなかったそうです。事件が起きたのはその24時間後でした。
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