推古天皇とは?日本初の女帝の生涯・政治と聖徳太子との関係

女帝

推古天皇は、日本で最初に正式に即位した女性天皇であり、聖徳太子や蘇我馬子とともに飛鳥時代の国家づくりを進めた人物です。

592年の即位から628年の崩御まで、仏教の振興、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使など、日本が古代国家として形を整えていく重要な改革が相次ぎました。

「推古天皇とは何をした人なのか」「聖徳太子との関係はどうだったのか」という疑問を中心に、誕生から即位、政治的役割、晩年まで順を追って見ていきます。

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推古天皇とは?誕生と血統背景

推古天皇(とよみけかしきやひめのみこと)は、554年に第29代・欽明天皇の皇女として誕生しました。

母は有力豪族・蘇我稲目の娘である堅塩媛です。つまり父方では大王家、母方では当時勢力を伸ばしていた蘇我氏につながる、政治的にもきわめて重要な血統を持っていました。国立国会図書館の資料でも、推古天皇の生没年は554~628年として整理されています。国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)+1

後世の追号である「推古天皇」と呼ばれる以前は、豊御食炊屋姫、炊屋姫などと記されます。

後に異母兄である第30代・敏達天皇の妃となり、皇子皇女をもうけました。『日本書紀』では、容姿が美しく、立ち居振る舞いにも節度があった人物として描かれています。

ただし、推古天皇を理解するときに大切なのは、単に「美しく聡明な皇女だった」と見ることではありません。

彼女は、大王家の内部と蘇我氏の双方につながる女性でした。この立場こそ、のちに激しい皇位継承争いを収めるうえで大きな意味を持ったと考えられます。

私は、推古天皇の即位を考える際には、この「血縁の交差点」という点をまず押さえておくと分かりやすいと思います。

推古天皇は突然歴史の表舞台に現れた人物ではなく、すでに敏達天皇の皇后として政治の中心に近い場所を経験していたのです。


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即位までの政治的混乱と悲劇

敏達天皇が亡くなると、皇位をめぐる情勢は一気に不安定になります。

当時は、現在のように皇位継承の順位が制度として明確に固定されていた時代ではありません。大王家の血統だけでなく、有力豪族との関係や政治的支持も大きな意味を持っていました。

敏達天皇の死後、推古天皇となる炊屋姫は喪に服していましたが、この時期に異母弟の穴穂部皇子をめぐる深刻な事件が起こったと『日本書紀』は伝えています。

穴穂部皇子が炊屋姫を得ようとして殯宮へ入り込もうとし、三輪逆がこれを阻止したという内容です。従来、この事件は「穴穂部皇子が皇后を犯そうとした」と説明されることもありますが、古代史料の表現を現代的な言葉に置き換える際には慎重さも必要です。

いずれにしても、炊屋姫の身辺にまで皇位継承争いの緊張が及んでいたことは見逃せません。

炊屋姫を守った三輪逆は、その後、物部守屋によって殺害されたとされます。

一連の出来事から見えてくるのは、6世紀末の宮廷が決して穏やかな場所ではなかったということです。

皇位、豪族の勢力、婚姻関係、仏教受容をめぐる立場などが複雑に絡み合い、一つの判断が政治勢力全体の行方を左右する時代でした。

こうした争いを身近に経験したことは、後の推古天皇が極端な一勢力への依存を避け、複数の有力者を組み合わせながら政権を運営した背景の一つとして考えることができるでしょう。


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蘇我氏と物部氏の対立:王権を巡る戦い

敏達天皇の後を継いだのが、推古天皇の同母兄にあたる用明天皇です。

しかし用明天皇は即位後わずか2年ほどで崩御し、再び皇位継承をめぐる争いが表面化しました。

この時代の大きな対立軸となっていたのが、蘇我氏と物部氏です。

仏教を積極的に受け入れようとする蘇我氏に対し、物部氏は慎重あるいは否定的な立場を取っていました。用明天皇の死を契機として両勢力の対立は決定的となり、587年には蘇我馬子側が物部守屋を破ります。

国立国会図書館に収録された研究でも、6世紀の仏教受容をめぐって蘇我氏と物部氏の対立が激化し、587年に物部氏が敗れたことが整理されています。国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)

皇位をめぐっては、物部氏側が支持した穴穂部皇子と、蘇我氏側が支持した泊瀬部皇子の対立がありました。

勝利した蘇我馬子の支持を受け、泊瀬部皇子は第32代・崇峻天皇として即位します。

ところが、ここで争いが終わったわけではありません。

崇峻天皇と蘇我馬子の関係は次第に悪化し、592年、崇峻天皇は蘇我馬子の意向を受けた東漢直駒によって殺害されたと『日本書紀』は伝えています。

天皇が臣下の側の政治的判断によって暗殺されるという異例の事態でした。

この出来事は、次の天皇を誰にするかという問題を極めて難しくしました。

再び特定の皇子を立てれば、新たな勢力争いが起こる恐れがあります。一方、皇位を空けたままにすることもできません。

その緊張の中で選ばれたのが、炊屋姫、すなわち後の推古天皇でした。

ここに、推古天皇即位の大きな意味があります。

「女性だから争いを避けるためのつなぎとして選ばれた」とだけ説明すると、実際の政治状況を単純化しすぎてしまいます。

敏達天皇の皇后を務めた経験、大王家の血統、蘇我氏との血縁、さらに長く宮廷政治を見てきた年齢と経験。そのすべてが、危機にある王権をまとめるうえで重要だったと考える方が自然です。


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推古天皇、女性として初の即位へ

崇峻天皇が592年に亡くなった後、炊屋姫は第33代天皇として即位しました。

日本史上、正式に即位した最初の女性天皇が推古天皇です。

宮内庁も推古天皇を第33代天皇として位置づけており、父を欽明天皇、母を堅塩媛としています。宮内庁

即位時の年齢は数え年で39歳とされます。

当時としては若い即位ではありません。すでに敏達天皇の皇后として宮廷を経験し、複数の天皇の治世と激しい政治抗争を目の当たりにしてきた女性が皇位に就いたことになります。

推古天皇は、自身の皇子である竹田皇子を将来の天皇にするための「つなぎ役」として即位したのではないか、という見方もあります。

しかし竹田皇子は推古天皇より先に亡くなったとみられ、結果として推古天皇自身の治世は長期にわたりました。

在位は592年から628年まで、およそ36年間です。

これは決して短期間の暫定政権とはいえません。

むしろ、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使、仏教振興、史書編纂など、日本古代史の教科書に並ぶ重要事項の多くが推古朝に集中しています。

国営飛鳥歴史公園では、推古天皇が592年に豊浦宮で即位し、その後、小墾田宮を宮としたことを紹介しています。推古朝から持統天皇の藤原宮遷都までのおよそ100年は、飛鳥が政治の中心となった時代でした。飛鳥歴史公園

つまり推古天皇の即位は、「史上初の女帝誕生」という一点だけが重要なのではありません。

飛鳥を中心とする新しい国家づくりが本格化する出発点の一つだったことに、より大きな歴史的意味があります。


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甥・聖徳太子との協治体制

推古天皇を語るうえで欠かせない人物が、厩戸皇子、後世に「聖徳太子」と呼ばれる人物です。

593年、推古天皇は甥である厩戸皇子を皇太子とし、政治の重要な役割を担わせました。

『日本書紀』の記述からは、皇太子が政務を補佐したことが読み取れ、後世には「摂政」として広く知られるようになりました。

厩戸皇子の父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女です。

穴穂部間人皇女は推古天皇の近親であり、推古天皇と厩戸皇子は単なる君主と臣下という関係ではなく、大王家の血縁によって結ばれていました。

ただし、「聖徳太子が政治を行い、推古天皇は任せていただけ」と理解するのは適切ではないでしょう。

最終的な王権の中心にいたのは推古天皇です。

さらに政権には蘇我馬子という強力な大臣も存在しました。

したがって推古朝の政治は、推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子という三者の協力と緊張の上に成り立っていたと捉えると、実態に近づきやすくなります。

三者の目的や立場が常に同じだったとは限りません。

推古天皇は王権の安定を担い、厩戸皇子は政治理念や制度整備に深く関わり、蘇我馬子は有力豪族の頂点に立って実際の政治を支えました。

私は、この三者の関係こそ推古朝の強さだったのではないかと考えています。

一人の強力な指導者がすべてを決めるのではなく、性格も基盤も異なる三者が一定の均衡を保ったからこそ、長期にわたる改革が可能になったと見ることができるからです。


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推古天皇の主要な政治業績

推古天皇は何をした人なのかと問われた場合、まず押さえておきたいのが、仏教・人材制度・政治理念・外交・歴史編纂を並行して進めた時代の天皇だったということです。

主要な政策を時系列で見ると、改革が単発ではなく、国家の仕組み全体を整える方向へ進んでいたことが分かります。

  • 594年:三宝、すなわち仏・法・僧を敬うよう求める詔が出され、仏教興隆が国家的に進められました。
  • 603年:冠位十二階を制定。家柄だけではなく、朝廷内での地位を冠位として示す新しい人材秩序が整えられました。
  • 604年:十七条憲法が制定されたと『日本書紀』は伝えます。官人が守るべき政治倫理や秩序を示した文書として位置づけられます。
  • 607年:小野妹子らが遣隋使として派遣され、隋との外交が本格化しました。
  • 620年:厩戸皇子と蘇我馬子が『天皇記』『国記』などを編纂したと伝えられます。

これらは、しばしば「聖徳太子の業績」としてまとめて覚えられます。

しかし、すべて推古天皇の在位中に行われた政策です。

その意味では、厩戸皇子だけを主役とし、推古天皇を背景に退かせてしまうと、この時代の政治構造を十分に理解できません。

仏教の振興は何を意味したのか

594年の仏教振興は、単なる宗教政策ではありませんでした。

6世紀には仏教受容をめぐって蘇我氏と物部氏が激しく対立しています。その争いを経た後、推古朝では仏教が国家秩序を支える思想の一つとして位置づけられていきます。

寺院建立や仏教文化の広がりは、飛鳥文化を特徴づける重要な要素となりました。

一方で、当時の日本が従来の神祇祭祀を捨てて仏教だけの国になったわけではありません。

新しい外来思想を取り入れつつ、それまでの信仰や政治秩序と共存させていくところに、日本古代国家形成の特徴があります。

冠位十二階は能力主義だったのか

603年の冠位十二階は、従来の氏族秩序だけに依存せず、朝廷の中で官人に冠位を与える仕組みとして重要でした。

しばしば「能力主義による官僚制度の始まり」と説明されますが、現在の公務員採用制度のような完全な能力主義だったわけではありません。

それでも、氏族に与えられた姓だけではなく、個人に政治的な序列を示す冠位を与えたことには大きな意味があります。

国家を運営する人材を、王権のもとで新しい秩序へ組み込もうとする動きだったからです。

十七条憲法は現代の憲法と同じなのか

604年に制定されたとされる十七条憲法は、「憲法」という名称から、現代の日本国憲法と似たものを想像しやすいところです。

しかし内容は、国民の権利や国家機構を定める近代憲法とは性格が異なります。

役人や政治に携わる者が守るべき倫理、協調、君主への奉仕、仏教尊重などを示した政治的・道徳的規範と考える方が分かりやすいでしょう。

国立国会図書館のレファレンス資料でも、『日本書紀』に十七条憲法が収録されていることが確認できます。レファレンス協同データベース

重要なのは、冠位十二階で「人の位置」を整え、十七条憲法で「政治に携わる者の心構え」を示したことです。

二つを別々に暗記するより、一連の秩序形成として見ると推古朝の狙いが見えやすくなります。

遣隋使はなぜ重要だったのか

607年には小野妹子が隋へ派遣されました。

中国大陸では巨大な統一王朝・隋が成立しており、日本にとって隋との関係は、東アジアの国際社会の中で自らの立場を整えるうえで重要でした。

遣隋使は単なる友好使節ではありません。

隋の制度、思想、仏教、学問、文化を学び、日本の政治改革へ取り込む役割も持っていました。

研究では、推古朝の冠位十二階、十七条憲法、仏教政策、遣隋使は互いに切り離された政策ではなく、東アジアを意識した政治改革の一環として捉えられています。国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)

ここは、推古天皇の治世を見るうえで特に重要な点です。

仏教、制度改革、外交は別々に起きたのではなく、「国の形を外に示せるように整える」という一つの流れとして見ることができます。

これが、推古朝を単なる「聖徳太子の時代」以上に興味深いものにしています。

『天皇記』『国記』編纂が持つ意味

620年には、厩戸皇子と蘇我馬子が『天皇記』『国記』などを編纂したと伝えられています。

残念ながら現在、その全体を読むことはできません。

国立国会図書館のレファレンス資料でも、厩戸皇子と蘇我馬子が作ったとされる一方、内容は不明とされています。レファレンス協同データベース

それでも、王権や国の由来を記録しようとした行為には大きな意味があります。

国家は制度だけで成立するものではありません。

「私たちはどこから来たのか」「どのような王が国を治めてきたのか」という共通の歴史を整理することも、統治の重要な要素です。

後の『古事記』『日本書紀』へ直接どの程度つながったのかは慎重に考える必要がありますが、推古朝に歴史編纂への強い意識が見られる点は注目に値します。


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厩戸皇子と蘇我馬子の死、晩年の推古天皇

622年、皇太子であった厩戸皇子、すなわち聖徳太子が亡くなりました。

長く政治を支えてきた重要人物を失ったことは、推古朝にとって大きな転機だったはずです。

さらに626年には蘇我馬子も死去します。

馬子は敏達・用明・崇峻・推古の各時代に政治の中心にいた人物で、推古天皇の母方の有力な親族でもありました。山川出版社系の資料でも、馬子は626年に没し、620年には厩戸皇子と『天皇記』『国記』などを編纂した人物とされています。コトバンク

つまり推古天皇は晩年、自らの長期政権を支えてきた厩戸皇子と蘇我馬子の双方を相次いで失ったことになります。

それでも推古天皇自身は628年まで皇位にあり続けました。

この事実は、彼女が単なる名目的な天皇ではなかったことを考える一つの材料になります。

もし実権が完全に厩戸皇子や蘇我馬子だけにあったのであれば、二人の死によって政権そのものが崩れても不思議ではありません。

しかし推古朝は続きました。

私はここに、推古天皇自身の調整力と王権の安定性を見ることができるのではないかと考えています。

後継者を明確に決めなかった理由

628年、推古天皇は崩御します。

75歳で亡くなったと伝えられています。

その直前、田村皇子と山背大兄王を呼び、後継問題につながる言葉を残したとされます。

田村皇子は後の舒明天皇です。一方の山背大兄王は厩戸皇子の子でした。

ところが、推古天皇は「この人物を次の天皇にする」と誰にも疑いようのない形で後継者を指定したわけではありませんでした。

そのため崩御後、田村皇子を支持する側と山背大兄王を支持する側の間で皇位継承問題が起こります。

この判断を「後継者を決められなかった」と見ることもできます。

しかし別の見方も可能です。

どちらか一方を強く指名すれば、推古天皇の生前から政治勢力が二分される恐れがありました。

長く均衡によって政権を維持してきた推古天皇だからこそ、最後まで露骨な対立を避けようとした可能性も考えられます。

もちろん、これは史料から断定できることではありません。

ただ、約36年間の治世を「調整と均衡」という視点から見ると、最後の後継者問題も違った姿に見えてきます。


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推古天皇の逸話:公私のけじめを守る女帝

推古天皇の政治姿勢を考えるうえで興味深いのが、蘇我馬子との間に起きた葛城県をめぐる逸話です。

624年、馬子は葛城県を自分に与えるよう推古天皇に求めたと『日本書紀』は伝えています。

葛城は蘇我氏にとって特別な意味を持つ土地でした。

しかし推古天皇は、母方で深いつながりを持つ蘇我氏の最高実力者からの要求でありながら、これを受け入れませんでした。

その趣旨は、おおむね次のようなものでした。


「たとえ叔父であっても、公の土地を私物化することを認めれば、後世に自分は愚かな女と評され、大臣も不忠との批判を免れない。」

この言葉で注目したいのは、推古天皇が蘇我氏そのものを否定していない点です。

むしろ自らが蘇我氏と深い血縁関係にあることを踏まえつつ、それでも公的な土地を一有力者へ与えることはできないと判断したところに意味があります。

蘇我馬子が葛城県を求め、推古天皇が認めなかった出来事は、624年のこととして資料にも確認できます。飛鳥資料館ファン倶楽部+1

これは、推古天皇を「蘇我馬子に担がれた天皇」とだけ見ることの難しさを示す逸話でもあります。

蘇我氏の支援は政権に不可欠でした。

一方で、蘇我氏の要求をすべて認めていたわけでもありません。

協力することと、従属することは同じではない。

推古天皇と蘇我馬子の関係を見るとき、この区別は非常に大切です。

長く行政の世界を見てきた立場から考えても、公と私の境界をどこに引くかは、時代を問わず組織運営の根幹です。

もちろん古代国家と現代行政をそのまま比較することはできませんが、親族や有力者への配慮をしながら、譲ってはならない線を守ろうとした姿勢には、政治家としての推古天皇の一面が表れているように感じます。


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現代に通じる推古天皇の意義

推古天皇の最大の功績を「日本初の女性天皇だったこと」だけに限定するのは、少しもったいないと私は思います。

彼女の治世は、日本が東アジアの国々と向き合いながら、自らの政治制度と国家としての姿を整え始めた重要な時代でした。

仏教の振興、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使、史書編纂。

教科書では別々の項目として学ぶため、それぞれ独立した出来事に見えます。

しかし並べてみると、そこには一つの方向性があります。

仏教によって新しい思想を取り込み、冠位によって人材秩序を整え、政治理念を示し、隋との外交によって外の世界から制度や文化を学び、自国の歴史を記録しようとする。

これは、「国とは何か」を内側と外側の両方から整える作業だったと見ることができます。

この視点に立つと、推古天皇の36年間は、日本古代史における一つの大きな転換期だったことがよく分かります。

もちろん、推古朝の段階で後の律令国家が完成したわけではありません。

中央集権的な制度も、戸籍や法体系も、この後の大化改新や天武・持統朝、さらに奈良時代へ向けて整備されていきます。

したがって「推古天皇が現代日本の制度を作った」と言い切るのは正確ではありません。

しかし、その後の国家形成につながる重要な方向性が推古朝ではっきり現れたことは確かです。

推古天皇は本当に「つなぎの女帝」だったのか

推古天皇については、皇位継承争いを避けるための「中継ぎの天皇」という説明がしばしばなされます。

確かに、その側面を完全に否定する必要はないでしょう。

崇峻天皇暗殺という異常事態の直後であり、竹田皇子など次世代の皇位候補も存在していました。

しかし36年という長い在位期間を見ると、「一時的なつなぎ」という言葉だけでは説明しきれません。

推古天皇の治世中にこれほど多くの政治改革が続き、厩戸皇子や蘇我馬子が亡くなった後も王権が維持されたことを考えると、彼女自身の政治的役割をもっと高く評価する余地があります。

私見では、推古天皇の強みは「自分一人がすべてを動かすこと」ではなく、能力の異なる人物を王権の周囲に配置し、簡単には壊れない政治的均衡を保ったことにあったのではないでしょうか。

現代では強い発言力を持つ指導者が目立ちやすいものです。

しかし長期の組織運営では、異なる立場の人々を結び、過度な対立を避けながら前へ進める力もまた重要です。

推古天皇の生涯を読み返すと、そうした「静かな統治力」の価値を改めて考えさせられます。

「聖徳太子の時代」だけでは見えないもの

推古朝は長い間、聖徳太子を中心に説明されることが多い時代でした。

聖徳太子が極めて重要な存在であったことに異論はありません。

ただし歴史を学ぶとき、著名な一人の人物だけですべてを説明しようとすると、他の人物が見えなくなります。

推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子。

さらに多くの豪族や渡来系の人々、遣隋使として大陸へ渡った人々がいて、初めて推古朝の改革は成り立ちました。

国立国会図書館に収録された研究でも、冠位十二階や十七条憲法、外交、仏教受容は一体となった推古朝の政治改革として論じられています。国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)

この点から見れば、推古天皇の評価は「聖徳太子を支えた女性」から一歩進める必要があります。

聖徳太子を政治の中心に生かし、蘇我馬子とも協力しながら、その両者の上に王権を維持した天皇と見ることで、推古朝の全体像がずっと立体的になります。


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まとめ:推古天皇の偉大さを再評価する

推古天皇は554年に欽明天皇の皇女として生まれ、592年、崇峻天皇暗殺後の混乱の中で第33代天皇として即位しました。

日本で最初に正式に即位した女性天皇であり、その治世は628年まで約36年間続きました。

推古朝では厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我馬子とともに、仏教振興、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使、『天皇記』『国記』の編纂など、後の古代国家形成につながる重要な取り組みが進められています。

一方、推古天皇自身も蘇我馬子による葛城県の要求を拒むなど、単なる名目的な君主では説明できない姿を見せました。

私は、推古天皇の本当の重要性は、「史上初の女帝」という記録以上に、激しい皇位継承争いの後で異なる政治勢力をまとめ、長期政権の中で国家改革を継続させた点にあると考えます。

強く前に出るだけではなく、異なる力を結び付け、必要なところでは線を引き、時代そのものを次の段階へ渡していく。

その静かな政治力こそ、推古天皇という人物を学ぶ面白さではないでしょうか。

推古天皇の陵は、宮内庁によって大阪府南河内郡太子町大字山田の磯長山田陵に治定されています。宮内庁では陵形を方丘としています。宮内庁

大阪府太子町も推古天皇陵を紹介しており、同地域には敏達天皇陵、用明天皇陵、聖徳太子ゆかりの史跡などが集中しています。現地を歩くと、教科書の人物同士の距離が、実際の地理として感じられるのも興味深いところです。大市町公式サイト+1

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冠位十二階制度の意味と背景

▼参考地

大阪府太子町の「推古天皇陵」、奈良県斑鳩町の法隆寺、蘇我氏ゆかりの飛鳥地域などを訪れると、推古天皇・聖徳太子・蘇我氏が生きた時代を土地のつながりから考えることができます。


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よくある質問

推古天皇は何をした人ですか?

推古天皇は、日本で最初に正式に即位した女性天皇です。

592年から628年まで在位し、厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我馬子とともに、仏教振興、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使などが進められた時代の王権を担いました。

単に「女性初の天皇」というだけでなく、日本が東アジアを意識しながら国家制度を整えていった時代の中心人物と考えると理解しやすいでしょう。

推古天皇と聖徳太子はどんな関係ですか?

推古天皇にとって厩戸皇子(聖徳太子)は甥にあたります。

593年に皇太子となり、推古天皇の政治を重要な立場から補佐しました。

ただし、聖徳太子だけが政治を行っていたと考えるのではなく、推古天皇を王権の中心として、厩戸皇子、蘇我馬子らが協力しながら政治を進めたと見る方が、この時代の実像を理解しやすくなります。

推古天皇はなぜ最初の女性天皇になったのですか?

直接の背景には、592年の崇峻天皇暗殺後に生じた深刻な皇位継承問題がありました。

推古天皇は欽明天皇の皇女であり、敏達天皇の皇后経験を持ち、さらに母方では蘇我氏につながる人物でした。

大王家と有力豪族の双方に強い血縁を持ち、すでに政治経験もあったことから、対立する勢力の間で王権を安定させる人物として適任だったと考えられます。

「つなぎ役」という見方もありますが、結果として約36年間在位したことを考えれば、それだけでは捉えきれない長期政権だったといえるでしょう。

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