第33代の天皇である推古天皇は史上初の女帝として有名です。それだけではなく、蘇我馬子という実力者と厩戸皇子(聖徳太子)のバランスをとって、当時の大帝国隋と国交を結んだ偉大な天皇です。
この天皇の誕生のいきさつと、天皇の業績について紹介していきます。
推古天皇が史上初の女帝、第33代天皇として即位するまで
推古天皇は第29代の欽明天皇の皇女です。母は蘇我稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)です。
欽明天皇15年(554年)に生まれます。豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)と言われます。
豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)敏達天皇の皇后となる
欽明天皇32年(571年)異母兄・渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妃となり、敏達天皇5年(576年)天皇の皇后・広姫の崩御を受けて皇后に立てられます。
敏達天皇14年(585年)に天皇が崩御します。皇后およそ31歳の頃です。
炊屋姫(推古天皇)は、日本書紀によれば、「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)おり、大変な美人だったようです。
そのためもあって、敏達天皇のもとでもたくさんの皇子、皇女をもうけております。
しかし、この時大変な事件が起きます。夫・敏達天皇の殯宮に皇后が勤めていた時、異母弟の穴穂部皇子が侵入し、皇后を犯そうとします。
幸い臣下の三輪逆に救われましたが、穴穂部皇子に同調した物部守屋に三輪逆は殺されてしまいます。やはり時代が時代ですから、後世のように儒教の影響もないので、何事も力づくで決まる世の中みたいですね。
その後、敏達天皇の弟の用明天皇が皇位につきます。しかし、2年ほどで崩御してしまいます。この用明天皇は炊屋姫(後の推古天皇)と同母の兄にあたります。この第二皇子が有名な厩戸皇子(聖徳太子)です。つまり炊屋姫(後の推古天皇)は厩戸皇子(聖徳太子の伯母にあたります。
崇峻天皇の即位
この後に争いが起こります。穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を推す蘇我馬子が戦い、蘇我氏が勝利します。
もちろん豊御食炊屋姫尊も厩戸皇子も蘇我系統ですから、泊瀬部皇子の方につきます。穴穂部皇子と物部守屋には恨みもありますし。これが崇峻天皇の始まりとなります。
しかしこの平和も長くは続きませんでした。蘇我馬子に擁立されたとはいえ、崇峻天皇に政治の実権を渡さない蘇我馬子にだんだん目覚めてきたのでしょう。
歴史には細かく書かれていませんが、蘇我馬子を排除しようとしたのでしょう。5年後の崇峻5年(592年)崇峻天皇は蘇我馬子に殺されてしまいます。
豊御食炊屋姫尊が即位し史上初の女帝・推古天皇が誕生
蘇我馬子は額田部皇女に即位を請います。時に豊御食炊屋姫尊39歳。史上初の女帝の誕生です。この時、天皇の候補はいなかったかというとそうでもありません。
男子でも額田部皇女の夫の敏達天皇の息子で押坂彦人大兄皇子もいました。豊御食炊屋姫尊(推古天皇)も蘇我馬子も豊御食炊屋姫尊の実子である竹田皇子を跡継ぎにしたかったので、そのつなぎとして即位したのだともいわれています。
しかし竹田皇子はその後すぐに薨去してしまいますので計画通りにはいかなかったようです。
推古天皇元年(593年)甥の厩戸皇子を皇太子に立てて、万事を図ります。厩戸皇子の母も推古天皇の実の妹ですので、そういう意味では非常に血が濃い間柄です。
【日本/奈良】法隆寺地域の仏教建造物群
聖徳太子ゆかりの地である奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺の47塔と法起寺の1塔が世界遺産に登録されている。607年に聖徳太子と推古天皇によって建立された。特に、西院は世界最古の木造建築として知られる。pic.twitter.com/tgSTiqjLw9— 世界遺産好き! (@fsc7777) June 22, 2021
推古天皇(史上初の女帝)の治世と聖徳太子
推古天皇の政治方針としては、叔父の実力者蘇我馬子と甥の厩戸皇子の均衡保ちつつ政治をバランスよく行ったことです。そういう意味ではとても聡明な人であると言えるでしをょう。
その治世の間になされたことは次の通りです。そのほとんどが、後世では厩戸皇子(聖徳太子)の事業とされていますが、厩戸皇子にこれらのことを実行させるについても当時の実力者、蘇我馬子としっかりした関係を築いていかなければなりません。
そんなことができるのも推古天皇のバランス感覚があったからではないでしょうか。
推古天皇2年(594年)三宝(仏、法、僧)を敬うべしとの詔を発する。
推古天皇11年(603年)冠位十二階を制定する。
推古天皇12年(604年)十七条憲法の制定する。
推古天皇15年(607年)小野妹子を隋に派遣する。
推古天皇28年(620年)厩戸皇子、蘇我馬子が天皇記、国記を編纂して献上する。
推古天皇30年(622年)厩戸皇子が亡くなる。皇太子のままで亡くなってしまい、ついに即位することもできませんでした。
推古天皇34年(626年)蘇我馬子が亡くなる。
推古天皇36年(628年)前日に田村皇子、山背大兄の王を呼び出し後のことを頼みつつ、75歳で亡くなります。
推古天皇の摂政として聖徳太子の為した業績は次をご覧ください。
☆活動報告☆大阪府南河内郡の王稜の谷にある「推古天皇陵古墳」(推古天皇磯長山田稜)へ。典型的な方墳で天皇陵のためよく整備もされていました。地名の山田は蘇我倉山田石川麻呂の領地だったとか。古代蘇我氏の勢力が大きさを偲ばせます。 pic.twitter.com/d4dwjYhkjZ
— 古墳部 (@kofun_bu) June 26, 2021
推古天皇とはどんな人?のまとめ
史上初の女帝・推古天皇の誕生のいきさつ、その治世の出来事を紹介してきました。一般に女帝というとネガティブなイメージが先行してしまいますが、それは、後世の出来事です。
男性天皇でも、詳細に見ていけばいろいろな不都合なことが起こりますから、そこらは業績で考えるべきでしょう。
その点、推古天皇は激動の東南アジア情勢の中にあって、国家を考えていった立役者のような気がします。厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子のバランスをとって、見事に治めていったのでしょう。
推古天皇にはこんなエピソードも伝えられています。推古天皇32年のことです。厩戸皇子(聖徳太子)も亡くなって、つっかえ棒が外れたのでしょう。
蘇我馬子が畿内の葛城県の支配権を推古天皇に要求することがありました。その時こんな内容の返事をして、断固譲らなかったたと言われています。
「たとえ叔父であっても公の土地を私人に譲ってしまっては、私は後世愚かな女だと評され、あなたも不忠なものと罵られるだろう。」 とても立派な人ですね。
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