聖徳太子が推古天皇の摂政としてなした事。冠位十二階と十七条憲法

歴史人物

聖徳太子が推古天皇の摂政としてなした事として有名なのは、冠位十二階と十七条憲法が有名ですが、これらはどのような理由から定められたのでしょうか。

聖徳太子が推古天皇の皇太子として国政にかかわっていく後半生の太子の業績を説明していきます。

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聖徳太子が推古天皇の摂政となってしばらくの間のこと

推古元年(593年)物部氏との戦いの誓願を守り、摂津難波国に四天王寺を建立した。

推古2年(594年)仏教興隆の詔を発する。

推古8年(600年)新羅征討の軍を発する。第1回遣隋使を送る。推古9年(601年)斑鳩宮を造営する。

推古10年(602年)新羅征討の軍後起こすが、途中で来目皇子が亡くなり、後任の当麻皇子の妻が亡くなり中止となる。
どうもまだ初めの頃は、我々の想像する聖徳太子とは異なり、大陸への侵略を繰り返す一般的な為政者と変わりません。聖徳太子20代の前半です。

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聖徳太子は推古天皇の摂政として冠位十二階を制定する

推古11年(603年)冠位十二階を定め、才能を基準に人材を登用することとしました。
これまでの氏中心の制度から個人に代わっていく形をとっているが、実際はやはり出自が大きく影響されることは古今同じでしょう。

冠位十二階を制定した理由

これについては、唐突に出てきたわけではありません。当時の大帝国隋との関係で生じました。推古8年(600年)第1回の遣隋使を派遣します。

隋に和の制度を説明するときに、「王は天を兄、日を弟そして、日が昇る前に政務をとる」というしきたりを述べたところ、隋の文帝から説明の内容には道理がないので改めるようにと批判されたものです。

はっきり言って相手にされなかったようです。これによって、倭にも制度作りをしないと、外交はおろかそのうち征服されてしますのではないかと、必要を感じたためと言われています。

冠位十二階の内容

冠位の名称は上から、仁礼信義智となっており、その上に徳を置いています。これに大小をつけます。

すなわち上から、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼という順番で最後に大智、小智となっています。また冠の色も定められ、徳は紫、仁は青、礼は赤、信は黄、義は白、智は黒で、大は濃い色、小は薄い色としていたようです。
一番奇異に感じるのは、この並び方です。普通、仁義礼智信と並べるのが中国の儒教の徳目の五常ですが、わざわざ変えているようです。

また、冠に色のしるしをつけるのも全く中国、朝鮮の制度をもとにオリジナリティをだそうと少し工夫をしているようです。どうも全く同じであると、その国に隷属したとみられていると考えたようです。

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聖徳太子は推古天皇の摂政として十七条憲法を定める

更に推古12年(604年)4月3日に十七条憲法を定めます。
これの制定理由も冠位十二階と同じように、第1回の遣唐使の時の隋から認めてもらえなかったことへの反省として、国内の制度を整備したものです。

内容は主に儒教と仏教を基本として書かれています。短時間の間に内容を咀嚼して良く作ったものだと思います。今の世の中でも立派に通用する内容ですね。ごくさわりを抜粋すると次の通りです。

十七条憲法の内容

1. 和を尊重し、争わないことを宗旨(主義)としろ。人は皆、党派を作るし、(物事の)熟達者は(常に)少ない。
2 仏教の三宝(仏・法・僧)を篤く敬え。仏法は四生(生物)が最終的に帰する処であり、万国にとっての究極の宗教である。
3 詔(君主の命令)は必ず謹んで承れ。君主は天、臣下は地である。万物(物事)は天に覆われ、地に載せられることで、四季が巡り、気が行き渡るようにうまくいくのであり、地が天を覆うこと(反乱・謀反・革命)を欲すれば、破滅に到るだけである。
4 群臣・百寮(上級・下級の諸役人)は、礼を基本としろ。人民を治める基本は必ず礼にある。
5 饗応を絶ち、財物への欲望を棄てて、公明に訴訟を処理しろ。庶民の訴えは1日に千件あり、歳月を過ぎる毎のその数の増え方は言うまでもない。
6 悪を懲らしめ善を勧めること(勧善懲悪)は、古来の良い規範である。このように人の善行は匿(かく)さず、悪行は匡(ただ)せ。
7 人には各々に任務があるのであり、それを適切に担い、(権限を)濫用してはいけない。賢人・哲人を官職に任じれば讃える声が起こるし、奸者(悪人)が官職を有すれば災禍・戦乱が頻繁になる。
8 群臣・百寮(上級・下級の諸役人)は、朝早く出勤し遅く退勤しろ。公事はゆるがせにできないし、終日費やしても全部終わらせるのが難しい(ほど多い)。
9 信(誠実・信頼)は義の基本である。何事にも信がなくてはならないし、物事の善悪や成否は信の有無に掛かっている。
10 忿怒を絶ち、瞋恚を棄て、人と考えが違うことを怒るな。人には皆心があり、各々のこだわり(執着)があるのだから、相手はよくても自分はよくないこともあれば、自分はよくても相手はよくないこともある
11 (官職の)功績と過失を明確に調べて、必ず賞と罰を与えなければならない。近頃は、賞が功績に基づいて、罰が罪に基づいて(適正に)与えられていない。
12 国司・国造(地方官吏)は、(独自に)庶民に徴税してはならない。国にも民にも二人の君主はいない。
13 諸々の官職に任じられた者たちは、任務を把握しろ。病気や使役で業務が行えないことがあっても、復帰したら全て把握して協働できるようにし、聞いていないなどと公務を妨害しないようにしろ。
14 群臣・百寮(上級・下級の諸役人)は、嫉妬心を持ってはいけない。自分が他者を嫉妬するなら、他者もまた自分に嫉妬するようになる。
15 私心を棄てて公益に努めるのが、臣下の道である。私心があれば必ず怨恨が生じ、共同しなくなり、公務を妨害し、制度に違反し、法律を侵害するようになる。
16 時宜に沿って民に賦役を課すことは、古来の良い規範である。冬季は間暇なので、民に賦役を課してもいいが、春から秋にかけては農業と養蚕の時期なので、賦役を課してはならない。
17 物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。(とはいえ)些細な案件に関しては必ずしも皆で議論する必要は無いが、重大な案件については判断に過失・誤りが無いか疑い、慎重にならなくてはいけないので、皆で議論する必要があるし、そうしていれば(自ずと)道理に適った結論を得ることができる。

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聖徳太子は推古天皇の摂政として第2回の遣隋使を送る

推古15年(607年)こうして国内制度の整備を図り、満を持して次の遣隋使を送ります。小野妹子、鞍作福利を使者として隋に国書を送ります。
このときも、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書いたことで、隋の煬帝が激怒したとされています。

大隋帝国に対して対等に天子を使ったことがまずかったようです。実は隋から国書を小野妹子は託されますが、これを途中で紛失してしまいます。
もっともこの内容は、どうも、他の周辺国に充てた内容と同じようなものなので、見せられなかったようで、出来レースのようだったようです。
推古16年(608年)返礼の使者が訪れます。携えた書には皇帝問倭皇と書かれています。返書は東天皇敬白西皇帝としております。返書とともに留学生と小野妹子を派遣します。

こうして無事に隋との関係も出来上がりました。

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聖徳太子は推古天皇の摂政としてなした事のまとめ

その後は特に活動が残っているわけではありません。隋との国交活動もまとまったのは30代の中頃ですから、まだまだ活躍はできたでしょう。

それなりに、国内活動に苦労したのではないでしょうか。何しろ推古天皇を頭にいただいて、自分は摂政として活動し、実力者の蘇我馬子とも関係を保ちつつ政治を行っていく必要がありますから。

仏教関係の法華義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏を著したとされています。蘇我馬子とともに国記、天皇記、臣連伴造国造百八十部并公民等本記を編纂したともいわれています。
そして、推古天皇30年(622年)2月22日に病のため亡くなったといわれています。享年49です。
推古天皇はこの時、67歳ですが長命で75歳まで生きます。

従って、聖徳太子は天皇にはなれませんでした。

厩戸皇子が皇太子、摂政になるまではこちらをご覧ください。

聖徳太子の誕生。どんな出自で、どのような経緯を経て太子となったか
聖徳太子はいつの頃どのようにして、世に出て来たのでしょうか。そして、どのようにして政治に参加するようになったのでしょうか。 官位十二階とか遣隋使とか十七条憲法というのは知られていますが、そこに至るまでの経緯を説明していきます。 ...

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