あなたは「三菱」と聞いて、何を思い浮かべますか?おそらく、東京・丸の内の高層ビル群や、重工業、金融など、日本の経済を支える巨大企業グループの姿が浮かぶのではないでしょうか。
しかし、明治時代初期、この巨大な三菱は、創業者である岩崎弥太郎が病で急逝し、さらに渋沢栄一率いるライバルとの激烈な海運戦争の真っ只中という、まさに存亡の危機に立たされていました。😱
もし、この危機を乗り越えられなければ、今日の三菱は存在しなかったかもしれません。絶望的な状況の中、兄・弥太郎の跡を継ぎ、二代目総帥となったのが岩崎弥之助です。当時わずか35歳。この若き総帥は、どのようにして難局を乗り越え、三菱を「海運業者」から「総合財閥」へと大発展させたのでしょうか?
教科書ではあまり語られない、岩崎弥之助の「大胆不敵な決断」と「先見の明」に満ちた戦略を、臨場感たっぷりにお届けします!
💥絶頂から一転、三菱を襲った「海運戦争」と「創業者急逝」のダブルパンチ
🚀岩崎弥太郎が築いた「海運王国」と高まる批判
西南戦争(1877年)での政府の輸送を一手に引き受けたことで、岩崎弥太郎率いる三菱は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長しました。一時はなんと**日本の海運の7割**を占める、半ば独占状態に!まさに「海運王国」の誕生です。🚢
しかし、その独占的な地位ゆえに、船賃の価格が高止まりし、国民や財界からは**「三菱批判」**の声が日に日に高まっていきます。おりしも、三菱の強力な後ろ盾であった**大隈重信**が明治14年の政変(1881年)で失脚したことで、批判勢力の勢いは決定的に増しました。
これに対し、弥太郎も黙っていません。1880年に渋沢栄一が立ち上げた「東京風帆船」に対しては、激しい妨害工作を展開し、同社を失敗に追い込みます。当時の弥太郎の強引な経営手腕が伺えるエピソードです。
⚔️渋沢栄一らが立ち上がった「共同運輸」との消耗戦
弥太郎の強引さに危機感を抱いた渋沢栄一は、三井財閥の基礎を築いた益田孝、そして**大倉喜八郎**らと結集。反三菱勢力をまとめ上げ、1882年に共同運輸を設立します。設立には明治政府からの強力な後押しがありました。有事の際の軍事輸送を担うという名目から、政府の支援を取り付けたのです。これは、三菱が政府の輸送を独占していたことへの牽制でもありました。
ここから、三菱と共同運輸の**「海運大戦争」**が始まります。その戦い方は、凄まじい**ダンピング競争**。運賃はわずか2年ほどで10分の1にもなるほど暴落し、文字通り互いの体力を削り合う**消耗戦**となりました。両社の社員たちも意地を張り合い、競争の中で事故も起きるなど、事態は非常に緊迫していました。
😭創業者・弥太郎、病に倒れる
激しい競争の最中、三菱を率いていた岩崎弥太郎は**胃がん**に倒れてしまいます。病床にあっても懸命に指示を出し続けましたが、1885年2月、満50歳で力尽き、この世を去りました。💀
弥太郎は、妻や長男の久弥(ひさや)を病床に呼び寄せましたが、後継者に指名したのは、16歳年下の実弟、**岩崎弥之助**でした。長男ではなく、当時35歳の**弥之助**に託す。弥太郎の最後の決断は、それほど事態が切迫していたことを示しています。
💡「断固戦い抜く!」宣言と「密かな終戦工作」〜弥之助の二面戦略〜
🔥弱気は見せない!社員を鼓舞した「戦い継続」の決意
兄・弥太郎から三菱の全てを引き継いだとき、岩崎弥之助はまだ35歳でした。彼は兄より16歳年下ですが、1869年には大阪で英語を学び、1872年にはアメリカに留学(父の急逝で1年で帰国)するなど、**国際的な知見**を持つ人物でした。
しかし、戦いの最中に総帥が亡くなったのですから、ここで動揺すれば社員はまとまりません。弥之助は、全社員に対し「断固として戦い抜く!」という強い決意を表明。これが、社員たちの結束を固める**求心力**となりました。さらに、この激戦を乗り切るため、自身の**社長給料や重役の給料を引き下げる**という厳しい姿勢を示しました。まずは自ら痛みを負い、戦いに備えるという決断は、全社に緊張感と士気をもたらしたことでしょう。
🤝国益を守るための「秘密の終戦工作」
表向きは「戦い抜く」と宣言しつつ、弥之助は冷静に事態を分析していました。このまま三菱と共同運輸が消耗し続ければ、日本の海運業界の体力は尽きてしまい、**欧米の巨大海運会社**が日本市場に介入してくるのは時間の問題です。そうなれば、**日本の国益**は守られなくなってしまう。🇯🇵
**「私益」よりも「国益」を優先する**。これが、弥太郎の強引さとは一線を画す、弥之助の冷静な判断でした。彼は、旧土佐藩時代の知人を頼り、政府に**三菱と共同運輸の斡旋**を持ちかけます。この動きは、政府としても国内の海運の疲弊を憂慮していたため、スムーズに進みました。
その結果、1885年9月、ついに両社は**合併**!ここに、今日の日本の大動脈である**日本郵船(NYK)**が誕生するのです!🚢🎉
📊**日本郵船の誕生と交渉の裏側**
- **出資比率:** 三菱 5 : 共同運輸 6
- **初代社長:** 共同運輸側から選出
合併時の条件は、共同運輸の設立に政府が深く関わっていたこともあり、三菱にとって分が悪いものでした。しかし、実際の運航を担う実務経験豊富な人材は三菱側に多くいたため、実質的な海運のノウハウは三菱が握っていました。結果的に、経営の主導権は、代を追うごとに三菱の系譜に近づいていったと言われています。
この決断により、弥之助は、**「競争による共倒れ」という最悪のシナリオを回避**し、三菱を窮地から救い出したのです。
🏛️海運から「総合財閥」へ!弥之助の大胆な多角化戦略
🏙️東京の未来を見通した「丸の内」への巨額投資
海運戦争が集結し、三菱の経営が安定すると、弥之助は次のステップへと進みます。それは、海運一本に頼る経営からの脱却、すなわち**多角化経営**への大胆な舵切りです。
その中で最も有名なエピソードが、1890年の**丸の内約45ヘクタール(45万㎡)という広大な土地の購入**です。この土地は、幕末には大名屋敷が並んでいましたが、明治維新後は使い道がなく放置され、**「原っぱ」**のような状態でした。政府からの売却打診があったものの、誰もが二の足を踏むような場所でした。
弥之助は、日本郵船の株価が1.8倍に高騰したのを見て、その3分の1を売却するという大胆な手法で、この土地を約128万円(現在の価値に換算すれば数百億円以上)で購入しました。
**なぜ、彼はこの土地を買ったのか?** 弥之助は、欧米の都市を知る国際人として、「日本の将来を見据え、**日本にもやがて立派なビジネス街が必要になる**」という確信を持っていました。これは、短期的な利益ではなく、**日本の未来と三菱の成長**に賭けた**巨大な先行投資**でした。
彼は、ここを「三菱村」と呼ばれる欧風オフィス街にする計画を推進。1894年には、イギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計の**三菱一号館**が建設され、丸の内のオフィス街化が本格的にスタート。現在の東京の顔とも言える丸の内ビル街は、総て地下で繋がるなど、弥之助の緻密な計画の結晶です。🗼
⛏️造船、鉱山、金融へ!三菱財閥の礎を固めた事業拡大
丸の内開発と並行して、弥之助は多岐にわたる事業を興します。兄・弥太郎が残した資産を元手に、政府のお荷物となっていた**長崎造船所**(後の三菱重工業の基礎)を引き受け、外国人技術者を雇い入れ、大卒者を留学に出すなど、先端技術の導入と人材育成に巨額を投じました。さらに、**高島炭鉱**などの**鉱山開発**、**金融**、**倉庫**といった、海運とは異なる分野にも積極的に投資し、三菱を**総合的な財閥**へと変貌させていったのです。
この多角化によって、三菱は特定の産業に依存しない強靭な経営基盤を確立しました。この基盤があったからこそ、日清・日露戦争、第一次大戦と続く日本の成長期に、三菱は国策を担う企業として飛躍的な発展を遂げることができたのです。💪
🌟【まとめ】岩崎弥之助が三菱にもたらした「冷静な戦略家」のDNA
創業者の**岩崎弥太郎**が「強引なカリスマ」として事業を立ち上げ、拡大したのに対し、弟の**岩崎弥之助**は、**「冷静な知性と大局観」**で三菱を危機から救い、強固な財閥へと変貌させました。
- 【対外的には強気、内密には平和主義】 消耗戦を続けることを良しとせず、国益を考えた**戦略的な終戦工作**を行い、日本郵船を誕生させた。
- 【海運からの脱却】 日本郵船の設立という海運事業の再編を機に、**多角化経営**をスタートさせ、財閥としての安定基盤を築いた。
- 【丸の内への先見的投資】 当時誰も価値を見出さなかった丸の内の広大な土地に巨額投資を行い、東京の未来を見通した**不動産事業の礎**を築いた。
さらに、弥之助は1893年に**三菱合資会社**を設立し、総帥の座を兄・弥太郎の長男である**久弥**に譲ります。自ら築いた礎を、兄の血を引く次世代にスムーズに引き継いだ「引け際の潔さ」もまた、彼の立派な手腕の一つと言えるでしょう。
あなたが今日目にする「三菱」という巨大な存在は、創業者・弥太郎のエネルギーだけでなく、二代目総帥・弥之助の**冷静な判断力と先見の明**によって、絶体絶命の危機を乗り越えて築かれたものなのです。彼の物語は、**「真のリーダーとは、状況に応じて大胆に戦略を変えられる人物である」**ことを教えてくれますね。✨
(渋沢栄一については、こちらの記事もぜひご覧ください。)


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