岩崎弥之助が渋沢栄一との海運大戦争を収め三菱を立て直した方法は

映画・ドラマ

岩崎弥之助は兄の岩崎弥太郎の弟です。1880年頃には三菱は日本の海運の7割を占めるまで成長しましたが、渋沢栄一、益田孝が率いる共同運輸との消耗戦が始まります。

そんな中、弥太郎が亡くなり、三菱は存亡の危機に陥ります。その時岩崎弥之助はどのようにして三菱の危機を切り抜けたのでしょうか。

スポンサーリンク

岩崎弥太郎と渋沢栄一、益田孝などの共同運輸との海運戦争

西南戦争が終わり、政府の輸送を一手に引き受けていた岩崎弥太郎率いる三菱は、日本の海運の7割を占めるまでに成長します。半ば独占状態と言っても良いでしょう。

そのため、船賃の価格が下がらず、あちこちで三菱批判が高まってきます。おりしも、三菱の後ろ盾であった大隈重信が明治14年の政変で失脚したこともあり、批判勢力の勢いが増してきます。
1880年に渋沢栄一は東京風帆船を立ち上げますが、岩崎弥太郎の妨害工作によって敢え無く失敗してしまいます。

渋沢栄一の岩崎弥太郎への再チャレンジ

1882年、渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎らが反三菱勢力を集めて共同運輸を設立します。また有事の際は軍の運搬も行うとの約束から明治政府からの協力も取り付けます。

激しいダンピング競争は2年ほども続いたといわれています。この間に、運賃は1/10にもなるほどで、両者の体力も消耗していきます。

しかも、両者の社員もいきり立って、競争の中で事故が起こるなどの問題も出てきました。

岩崎弥太郎が病没で新たな展開へ

激しい競争の中、岩崎弥太郎は胃がんになってしまいます。それでも病床から懸命の指示を出して戦っていましたが、1885年2月満50歳で病没してしまいます。
病床に夫人、長男の久弥、弟の弥之助を呼びよせ。弥之助に後を託します

歴史人物一覧の渋沢栄一へはここをクリック

スポンサーリンク

三菱の後を託された岩崎弥之助は

岩崎弥之助は兄の弥太郎より16歳年下でした。当時三菱を引き渡されたときは35歳と言われています。

1869年には大阪で英語を学び、1872年にはアメリカに留学しています。しかし父弥次郎の急逝に伴い、1年で帰国することになってしまいます。

弥之助は三菱の社員に対しては次のように指示を

何しろ戦いの最中に総帥の弥太郎が亡くなったのですから、ここで弱気を出していては社員をまとめることができません。「断固戦い抜く。」という決意表明が必要なのです。

社員たちもこれでなければ収まらなかったでしょう。そして、今後の戦いに備えて、社長と重役の給料を引き下げています。

岩崎弥之助は秘かに終戦工作も開始

一方、このままでは両者の体力が尽きてしまい、国内の海運業界は壊滅することになります。

そうすると欧米の海運会社が日本市場に介入してくることになり、国益が守られなくなります。幅広い知見を求めている岩崎弥之助はこのように考えたのだと思います。

弥太郎でしたら考えられないことですが、終戦工作も開始しています。
土佐藩の知り合いを頼って政府に両者の斡旋工作を持ち掛けます。そのかいもあって、1885年9月共同運輸と三菱が合併し日本郵船が誕生することになるのです。
この時の出資比率は三菱5に対して共同運輸6です。しかも日本郵船の社長は共同運輸側から出ているので、実際は分が悪かったようです。

それはそうですよね、共同運輸の設立から政府が絡んでいるわけですから。しかし、運送の実態は三菱側に多くの人材がいたせいか、代を追うごとに三菱に近づいてきたのです。

岩崎弥之助は新規事業の開拓に乗り出すことに

今までの海運一本足打法であったのが、このような具合に収束したこともあり、弥之助は三菱の多角経営化に乗り出します。

もっとも大きな買い物は丸の内の45haの土地でした。日本郵船の株が1.8倍になったところでその1/3を売って購入したものです。

その土地は幕末には大名屋敷が並んでいましたが、使い道がなく放置されていました。

実は何のために買ったのかが大切なのです。日本の将来をおもい、日本もいずれ立派なビジネス街ができるようになるとの考えから先行投資したものでした。
1894年に三菱一号館を建ててから現在は立派なオフィス街になっています。しかもそのビル街は総て地下で繋がっているのが特徴です。
その他にも、鉱山開発、増選、金融、倉庫などの事業を起こして三菱財閥の基礎を作ったのです。

そして1893年には三菱合資会社を設立し、三菱の総帥の座を弥太郎の長男の久弥に譲っています。

歴史人物一覧の渋沢栄一へはここをクリック

スポンサーリンク

岩崎弥之助が渋沢栄一との海運大戦争を収め三菱を立て直した方法のまとめ

岩崎弥太郎の三菱と渋沢栄一、益田孝の合同運輸の海運をめぐる争いは激烈なものでしたが、弥太郎の死によってある節目を迎えることになります。

この時、実質的な采配をしたのが弟の岩崎弥之助でした。

強引な経営として知られている兄の弥太郎と異なり、冷静に事の推移を見ながら競争を収め、更に三菱の将来を考えて、多角経営に乗り出した手腕は立派なものでした。

更に、事業がひと段落すれば三菱の総帥を弥太郎の長男久弥に譲り、引け際も立派だったようです。

今、三菱というと丸の内のビル街を想像しますが、これを見通した弥之助の力量に感心します。

歴史人物一覧の渋沢栄一へはここをクリック

コメント

タイトルとURLをコピーしました