土方歳三はどのように戦い続けて函館、五稜郭まで行ったのか。

歴史人物

土方歳三の新選組での戦いのうち、鳥羽伏見の戦いから函館、五稜郭の戦いまで解説します。

土方歳三の魅力は、幕末のイケメンということもあるでしょうが、実質的に新選組の組織を作り鬼の副長とまで言われるようになったこと。

また、戊辰戦争にあって各地で転戦し最後まで新政府軍に戦い続け、35歳の生涯を終えたことにあると思います。でもどうしてそこまで戦う必要があったかを解き明かせたらと思います。

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大政奉還から鳥羽伏見の戦いへ

慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還に対して、朝廷側から王政復古の大号令が発せられるなど、時代は新選組の関与できない上層部で動いていきます。

それでも近藤勇はガチガチの佐幕派ですから、最後まで、薩長、尊皇派の排除のために駆けずり回っています。

そんな折の年末、近藤勇は今の京都市伏見区で待ち伏せに会い銃撃され、負傷してしまいます。このため大阪城で治療を受けることになります。

残った新選組は土方歳三が率いることになります。

慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いが発生します。土方歳三は新選組を率いて会津藩とともに戦いますが、結果は敗れて大阪に引き上げます。

そして、その時、徳川慶喜は、松平容保を引き連れて江戸に軍艦で帰ってしまいます。この時、残された土方歳三たちはどう思ったことでしょうか。

まさか自分たちの総大将が将兵を見捨てて、江戸に引き上げてしますなどと思わなかったことでしょう、しかもその直前には士気を鼓舞するような発言をしていたと聞いています。

徳川慶喜のような高等なテクニックは理解できないですし、実際このことによって、徳川幕府に従っていこうとする者は激減したのではないでしょうか。

いずれにしろ、土方歳三及び残った新選組の隊士も軍艦によって江戸まで戻ることになります。

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甲州勝沼の戦いから流山での新選組の瓦解

江戸で徳川慶喜の警護に当たっていた新選組に対して新たな任務が与えられることになります。

この時、幕府は実質的に勝海舟が仕切っており、徳川慶喜が恭順の意を示している中で、徹底抗戦派の新選組がいては何かと不都合ということで、体よく追い払われたという説もあります。

甲州の鎮撫ということで出陣していきます。軍資金、銃とも支給され、出陣しますが、兵力の消耗と不足が激しく、各方面から人繰りをする始末です。

新選組ではまずいので、近藤は大久保大和守剛、土方は内藤隼人と偽名を使って出陣します。

官軍を率いているのは板垣退助ですが、甲府への入城が勝敗を決するということで、早くも甲府入城を果たし、別働の本隊も到着したところで戦闘になります。寄せ集めの甲州鎮撫隊は僅か2時間余りの戦闘で敗退してしまいます。戦略上のミスと油断の結果と言えるでしょう。

その後、今の千葉県の流山で再起を図ろうとしますが、新政府軍に取り囲まれ、近藤勇は大久保と称して投降することになります。

一説では近藤が切腹しようとするのを土方が諫めて投降を勧めたともいわれています。しかし、新政府軍の中に近藤の顔を知っている者がいたため、近藤は板橋で斬首されてしまいます。

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宇都宮城陥落、会津戦争から奥羽越列藩同盟へ

土方歳三は江戸にもどり近藤の助命を図るが失敗します。江戸開城の時に脱出し、宇都宮城を攻めて一旦は陥落させます。

この戊辰戦争での久々の勝利と言えるでしょう。しかし、それも再び奪い返され、その際に負傷してしまいます。

会津戦争では十分な活躍もできないまま、庄内から仙台に向かい、奥羽越列藩同盟に加わります

この時、榎本武揚の旧幕府海軍と合流し、奥羽越列藩同盟が瓦解すると、新選組の生き残りと軍艦で蝦夷地に向かいます。すでに、それぞれの地で隊士と別れたりして、もはや新選組の組織としてはなくなっていたかと思います。

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函館戦争

10月函館五稜郭を占拠して本拠地とします。その後は、松前城を陥落させるなどの活躍をしています。榎本を総裁とする蝦夷共和国が成立し、土方歳三は、陸軍奉行並、函館市中取締、陸海軍裁判局頭取という肩書になります。

宮古湾海戦

この時とってもユニークな戦いをしています。幕府軍は開陽を暴風雨で喪失しており、海上勢力でも劣勢に立たされていた。政府軍の新鋭艦の甲鉄が宮古湾に来るとの情報を仕入れて、これを奪おうとした作戦です。

明治2年3月、外国船の旗を立てて甲鉄に近づき、接舷して切り込むという作戦です。本来は蟠竜、高雄の2隻で接岸するはずであったが、故障により参加できず。回天一隻で決行することになります。

外輪船のため先端しか接岸できず、また、甲板が高すぎてうまく乗り込めなくて失敗することになる。土方歳三も参加したが目的を果たせず函館に戻ることになります。

この戦いを後の東郷平八郎が新政府軍の別の船から見ており、この奇襲を激賞しています。

五稜郭の戦い

4月になると新政府軍は蝦夷地に上陸をはじめ、いよいよ陸上戦になってきます。土方歳三は2週間にわたって二股口の戦いで新政府軍を退けます。しかしながら、他の函館に向かう方面が敗れたため、五稜郭に引き上げます。

5月11日、新政府軍の函館総攻撃が始まります。土方歳三は、一本木関門を守備して馬上で指揮を執ったといわれています。そして腹部に弾丸を受けて落命したといわれています。五稜郭城内に埋葬されたといわれていますが、場所も定かではありません。

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土方歳三はどのように戦い続けて函館、五稜郭まで行ったのかのまとめ

新選組の鬼の副長と言われた土方歳三が戊辰戦争から函館戦争までどのように戦ってきたのかを説明してきました。

新選組の時とは違って函館戦争の時は部下思いのやさしい人に代わってきたようです。それにしても、結局は戦いに明け暮れた数年間でした。

土方歳三は鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いの頃にはすでに負けを覚悟していたのではないでしょうか。既に頼りとする将軍慶喜は恭順してしまうし、自分たちはどこへ進んだらいいのかわからなかったことでしょう。

何しろ、政策決定のグループからは完全に外されていますし、戦い続けるしか方法はなかったのでしょうね。きっと降伏しても、近藤勇と同じようなことになってしまうのですから。

結局、愚直に信念を曲げずに通すしか、土方には道はなかったと思います。

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