織田信長は武田信玄、武田勝頼にどの様に対峙したのか

歴史人物

織田信長が尾張、美濃を平定して、足利義昭を奉じて京に侵攻してきたころから、最大の脅威は武田信玄となります。何しろ史上最強と言われている軍団ですし、しかも、情報戦でも織田軍をしのいでいるようです。この武田軍に対して織田信長はどのように戦ってきたかをまとめてみます。

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織田信長vs武田信玄

永禄11年(1568年)第15代将軍足利義昭をたてて室町幕府再興を果たしたところから、武田氏との関係をのべていきます。

それまでも関係はあったのですが、松平家の三河国をバッファーにしていたため、直接的な関係は浮き彫りになりませんでした。

前年、美濃国を領有したことから織田信長の実力がついてきたため、だんだん緊張感が高まってきたと考えてよいでしょう。

元亀元年(1570年)第一次信長包囲網の頃は、織田信長の当面の敵は浅井・朝倉氏であり、三好三人衆でもあったため、直接的な接触はあまり起こりませんでした。

この頃は武田信玄は駿河国を併合する勢いを見せており、越後の上杉氏、相模の北条氏、三河の徳川氏との対立を見せており、中央への進出は容易ではありませんでした。

この頃信長は将軍義昭の命を受けて、武田、上杉両氏の調停を行うなどまずまずの関係をきづいています。

元亀2年(1571年)になると、いよいよ動きが始まります。三河、遠江に侵攻を始めます。

元亀3年(1572年)になると将軍義昭からの要請を受けて、本格的に信長をターゲットに侵攻を始めます。

一言坂の戦い、二俣城の戦いをへて、三方ヶ原の戦いで信玄は徳川軍を破ってそこにとどまります。

元亀4年(1573年)には東農地区を攻めます。野田城、岩村城を落としていきます。

織田信長にとっては危機ですよね。とにかく相手が強すぎて、しかも策略もうまいようで織田・徳川軍は一方的に負け続けています。

しかし、ここで織田信長にとっては天の助け、武田軍にとっては何たる不幸。武田信玄が病気となって、甲斐に撤退途中の4月には亡くなってしまうのです。享年53です。

このまま進んでいれば、織田軍は手も足も出なかったのです。やはり織田信長はついていたようです。

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織田信長vs武田勝頼

天正2年(1574年)甲斐の武田勝頼が東美濃に侵攻がはじまります。織田信長の援軍が駆け付ける前に、明智城が落城します。それと同時に遠江にも侵攻を図ります。

この頃の武田勝頼は戦いが上手で強かったようです。さすがに、武田信玄が選んだ後継者だけありました。

天正3年(1575年)武田勝頼は、長篠城を攻めます。そして信長は徳川勢と合わせて3万の軍勢で迎え撃ちます。一方武田の勢力は1万5千といわれています。

世にいう長篠の戦いの始まりです。

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の活躍と悲劇

この中で有名な話として伝わっているのでご紹介します。1万5千の武田軍に取り囲まれた長篠城の勢力は500です。

城を守る奥平貞昌の家臣鳥居強右衛門は城を密かに抜け出して、岡崎城に援軍を要請するよう使命をうけます。無事密かに抜け出して、岡崎城にたどり着き、戦況を報告します。

そして長篠城に戻りますが、直前で武田軍に捕らえられてしまします。

強右衛門は取り調べに対して堂々と答えます。すると武田勝頼から、城の前に行って援軍は来ないと伝えれば、命を助け所領もやると提案を受けます。

それに従ったようにして、城の前に引き出された強右衛門は勝頼の提案とは逆に「あと二、三日で数万の援軍が来るからそれまで持ちこたえよ」と言ってしまいます。

これによって強右衛門は磔になって殺されてしまいます。

しかし、この言葉で城は援軍が来るまで二日間持ちこたえたそうです。

この功績により、長篠城主奥平貞昌は信長から諱を賜り、信昌と改名、家康の長女亀姫をもらい受け正室としたうえ、奥平松平家は明治まで続くことになります。鳥居強右衛門の子孫も奥平松平家で厚遇されたようです。

長篠の戦い

正確には設楽原決戦というのが正しいのだそうです。通説では信長の鉄砲3000挺を3隊に分けて武田軍の騎馬隊に対抗したといわれていますがそれほど単純ではなさそうです。

既に鉄砲の威力、使い方については双方ともに熟知しているので、単純に騎馬軍団が無謀に突撃して打ち破られたという構図ではなかったようです。

それでも織田信長の勝因、武田勝頼の敗因を上げれば次のようなことがわかります。

  • そもそも兵力差で2倍から3倍の差で織田軍が有利な戦いであること。
  • 織田信長は設楽原について防護柵と土塁を各地に配置して、事前準備をかなりしていること。
  • 武田信玄の死により国内掌握が今一つしっくりできない事情があり、兵力を大量投入できる状況ではなかった。長期的に見ていけば武田軍はどっちみちじり貧になることが予想されたこと。
  • 織田信長はそれに引き換え浅井・朝倉氏の滅亡、長島一向一揆もほぼ落着き、西側の心配がなくなり、兵力をふんだんに差し向けることができた。

いずれにしろ、これによって武田勝頼は有力武将のかなりを失い、もはや信長を脅かす存在ではなくなってきました。

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武田氏の滅亡

武田勝頼はこれ以降、上杉家と同盟を結んだり、人質である織田勝長を返還することで信長との和解を模索したが、結局はうまくいかなかったようです。

信長にしてみれば、もはや勝負あったということで、武田氏に遠慮する必要がなかったといえばそうですが。その間に調略を進めて、武田軍の切り崩しを進めていきます。

武田の家臣といってもこれだけ実力差ができてしまえば織田側についたほうが良いと考える者がどんどん出てくるはずです。

天正10年(1582年)木曾義昌が信長側に寝返ったのを機に、武田領に本格的に進行する。総勢10万と言われる大群で、その間には数々の調略も用いているため、多くの臣下が織田側に寝返ったため、3月11日に武田家は滅亡した。享年37でした。

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織田信長は武田信玄、武田勝頼にどの様に対峙したかのまとめ

織田信長について、武田家との関係を中心にまとめてみました。武田信玄の進出の時天が味方すれば、その後の歴史も変わっていたことでしょう。

また、武田勝頼も信玄の後継者として戦いについてはかなりの実力があるので、信長もたびたび脅かされています。しかし、信玄からの後継者問題でしっくりいかなかったことが災いしていたようです。

せっかく力があっても、勢力が少しずつ減退していく中で信長と対峙しなければならなかったのは残念な気がします。

先の大戦の日本の状況とよく似ているかもしれません。それでも戦いというものは完全に公平な立場で設定されているものではないので、仕方がないかもしれません。

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