織田信長vs武田信玄・勝頼!最強のライバルと戦国の覇者が歩んだ道

歴史人物

戦国時代、天下統一を目指して快進撃を続ける織田信長(おだのぶなが)にとって、最大の脅威となった人物は誰だったでしょうか?
それは、「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄(たけだしんげん)、そしてその息子である武田勝頼(たけだかつより)です。彼らが率いる武田軍は、当時「史上最強」とまで言われるほどの圧倒的な強さを誇っていました。

この記事では、信長がこの最強のライバルたちと、どのように向き合い、どのように戦ったのかを、初心者の方にもわかりやすく、時系列に沿ってご紹介していきます。
単なる武力だけではない、情報戦や外交戦略など、信長と武田家の知られざる因縁の物語を紐解いていきましょう。

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織田信長 vs 武田信玄:最強のライバル、その知られざる攻防

織田信長と武田信玄は、直接戦う機会は少なかったものの、互いの動向を常に警戒し合っていました。その関係は、信長が将軍・足利義昭を奉じて京に入ってから、徐々に緊張感を増していきます。

信長包囲網と武田信玄の動向

永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を擁立して室町幕府を再興させると、次第に信長と武田氏の関係が表面化していきます。当初は、武田氏と隣接する徳川家が緩衝地帯となっていたため、直接的な対立はありませんでした。

しかし、元亀元年(1570年)に第一次信長包囲網が敷かれると、信長は浅井・朝倉氏や三好三人衆との戦いに追われ、武田信玄は信長の動向をうかがいながら、自領の拡大を進めていました。
この頃、信長は将軍・義昭の命を受けて、武田氏と上杉氏の対立を調停するなど、友好関係を保とうと努めていた時期もありました。

信玄、京へ向かう!三方ヶ原の戦い

元亀3年(1572年)、将軍・義昭は信長を打倒するため、信玄に上洛(京へ行くこと)を要請します。信玄はこれに応え、ついに甲斐から兵を進め、織田・徳川領への侵攻を開始しました。

信玄は、遠江(現在の静岡県西部)の二俣城を攻略した後、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで徳川家康の軍勢を壊滅的な打撃を与えます。この戦いは、家康が人生で最大の敗北を喫した戦いとして知られています。
この時、信長は信玄を止めるため、援軍を送りますが、その援軍も信玄軍の前に敗北してしまいます。

このまま信玄が進撃を続ければ、織田軍は手も足も出なかったと言われています。しかし、ここで歴史は思いがけない方向へ動きます。信玄が突如、病に倒れてしまったのです。

信玄は病のため甲斐へ撤退する途中の元亀4年(1573年)4月53歳の若さでこの世を去ります。信長にとってはまさに「天の助け」と言える出来事でした。信玄がもう少し生きていれば、その後の日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

 

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織田信長 vs 武田勝頼:長篠の戦いと武田家の終焉

信玄の死後、家督を継いだのは息子の武田勝頼でした。勝頼もまた、父に劣らぬ優れた武将でした。信玄の時代には叶わなかった、信長打倒を目指して、勝頼は信長との直接対決に挑みます。

長篠(ながしの)の戦い、決戦の地へ

天正3年(1575年)、勝頼は徳川家康の領地にあった長篠城を攻めます。この城にはわずか500人の兵しかいませんでしたが、城を守る奥平貞昌(おくだいらさだまさ)は籠城し、信長と家康に援軍を要請しました。

援軍を伝えるため、決死の覚悟で城を抜け出したのが、家臣の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)です。彼は見事に徳川軍のもとへたどり着き、援軍が向かっていることを伝えました。しかし、城へ戻る途中で武田軍に捕らえられてしまいます。

勝頼は強右衛門に「援軍は来ない」と城に向かって叫べば命を助けると提案します。しかし、強右衛門は「あと数日で援軍が来る!それまで持ちこたえよ!」と叫び、武田軍に処刑されてしまいました。彼のこの行動は、城兵の士気を高め、援軍が到着するまでの時間を稼ぐことにつながったのです。

長篠の戦いの真実:勝利の決め手は何か?

信長は家康と合わせて約3万の軍勢を率いて、設楽原(したらがはら)で武田軍を迎え撃ちます。武田軍は約1万5千でした。通説では、信長の「鉄砲三段撃ち」によって武田軍の騎馬隊が壊滅したと言われていますが、近年ではこの説は後世の創作であり、真実ではないと考えられています。

では、信長が勝利した本当の要因は何だったのでしょうか?

  • 兵力差:武田軍の約2倍の兵力で戦いに臨めたことが、最大の要因でした。この頃、信長は浅井・朝倉氏などの敵対勢力を滅ぼし、西側の心配がなくなっていたため、大軍を動員できたのです。
  • 周到な準備:信長は、設楽原に防護柵土塁を築き、武田軍を待ち構えていました。最新の鉄砲を最大限に活かすための、事前の周到な準備が勝因となりました。
  • 武田家の内情:信玄の死後、家臣の中には勝頼に不満を持つ者も少なくありませんでした。勝頼は必ずしも武田家全体を掌握できておらず、それが兵力の動員や士気に影響を与えていたと考えられています。

長篠の戦いでの敗北により、武田家は多くの有力な家臣を失い、信長を脅かす存在ではなくなっていきました。

武田家滅亡の時

長篠の戦い以降、信長は巧みな調略(ちょうりゃく)を用いて、武田家の家臣たちを次々と寝返らせていきました。
そして天正10年(1582年)、武田勝頼の家臣である木曽義昌(きそよしまさ)が信長に寝返ったのを機に、信長は徳川家康、北条氏政らとともに武田領への大規模な侵攻を開始します。

大軍勢を前に、武田家の家臣たちは次々と離反。勝頼は、築城途中の新府城(しんぷじょう)を自ら焼き払い、落ち延びようとしますが、もはや力尽き、3月11日天目山(てんもくざん)で自害。ここに、武田家は滅亡しました。

 

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まとめ:信長と武田家、戦国最強の物語

織田信長は、史上最強と謳われた武田信玄との直接対決を避ける一方で、その死後は、息子・勝頼との全面対決に挑みました。

武田信玄という強力なライバルの死という偶然の助けはありましたが、信長は長篠の戦いで周到な準備と戦略によって勝利を収め、武田家の滅亡へと導きました。武田勝頼もまた、決して無能な武将ではなく、戦上手の実力を持っていましたが、家臣の離反という組織の問題に直面し、信長という時代の流れには抗えませんでした。

この物語は、個人の実力だけでなく、時代の流れや組織の結束がいかに重要であるかを教えてくれます。信長と武田家の戦いは、戦国時代のダイナミックな歴史の動きを象徴する、まさに「最強の物語」だったと言えるでしょう。

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