織田信長は室町幕府将軍足利義昭とどんな関係を築いたのか

歴史人物

織田信長と室町幕府の将軍足利義昭との関係について解説します。戦国時代と言っても室町幕府の権威が全く否定されたわけではありません。

織田信長も最初から幕府を崩壊させようとしたわけではなく、基本は幕府を盛り立てて運営をしていこうとするのです。

その過程の中で、足利義昭と織田信長の間で、様々な葛藤が生じます。それが、関係を難しくしています。

 

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織田信長による足利義昭将軍の擁立

室町幕府の第13代将軍足利義輝は三好義継、松永久秀らと対立していたが、永禄8年(1565年)5月殺害されてしまいます。

ここから話は始まります。将軍の弟である足利義昭も、一時は幽閉されますが、大和国から脱出して近江国に拠り、諸大名に協力を求めた。

織田信長も足利義昭上洛の協力を約束します。

永禄9年(1566年)足利義昭は織田信長と美濃の斎藤龍興の争いが上洛の障害となって協力が得られないので、両者の停戦を斡旋します。

このように、室町幕府も一定の役割を果たしています。その他にも武田、上杉、北条氏の和解を果たしております。

8月には織田軍は上洛の兵を起こしますが、美濃斎藤氏の攻撃に会い、大敗してしまいます。足利義昭は、さらに若狭国まで撤退することになる。

このため、京を実効支配する三好三人衆と良好な関係にあった従兄弟の足利義栄が第14代将軍となります。

永禄10年(1567年)信長は美濃斎藤氏を破り、美濃国を平定する。そして「天下布武」を朱印とし、畿内を平定する意思を明らかにする。

永禄11年(1568年)足利義昭は越前国の朝倉義景の下にいた。そして織田信長は、義昭を奉じて上洛させることとした。

南近江の六角義賢・義治、三好三人衆も京都から後退し、第14代将軍も病没します。そして第15代将軍として足利義昭を擁立することになります。

このように、足利義昭将軍の擁立にあっては織田信長はなくてはならない人であり、大きな功績があったと考えられます。

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織田信長と第15代将軍足利義昭の対立

永禄12年(1569年)三好三人衆と斎藤龍興が足利義昭を攻撃するが、信長は援軍に駆けつけ、二条に大規模な御所を築く。

信長は将軍権力を制限するために殿中御掟9か条を承認させる。およそ次のような内容です。

1.御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りをよしとする。

2.公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。

3.惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。

4、幕臣の家来が御所に用向きがある際は、当番役のときだけにすること、それ以外に御所に近づくことは禁止する。

5.訴訟は奉行人(幕臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない。

6.将軍への直訴を禁止する。

7.訴訟規定は従来通りとする。

8.当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。

9.跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。

更に7か条を追加する。しかしながら、これらの内容は、旧来の室町幕府の政策を受け継いでいるもので、両者とも納得づくで制定されたとされています。

永禄13年(1570年)頃から、織田信長は管領に準ずる取り扱いとなっています。

信長は幕府の政には関与せず、幕府で処理するようにとの立場をとっていたが、訴訟案件はやはり実力が伴うことから、信長に持ち込まれることが多かった。

しかしながら足利幕府の実務能力の無さや、幕府そのものの政が不公正に行われていることもあり、実際には問題山積という状態であったようです。

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第一次信長包囲網

元亀元年(1570年)織田信長は従わない朝倉義景を攻略するため進軍するが、背後から浅井氏の離反に会い直ちに撤退した。これを金ケ崎の戦いという。

しかし、同6月には浅井朝倉連合軍を姉川の戦いで打ち破る。

摂津国では三好三人衆が挙兵、同時に石山寺本願寺も挙兵。浅井・朝倉連合軍は近江国に侵攻。信長は摂津国から近江国へ帰還しこれと対峙する。

こんな具合に、あちこちで、混乱した戦いが続いています。信長はそれぞれに対応しなければいけなかったので大変だったと思います。

どれもこれも陰で糸を引いているのは将軍義昭ですから。

それでも何とか織田信長は六角義賢・義治と和睦。浅井・朝倉とも和睦する。本当にこの年は大変だったと思います。

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第二次信長包囲網

元亀2年(1571年)三好義継、松永久秀、三好三人衆が再び敵対する。上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢に御内書を下す。

元亀3年(1572年)信長は足利義昭に17か条の異見書を送る。信長はこの異見書の写しを大量に作らせて、各大名に送ります。

これによって自分の立場の正当性を証明するとともに、室町幕府の失政を明らかにする役割を果たしたといわれています。

三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍によって大敗をきたす。

元亀4年(1573年)武田軍は遠江から三河国に侵攻。足利義昭信長と敵対する。ここで、武田信玄が病気となってしまい、本国に撤退を始めます。

織田信長には運もついていたようです。織田信長京に侵攻する。正親町天皇の勅命により義昭と信長は和解する。

7月義昭は挙兵するが、信長に敗れて追放される。これをもって室町幕府の滅亡と言われています。

更に浅井氏、朝倉氏も滅亡し、これによって第二次信長包囲網も瓦解したといわれています。

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追放後の足利義昭

しかし義昭は引き続き征夷大将軍であるので、実態はなくても室町幕府の役職に就ける権限を有しており、信長の勢力範囲以外では意外と機能していた。

ここが我々の感覚とは大きく違うところです。腐っても鯛ということでしょう。

天正4年(1576年)義昭、備後国鞆に移り毛利輝元の庇護を受ける。武田、北条、上杉に御内書を送る。三度目の信長包囲網を形成しようとしています。

しかしながら、天正6年(1578年)上杉謙信死去、天正8年(1580年)石山寺本願寺降伏、天正10年(1582年)武田勝頼滅亡という具合となり、信長の敵対勢力がいなくなってしまいます。

そして天正10年(1582年)本能寺の変により織田信長、信忠が先に亡くなってしまいます。

 

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織田信長は室町幕府将軍足利義昭とどんな関係を築いたのかのまとめ

織田信長がなくなっても相変わらず将軍足利義昭は活発な活動を続けています。信長が亡くなれば亡くなったで、毛利輝元、羽柴秀吉、柴田勝家、徳川家康に上洛支持を求めています。

秀吉が関白になれば、そのまま将軍として存在感を出そうと努力しています。でも相変わらず住まいは備後国ですけれど。

島津義久にも秀吉との和睦を持ち掛けたりもしています。やっと将軍職を辞めたのは天正16年でした。

こんな様に、あくまでも将軍として、自分が何とか政治の世界で存在感を出すために、あちらこちらに書状を出して活動していました。

政権の何たるかを体現すると、様々なバランスの上に載って、存在感を出そうとするものです。義昭もそんな感じがします。300年後の徳川慶喜も同じようなことを考えたのでしょう。

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