アメリカ元大統領グラント将軍と渋沢栄一との関係は?どんな人?

歴史人物

明治12年(1879年)グラント元大統領は夫婦そろって世界一周の旅に出かけます。それも2年間の長旅です。

最初の訪問地はイギリスでヨーロッパ諸国、インド、タイ、清国、最期が日本でした。

明治政府が初めて行った国賓待遇として、7月3日から9月3日まで滞在しています。この時の様子を解説します。渋沢栄一も東京接待委員の総代として携わっています。

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グラント元大統領の主な日程は

日本はこの時、条約改正が大きな課題となっていましたし、また、清国との間では琉球問題が起こっていました。

このため、明治政府は最大限の礼をつくして、グラント元大統領を歓迎しています。

まず手始めは、長崎からです。6月21日、グラント前大統領を乗せた『リッチモンド』が長崎に到着します。日本政府は礼砲21発で同氏に最大級の敬意を表します。

さらに、天皇の特使が出迎えに出て、その夜は由緒ある寺で歓迎の宴が開かれ55品のコースが出されたそうです。

長崎を後にしてグラント元大統領は東京に向かいます。当時は東海道線が新橋横浜間しか開通していないため、横浜までは船で行ったのでしょう。

7月3日アメリカ前大統領グラント将軍入京

渋沢栄一は東京接待委員総代として新橋駅で出迎えています。

7月4日東京在留アメリカ人独立第百三回記念夜会

東京在住のアメリカ人の夜会が開催され、グラント将軍夫妻を招請します。渋沢栄一も招待を受けて出席しています。

7月8日東京府民主催グラント将軍歓迎夜会

虎ノ門の工部大学校で開いています。渋沢栄一も東京接待委員長として出席しています。

この日には、岩倉具視がグラント将軍夫妻を自邸に招待し、皇族方の同席を得て、和洋の食事を楽しみながらの観能の宴を催します。

そこで演じられたのが、宝生九郎の半能「望月」、三宅庄市の狂言「釣狐」、金剛泰一郎の能「土蜘蛛」でした。

さらに仕舞として、観世清孝の「花筐」、梅若実の「春栄」、梅若六郎の「鞍馬天狗」、梅若万三郎の「猩々」でした。

当代の名手が参集したことに加え、能、狂言には特別にあらすじを英文に訳したパンフレットも配られたそうです。

7月16日東京府民主催歓迎観劇会

新橋の新富座で開催されます。渋沢栄一も東京接待委員長として参加しています。ここでの演目は後三年奥州軍記です。源義家をグラント将軍に見立てられて上演されていました。

このように至れり尽くせりの歓待ですね。

8月1日横浜居留外国人主催招待夜会

横浜山手公園で開かれます。渋沢栄一も参加しています。

8月5日渋沢栄一飛鳥山邸での午餐会

グラント将軍を飛鳥山邸に招待して午餐会を開催しています。

8月10日明治天皇と会談

浜離宮で当時26歳の明治天皇と会談しました。

この会談で、日本の国政について意見を求められたグラントは、民選議会設立の重要性や外債の早期解消の必要性を説き、琉球帰属問題については、日清両国の相互譲歩による平和的解決を求めました。

8月25日東京府民による歓迎式典

上野公園で明治天皇の臨幸を仰いて開催されます。また、この時に来日記念の檜の植樹もしています。渋沢栄一も御臨幸委員総代として出席しています。

このほかにも日にちは違いますが、増上寺で松を植樹しており、現在でも立派に残っています。

8月26日横浜駐在アメリカ総領事トーマス・ヴァン・ビューラン主催夜会

グラント将軍が臨席し、渋沢栄一も同じように臨席しています。

その他にも日付ははっきりしませんが、日光東照宮にも行っておりますし、この際天皇しか渡ることを許されていない橋を渡ることを許可されていましたが、固辞したことで日本での評判が高まったとも言われています。

こんな様に国を挙げての大歓待だったようで、グラント元大統領はすっかり日本びいきになったといわれています。

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グラント元大統領はどんな人だったのか

グラント元大統領を140年後のトランプ大統領になぞらえて語る人が多いのですが、確かによく似ている点はあります。

彼はもともと軍人の出身でした、最初のころは酒による失敗が多くて一旦は軍隊を退いていましたが、南北戦争がはじまると俄かに活躍を始めることになります。

南軍の中央に進出して成果を上げたのがリンカーン大統領の目に留まり、たちまちのうちに総司令官に抜擢されたようです。

このため、アメリカ国内での当時の人気は高く、圧倒的な支持のもと第18代大統領に就任しました。

しかしながら、政治の経験が全くなく、側近を自分の事業と元の軍人のいわゆる身内で固めたため、彼らの中からスキャンダルが相次ぐことになります。

また、インディアンの居留地の問題でも強硬策が災いして、すっかり支持を失うことになります。

そのようなことから二期8年が過ぎるころには、史上最悪の大統領とまで言われるようになってしまいました。

この世界一周の旅は、国内の不支持からいったん逃れる意味もあったかもしれませんが、外交面ではなかなかの評価を得ることにもつながり、彼にとっては良い機会だったことでしょう。

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アメリカ元大統領グラント将軍と渋沢栄一との関係のまとめ

明治政府が初めて招いた国賓待遇のグラント元大統領の滞在のあらましと、渋沢栄一の関係を説明しました。

このときいかに明治政府がグラント元大統領の接遇に神経を注いでいたことがわかります。それだけ、条約改正が大きな問題だったのでしょう。

さらに律儀なのが、数年後、グラント元大統領が病気になった際にも何度も見舞いを派遣していることです。それほど、良い関係だったかもしれません。

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コメント

  1. 宮﨑 京子 より:

    記事を大変面白く読ませていただきました。ユリシーズ・グラント大統領の生涯を追っています。

    今、グラント大統領一行が日本の芸能のうち、流鏑馬や特に柔術に関して何かエピソードが残っていないかどうかを、リサーチしています。他のサイトによると、柔道のデモをした加納治五郎氏(当時20歳)は、それをきっかけに日本柔道を始めた、ということがわかりました。(グラントが日本のお能の発展に陰ながら寄与したという事実は、残っています。)

    どなたか、渋沢栄一や日光に同行した伊藤博文や西郷従道(隆盛の弟)の書き物や記事にグラントの言葉やエピソードなどがあったり、知っている方いらっしゃいましたら参照をポストしてください!

    蛇足)グラント元大統領と現代のトランプ元大統領とを比較している日本の記事に時々当たりますが、全く比較になりません。後者はウソで固めた人生を送っています。グラント大統領は元から政治家ではなく、大統領になりたくてなった人でもありません。最も尊敬していたリンカーン大統領と4月のあの晩、ワシントンのフォード劇場で共に暗殺される運命になるところを、偶然にも逃れました。リンカーン路線を無視していた17代アンドリュー・ジョンソン大統領には憤慨して、そのあと大統領になってからはリンカーンが残した意志を引き継いで、「すべての(人種)人々のために、憲法に従って、、、行動した」という演説で締めくくりました。自らいくつもの失策を認めています。
    4年にわたる南北戦争の後で、お金に目がくらんだ社会は、大統領より超大起業家の言うなりになっていました。でも黒人をリンチする白人主義の KKKを解散させたり、政治家たち自身あまり興味のなかった汚染取り締まりの法律を提出したり(議会で拒否されたのは皮肉なものです)、人権局を設けたりしました。中国人が差別されていたのにもテコ入れしました。そういう(白人主義)の国の代表が、真に日本文化に心を奪われたという事実(書かれた記録より)は、彼の人間愛の深さを意味していると思います。
    しかも、第一次世界大戦後、LOST CAUSE という信じられない映画が米国内に出回りました。つまり、南北戦争で勝ったのは南軍である、グラントは負け、リー将軍が英雄だ、ということを事実として今に至るまで語り継いでいるのです。ウソを徹底的に言い続ければ、真実と思わせることができる恐ろしい戦術です。アメリカの複雑さを語っています。
    トランプ氏は、自分は神がかりで、中国、北朝鮮、ソ連のようなリーダーになりたい(つまり独裁)、自分に背向けばマンハッタンのど真ん中で拳銃だって打てる(つまり、人だって殺せるぞ)、というような人です。余計なことを申し上げるかもしれませんが、トランプ氏が90以上の件で起訴されている現在、比べるのは的外れだと思います。^^(よろしければ Ronチェルノーの「グラント」、などお読みください。) 

    グラント氏の控えめな性格、人格がアメリカでもいまだに多くのファンを魅惑しているのでしょう。ましてや日本を蔑視するどころか、それだけ大切に扱ってくださったこと(明治天皇への箴言)、このアメリカ人もあまり知らない歴史的事実、驚きです。^-^

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