明治という新たな時代を歩み始めた日本に、歴史的な訪問がありました。それは、南北戦争を勝利に導いた英雄であり、アメリカ合衆国第18代大統領を務めたユリシーズ・S・グラント元大統領(Ulysses S. Grant)です。
明治12年(1879年)、グラント夫妻は2年間にわたる世界一周旅行の終着地として日本を訪れました。この訪問は、明治政府が初めて行った国賓待遇であり、その歓迎ぶりはまさに国を挙げての一大イベントだったのです。
なぜ明治政府はこれほどまでにグラント元大統領を厚遇したのでしょうか?それには、当時の日本が抱えていた重大な外交課題が深く関わっています。
🚨 緊迫する外交課題:なぜグラントは重要だったのか?
グラント元大統領が来日した当時、日本にとって喫緊の課題が2つありました。
- 不平等条約の改正: 欧米列強との間で結ばれていた不平等な条約、特に「治外法権」と「関税自主権の欠如」を是正することが、近代国家としての日本の悲願でした。
- 琉球帰属問題(日清間): 日本と清国(当時の中国)の間で、琉球(現在の沖縄)の領有をめぐる外交問題が起こっていました。
こうした難題を解決するための国際的な理解と支持を得るには、国際的な影響力を持つグラント元大統領の存在は計り知れないほど大きかったのです。政府は最大限の敬意と礼をもって彼を歓待し、日本の地位向上と外交問題への助言を期待しました。
🚢 感動の歓迎!長崎から東京への道
グラント元大統領を乗せた蒸気船『リッチモンド』が日本の地を踏んだ瞬間から、壮大な歓迎劇は始まります。
🌊 最初の寄港地・長崎での「礼砲21発」
明治12年6月21日、『リッチモンド』が長崎港に到着すると、日本政府は礼砲21発をもって最大級の敬意を表しました。これは、国家元首級の賓客に対してのみ行われる最高の栄誉です。
天皇の特使が直接出迎え、その夜は由緒ある寺院で55品もの豪華なコース料理が並ぶ歓迎の宴が開かれたそうです。初めて日本を訪れたグラント夫妻にとって、この熱烈な歓迎は、旅の疲れを忘れさせるほどの感動だったに違いありません。
🚆 東京への入京と渋沢栄一の登場
長崎を後にしたグラント元大統領は、東京へ向かいます。当時の東海道線はまだ新橋—横浜間しか開通していなかったため、横浜までは船旅でした。
そして7月3日、いよいよ東京に入京。
この東京での迎賓において、重要な役割を果たした人物がいます。それが、のちに「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一です。渋沢は東京接待委員の総代として、新橋駅でグラント将軍夫妻を出迎える大役を担いました。彼の緻密で周到な手配と国際的なセンスが、この「おもてなし」を成功に導く鍵となったのです。
🎉 豪華絢爛!東京でのグラント将軍歓迎日程ハイライト
滞在期間中、グラント元大統領夫妻は息つく暇もないほどの歓迎を受けました。その中から、特に注目すべき主要な日程を見ていきましょう。
🎭 伝統芸能の粋を尽くした「観能の宴」
明治政府がグラント将軍を心からもてなすために、いかに神経を注いでいたかがわかるのが、7月8日に岩倉具視(当時の右大臣)の自邸で開かれた観能の宴です。
岩倉は、皇族方も同席する中、和洋の食事を楽しみながら、日本の伝統芸能である能と狂言を鑑賞する特別な宴を催しました。
- 演目: 宝生九郎の半能「望月」、三宅庄市の狂言「釣狐」、金剛泰一郎の能「土蜘蛛」など、当代の名手が集結。
- 特別対応: 能・狂言の筋書きを特別に英文に訳したパンフレットが用意されました。
異国の賓客が日本の深い精神文化を理解できるよう配慮する、まさに「至れり尽くせり」の歓待でした。
⚔️ 新富座での観劇会:「源義家」にグラントを重ねて
7月16日には、新橋の新富座で東京府民主催の歓迎観劇会が開かれます。上演されたのは、軍記物である「後三年奥州軍記」でした。
この演目では、主人公である武将・源義家が、グラント将軍に見立てられて上演されたといいます。南北戦争を勝利に導いた英雄を、日本の歴史上の英雄に重ね合わせる演出は、歓迎ムードを最高潮に盛り上げました。
(このほかにも、7月4日の東京在留アメリカ人夜会、7月8日の工部大学校での歓迎夜会、8月1日の横浜居留外国人主催夜会などに、接待委員総代である渋沢栄一が携わっています。)
🏡 渋沢栄一の飛鳥山邸での午餐会
個人的な交流も深まりました。8月5日、渋沢栄一は自身の飛鳥山邸(現在の東京都北区)にグラント将軍を招待し、午餐会(昼食会)を開いています。公の場だけでなく、私的な空間での温かい交流は、両者の信頼関係を深める一助となったことでしょう。
👑 歴史的会談:明治天皇との対話
来日中の最も重要な出来事の一つが、8月10日に浜離宮で行われた明治天皇との会談です。当時26歳だった明治天皇は、グラントに日本の国政について率直な意見を求めました。
グラントは、軍事・政治の指導者としての経験に基づき、重要な提言を行いました。
グラント元大統領の提言
- 内政について: 民選議会設立の重要性を説く。
- 財政について: 外債(外国からの借金)の早期解消の必要性を指摘。
- 外交について(琉球問題): 日清両国の相互譲歩による平和的解決を求める。
グラントのこの提言は、当時の日本の指導層、特に明治天皇に大きな影響を与え、その後の国策決定に深く関わったと言われています。
若き明治天皇に謁見したグラント米大統領は、いくつかの忠告をしています。
そのうち、2つを挙げると、1. 内政干渉に気をつけること
2.普通選挙については、よくよく
考えること。
一旦、選挙権を与えたら、二度と
もとには戻せない一旦外国人参政権を認めたら
二度と元には戻せません。 pic.twitter.com/GIySE0xxHE— 湯浅忠雄 YUASA TADAO (@GrwaNnKqMn5nG68) February 19, 2024
🌳 記憶に残る記念植樹と逸話
8月25日には、上野公園で東京府民による歓迎式典が開催され、明治天皇の臨席を仰ぎました。この時、来日記念の檜の植樹が行われ、現在も歴史を伝える証となっています。(増上寺でも松の植樹が行われ、今も立派に残っています。)
また、日光東照宮を訪れた際には、天皇しか渡ることが許されない「神橋」を渡る許可が特別に出されました。しかし、グラントは「それは過分な栄誉である」として固辞したと言われています。この謙虚な姿勢は、当時の日本で大いに評判を高めることになりました。
🤵 グラント元大統領:英雄と批判の狭間で
ユリシーズ・S・グラントはどのような人物だったのでしょうか?
彼はもともと軍人の出身で、南北戦争が始まると目覚ましい活躍を見せ、エイブラハム・リンカーン大統領に見いだされて北軍の総司令官に抜擢されました。その功績から、戦後は圧倒的な支持を得て第18代大統領に就任します。
しかし、政治家としては困難に直面しました。
👤 軍人としてのグラント | 🏛️ 大統領としてのグラント |
---|---|
南北戦争の英雄(勝利に貢献) | 政治経験の不足 |
リンカーン大統領からの厚い信頼 | 側近を軍時代の身内などで固めたことによるスキャンダル多発 |
卓越した軍事戦略家 | インディアン居留地問題での強硬策による支持の喪失 |
二期8年の任期を終える頃には、その政治的手腕について厳しい評価も多く、「史上最悪の大統領」とまで言われることもありました。
✈️ 世界一周旅行と外交面での再評価
この2年間にわたる世界一周の旅は、国内の不支持から一旦逃れるという側面もあったかもしれませんが、外交の舞台では非常に高い評価を得る機会となり、彼自身にとっても名誉を回復する良い機会となりました。
グラント元大統領は、旅の過程で各国首脳と会談し、その見識と人格で各地で歓迎を受けました。特に日本での手厚い歓迎と、明治天皇との会談での外交的な助言は、彼の国際的な評価を大きく高めることにつながりました。この旅を通じて、彼はすっかり日本びいきになったと言われています。
🤝 グラントと渋沢栄一:その後も続く友好の絆
渋沢栄一は、東京接待委員の総代として、この壮大な「おもてなし」の舞台裏を支え続けました。この時の関係は、グラント元大統領が帰国した後も長く続きます。
特筆すべきは、数年後、グラント元大統領が重病を患った際にも、明治政府が何度も見舞いの使節を派遣しているという事実です。これは、単なる外交儀礼を超えて、いかに当時の日本政府がグラントとの関係を大切に思い、この来日を感謝していたかを示すエピソードです。
グラント元大統領夫妻の来日は、単なる異国からの訪問ではありませんでした。それは、国際社会で立ち上がろうとする明治日本が、世界に向けて自国の精神と文化、そして熱意を示すための歴史的な舞台だったのです。この特別な出会いは、日米両国の友好関係の礎の一つとなり、歴史に深く刻まれました。
コメント
記事を大変面白く読ませていただきました。ユリシーズ・グラント大統領の生涯を追っています。
今、グラント大統領一行が日本の芸能のうち、流鏑馬や特に柔術に関して何かエピソードが残っていないかどうかを、リサーチしています。他のサイトによると、柔道のデモをした加納治五郎氏(当時20歳)は、それをきっかけに日本柔道を始めた、ということがわかりました。(グラントが日本のお能の発展に陰ながら寄与したという事実は、残っています。)
どなたか、渋沢栄一や日光に同行した伊藤博文や西郷従道(隆盛の弟)の書き物や記事にグラントの言葉やエピソードなどがあったり、知っている方いらっしゃいましたら参照をポストしてください!
蛇足)グラント元大統領と現代のトランプ元大統領とを比較している日本の記事に時々当たりますが、全く比較になりません。後者はウソで固めた人生を送っています。グラント大統領は元から政治家ではなく、大統領になりたくてなった人でもありません。最も尊敬していたリンカーン大統領と4月のあの晩、ワシントンのフォード劇場で共に暗殺される運命になるところを、偶然にも逃れました。リンカーン路線を無視していた17代アンドリュー・ジョンソン大統領には憤慨して、そのあと大統領になってからはリンカーンが残した意志を引き継いで、「すべての(人種)人々のために、憲法に従って、、、行動した」という演説で締めくくりました。自らいくつもの失策を認めています。
4年にわたる南北戦争の後で、お金に目がくらんだ社会は、大統領より超大起業家の言うなりになっていました。でも黒人をリンチする白人主義の KKKを解散させたり、政治家たち自身あまり興味のなかった汚染取り締まりの法律を提出したり(議会で拒否されたのは皮肉なものです)、人権局を設けたりしました。中国人が差別されていたのにもテコ入れしました。そういう(白人主義)の国の代表が、真に日本文化に心を奪われたという事実(書かれた記録より)は、彼の人間愛の深さを意味していると思います。
しかも、第一次世界大戦後、LOST CAUSE という信じられない映画が米国内に出回りました。つまり、南北戦争で勝ったのは南軍である、グラントは負け、リー将軍が英雄だ、ということを事実として今に至るまで語り継いでいるのです。ウソを徹底的に言い続ければ、真実と思わせることができる恐ろしい戦術です。アメリカの複雑さを語っています。
トランプ氏は、自分は神がかりで、中国、北朝鮮、ソ連のようなリーダーになりたい(つまり独裁)、自分に背向けばマンハッタンのど真ん中で拳銃だって打てる(つまり、人だって殺せるぞ)、というような人です。余計なことを申し上げるかもしれませんが、トランプ氏が90以上の件で起訴されている現在、比べるのは的外れだと思います。^^(よろしければ Ronチェルノーの「グラント」、などお読みください。)
グラント氏の控えめな性格、人格がアメリカでもいまだに多くのファンを魅惑しているのでしょう。ましてや日本を蔑視するどころか、それだけ大切に扱ってくださったこと(明治天皇への箴言)、このアメリカ人もあまり知らない歴史的事実、驚きです。^-^