徳川家茂と和宮は?第14代将軍の生涯と公武合体論の顛末は?

歴史人物

徳川家茂(いえもち)というと、幕末で影の薄い第14代将軍か公武合体論で和宮と一緒になった将軍とかぐらいしか印象にないでしょう。

大河ドラマ「青天を衝け」でも出てきますが、僅か20年の生涯でありますが、その人となりも含めてご紹介いたします。

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徳川家茂と和宮は?第14代将軍の生涯と公武合体論の顛末は?徳川家茂の生涯は

弘化3年(1846年)徳川斉順の次男として江戸の紀州藩邸で誕生した。

嘉永2年(1849年)に叔父で第12代藩主である徳川斉彊が死去したため、家督を4歳で継いだ

嘉永4年(1851年)元服し、慶福(よしとみ)と名乗る。僅か5歳。

安政5年(1858年)第13代将軍徳川家定が死去したため第14代将軍となった。慶福改め家茂とする。13歳。

文久2年(1862年)和宮親子内親王と結婚した。

文久3年(1863年)3千人を率いて将軍としては229年振りとなる上洛を行った。

3月7日に参内し、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を約束した。

慶応元年(1865年)、二度目の上洛中に兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰された。

慶応2年(1866年)、上洛した第2次長州征伐の途上、大坂城で病に倒れた

同年7月20日に薨去した。享年21(満20歳没)。

こんな様に13歳で将軍になって20歳で亡くなってしまうわけですから、影が薄いのはわかりますよね。

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徳川家茂と和宮は?第14代将軍の生涯と公武合体論の顛末は?家茂のエピソード

徳川家茂は僅か7年間のしかも20歳前の青年将軍でした。でもあまり体は強い感じではなかったようですが、とても気がやさしい、心配りができる好青年だったようです。

その人となりからはいろいろな好意的なエピソードが残っております。

純粋に良い将軍になろうと努力

小さいころから魚とか動物をかわいがる心優しい青年であったようです。将軍になってからは努めて文武にいそしみ、良い将軍になろうと努力したようです。

その努力がまたストレスになったのではないでしょうか。

優れた理解力と政策決定力

文久3年(1863年)に軍艦の機能について勝海舟から説明を聞いた時に非常に素晴らしい理解力を示したようで、勝海舟が激賞しています。

世間一般からは徳川慶喜が聡明と言われていて、すっかり影が薄いのですが、意外と好青年だったようです。

しかも、勝海舟の進言を入れて神戸伝習所の設置を決めたり、それなりに決断も素早かったようです。

とっさの機転とやさしさ

戸川安清という70過ぎの老人が家茂の習字の先生をしていた時、家茂が突然、安清の頭に水をかけて「あとは明日」と出て行ってしまった。

とても唐突な行動などで家臣がいぶかっていると、安清が老齢のため失禁したのを見かけて家茂がとっさの行動をとり不問にしてしまったとのこと。

家茂の機転が利く行動力とやさしさが出てくるエピソードですね。なんだか、どっかの国で女王様のおならの代役をした家臣によく似ていますね。立場は違いますが。

和宮との数々の逸話

家茂といえば公武合体と決まっていて、何かと和宮との政略結婚が話題になります。恐る恐る和宮は江戸に来たものの、このような好青年に嫁いだのは幸せだったようです。

政略結婚とは裏腹に、仲睦まじく生活をしていたようです。和宮が茶菓を送ったり家茂が上洛の折には西陣織を探して送っていたりしています。

でもそれが届いたのは家茂の訃報の後だったようです。

そしてその和宮が詠んだ歌がとても素敵です。

「空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ」

唐織衣をいただいてもあなたがいなければ何の価値もありません。

「三瀬川世にしがらみのなかりせば君諸共に渡らしものを」

世の中にしがらみがなかったら三途の川も一緒にわたりたかった。

その西陣織は増上寺に奉納され、家茂追悼の袈裟になったそうです。

11年後和宮が31歳で亡くなるとき、「家茂のそばに葬ってほしい」との遺言を残しております。そして二人は並んで増上寺に葬られました。

さらに後日談があります。

昭和の時代に徳川家の墓所の改装があり、調査があります。和宮が一枚の写真を抱いて眠っていたそうです。

残念なことに写真はたちまち退色して何かわからなくなったそうですが、烏帽子と直垂姿の男性の写真だったそうです。なんだか泣けてきますね。

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徳川家茂と和宮は?第14代将軍の生涯と公武合体論の顛末は?のまとめ

幕末にあってもっとも薄幸な将軍家茂の生涯とエピソードをまとめてみました。こうしてみると本当に好青年ですし、和宮との逸話などは泣かせる場面です。

でも、このような好青年が長生きできないところに徳川幕府の限界が見えてきたようですね。

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