将軍徳川慶喜の名誉回復はどのように行われたか

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徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いの後に江戸に帰り抗戦を主張する幕臣を押さえて恭順してしまいます。その後は謹慎生活が続くわけですが、その謹慎生活の理由、様子、その後どのように慶喜の名誉回復がなされていったかを解説したいと思います。

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鳥羽伏見の戦い以降の徳川慶喜

1868年のことです。慶喜は江戸城開城以降は水戸藩で謹慎生活を送ることとなります。

4月11日に江戸城を出て、4月15日に水戸に到着することになります。水戸では弘道館の至善堂で謹慎することになります。

しかし、徳川宗家が徳川家達に相続が決まり、家達は駿河の領地が決まります。それと水戸では反天狗党が慶喜を担ぐ恐れがあるため、慶喜は駿府への転居が命じられます。

7月に駿府の宝台院に落ち着くことになります。

1869年(明治2年)函館戦争が終わったため、戊辰戦争は終了することになりました。

このため、さっそく勝海舟、大久保一翁などの幕臣が明治政府に働きかけて、9月には謹慎処分が解除されてしまいます。意外と早い解除ですよね。

確かに、鳥羽伏見の戦いでの慶喜の逃亡から江戸城での恭順姿勢から、戊辰戦争の功は顕著ですので、分かるのですが。それでも、朝廷方からすれば敵の総大将ですのでそんなに安易に許してよいものでしょうか。

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謹慎処分の明けた徳川慶喜は静岡で静かな暮らしを

この時慶喜はまだ31歳でした。ずいぶん若かったのです。10月には静岡の宝台院を出て、静岡市内の紺屋町の元代官屋敷に移り住むことになります。小石川の水戸藩邸で暮らしていた妻の美賀子も静岡に移り住みます。

1871年廃藩置県となり、徳川家達が東京に移り住むことになります。慶喜は宗家の家達とともに東京に移り住むのが自然なのですが、そのまま静岡に留まります。このあたりの原因が諸説あるところです。

徳川慶喜が静岡にとどまった理由は

渋沢栄一が後日語ることによれば、これは勝海舟の配慮により、東京へ出てくると様々の思惑もあり、慶喜が不愉快な目に合うこともあるため、あえて静岡に留まる方が望ましいと考えたと言っています。

もっとも渋沢はあからさまには言わないけれど、東京無血開城など維新に際しての速やかな政権交代は勝海舟の功績が大きいと言われているが、もとはと言えば、将軍慶喜が鳥羽伏見の戦い以降一貫して朝廷方に恭順の意を表していることが大きな成果があったので、そのことが表面化するのを嫌がって遠ざけたともとられる表現をしています。

本当はどうだったのでしょうか。

勝海舟の思いは別としても、徳川慶喜本人も旧幕府につながるような、特に、戊辰戦争で朝廷側と戦った功臣を意識的に避けていることから、もう過去の幕府時代とは距離を置きたいと考えていたのではないかと推測されます。

その明らかな例としては、戊辰戦争を最後まで戦った榎本武揚、永井尚志などのいわゆる幕府側の功臣には面会すらしていないことがあります。

徳川慶喜の静岡時代の生活はどの様だったのでしょう

静岡時代の徳川慶喜は世間との政治的なつながりを避けて、もっぱら趣味の生活に没頭していたようです。

その幅もとても広く、猟銃、鷹狩、囲碁、投網、鵜飼、謡曲、能,小鼓、洋画、詩集、将棋、釣り、講談、自転車、ビリヤード、写真、弓道と言ったものでそれらを相当のレベルまでやっていたようです。

もっぱら生活費には困らない暮らしだったので、このぐらいやらないと困ったのかもしれません。なんといってもまだ30代、40大ですから体力はあったのでしょう。

もう一つは家庭生活です。ここら辺が現代のわれわれからは想像がつかないのですが、側室も一緒に住んでいたようです。

記録に残っているだけでも、側室の一色須賀、側室の新村信、このひとからは5男、5女の10人の子供が生まれています。側室の中根幸からは5男、5女の11人が育っています。

これらはすべて明治以降の出生です。また、外妾のお芳という方もいたようです。江戸時代にさかのぼれば将軍様ですが、明治の代になっても堂々とこれだけの生活をしていたようですから、大変な経費も掛かったことでしょう。

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徳川慶喜の名誉回復はどのように図られたか

1872年(明治5年)には従四位に叙せられ、早くも名誉回復が図られています。

更に1880年(明治13年)には正二位となり、将軍時代と同じ官位になっています。1888年(明治21年)には従一位となっており、通常かかる年数を削減までされています。

そういう意味では、徳川慶喜の名誉回復はかなり早い段階で達せられていることがわかります。

これには、先ほど紹介した勝海舟、大久保一翁などの旧幕臣の働きかけも大きかったと思いますが、やはり国を早くまとめなくては、という明治政府の方針も効果があったのでしょう。

東京に移住してからも、1902年(明治35年)には公爵に叙せられ、徳川慶喜家を興すことができるようになります。これにより公爵議員として貴族院議員になり、形の上では公務に復帰することになりました。

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徳川慶喜は静岡を離れて東京に移住するようになります

1897年(明治30年)には静岡を離れて東京に移り住むようになりました。

理由はいくつかあったようですが、本人の健康不安が一番だったのではないでしょうか、また、多くの子供が学習院に行くことになりましたので、静岡の家が寂しくなってきたので潮時と考えたのでしょう。

そして、やはり明治も30年になって幕末の雰囲気も薄らいだことも東京移転を決意することになった要因でしょう。

翌年3月には皇居に参内して明治天皇の拝謁を受けるようになります。これで幕末とは一区切りついたようで、その後は、皇太子をはじめ皇族の方とも頻繁に行き来しています。さすがに最後の将軍の面目躍如足るところがあるでしょう。

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徳川慶喜の名誉回復はどのように行われたかのまとめ

徳川慶喜は官軍の敵として、一時は命を狙われるまでになりますが、謹慎生活、静岡での隠遁生活を経て、順調に名誉回復を図りました。

これには、本人の身の処し方、旧幕臣の働きかけ、明治政府の思惑などいろいろな要因があったことでしょうが、総じてみていくと幸せな人生であることがわかります。

1906年日露戦争後の凱旋軍人の慰労会が催しられています。場所は千駄ヶ谷の徳川宗家邸でした。宗家の家達の発声で、「天皇陛下万歳」、慶喜の発声で「陸海軍万歳」、榎本武揚の発声で「徳川家万歳」が参照された記録が残っています。

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