斉明天皇(皇極天皇)は、645年に史上初の譲位を行い、655年には史上初の重祚を果たした飛鳥時代の女帝です。
彼女が生きた7世紀半ばは、蘇我氏の権勢、乙巳の変(いっしのへん)、大化の改新、さらに唐・新羅と百済をめぐる東アジアの緊張が重なった、日本史でも屈指の転換期でした。
しかも皇極天皇・斉明天皇は、後の天智天皇と天武天皇の母でもあります。二度の即位はなぜ必要だったのか、そして彼女自身は政治の中でどのような役割を担ったのか。その生涯を、初めて飛鳥時代を学ぶ方にも分かりやすく見ていきましょう。
皇極天皇・斉明天皇とは?二度天皇になった女帝の基本像
結論からいえば、皇極天皇と斉明天皇は同じ人物です。
594年に生まれたとされる宝皇女(たからのひめみこ)が、642年に第35代皇極天皇として即位し、645年に退位。その10年後の655年、今度は第37代斉明天皇として再び皇位に就きました。
宮内庁の天皇系図でも、皇極天皇を第35代、孝徳天皇を挟んで重祚した斉明天皇を第37代として位置づけています。
つまり、一人の人物が二つの天皇名を持っているのです。
歴史の流れを先に整理すると、次のようになります。
- 594年ごろ:宝皇女として誕生
- 舒明天皇の皇后となる
- 642年:第35代皇極天皇として即位
- 645年:乙巳の変が起こる
- 645年:弟の軽皇子へ譲位し、孝徳天皇が即位
- 655年:第37代斉明天皇として重祚
- 658年:有間皇子の事件
- 660年:百済が唐・新羅連合軍によって滅亡
- 661年:百済救援のため九州へ向かい、朝倉で崩御
皇極天皇・斉明天皇の生涯から特に押さえておきたいのは、次の五点です。
- 同じ人物が二度皇位に就いた、日本史上最初の重祚の例であること
- 在位中に乙巳の変が起こり、その後の大化の改新につながったこと
- 一度退位した後も「皇祖母尊」として政治の中心にいたこと
- 斉明朝では飛鳥で大規模な造営や外交が進められたこと
- 百済救援のため自ら西へ向かい、九州で生涯を終えたこと
ここで一つ注意しておきたい点があります。
以前は女帝を「次の男性天皇が決まるまでの一時的な中継ぎ」と説明することが少なくありませんでした。しかし現在の研究では、それだけで古代の女帝を説明するのは単純すぎるという見方もあります。
実際、皇極・斉明天皇は一度退位した後にも政治的影響力を持ち、さらに60歳を超えて再び皇位に就いています。
女帝を単なる「つなぎ役」と見るより、王族の長老的な立場と独自の権威を持つ統治者だった可能性も含めて考えるほうが、実像に近づけるでしょう。古代女帝研究でも、皇極・斉明の譲位や重祚、皇祖としての位置づけは重要な論点になっています。
皇極天皇の誕生と初即位|なぜ宝皇女が選ばれた?
皇極天皇は594年ごろ、宝皇女(宝女王とも表記されます)として誕生しました。
父は茅渟王(ちぬのおおきみ)、母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)で、父方では第30代敏達天皇につながる皇族でした。宮内庁も斉明天皇の父を茅渟王、母を吉備姫王としています。
宝皇女には、舒明天皇と結婚する以前に高向王(たかむこのおおきみ)と結婚し、漢皇子(あやのみこ)をもうけたとする系譜も伝わっています。
その後、伯父にあたる田村皇子、後の第34代舒明天皇の皇后となりました。
二人の間には、日本史を大きく動かす三人の皇子・皇女が生まれています。
- 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ):後の第38代天智天皇
- 間人皇女(はしひとのひめみこ):後の第36代孝徳天皇の皇后
- 大海人皇子(おおあまのおうじ):後の第40代天武天皇
つまり皇極・斉明天皇は、後の天智天皇と天武天皇という二人の重要な天皇の母でもあったのです。
この事実だけを見ても、彼女が7世紀の皇位継承を考えるうえで極めて重要な位置にいたことが分かります。
舒明天皇の死後、なぜ皇極天皇が即位したのか
641年に舒明天皇が崩御すると、再び大きな問題となったのが次の天皇を誰にするのかという皇位継承でした。
当時は現代のように「必ずこの人物が次の天皇になる」と機械的に決まる制度ではありません。
血統だけでなく、本人の年齢や経験、母方の血筋、有力豪族との関係など複数の事情が絡み、群臣の支持も大きな意味を持っていました。
しかも舒明天皇が即位する以前から、皇位をめぐって田村皇子と聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する勢力の対立がありました。
そこには大臣・蘇我蝦夷(そがのえみし)の意向も強く働いていました。
その複雑な状況の中で、642年、宝皇女が皇極天皇として即位します。
48歳前後という、当時としては十分な人生経験を積んだ時期の即位でした。
従来は「皇位継承争いを避けるための調整役」と説明されることがあります。確かに、有力な皇子たちの間に立つことのできる存在だった点は重要でしょう。
しかし私は、皇極天皇をただの「一時的な代理」として見るのは少し違うのではないかと感じます。
後に再び斉明天皇として即位することを考えれば、宝皇女自身に皇族をまとめるだけの権威と政治的経験が備わっていたと見るほうが自然だからです。
皇極朝で高まっていった蘇我氏への緊張
皇極天皇の時代には、蘇我蝦夷・入鹿父子の権勢がさらに強まりました。
特に643年には、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、山背大兄王とその一族が滅びる事件が起こります。
山背大兄王は聖徳太子の子であり、皇位継承の有力候補の一人でした。
その人物が蘇我氏の軍事行動によって排除されたことは、朝廷内の緊張を一段と高める出来事でした。
この緊張が、わずか2年後の乙巳の変へつながっていきます。
乙巳の変とは?皇極天皇の目前で蘇我入鹿が倒された
皇極天皇の在位中でもっとも有名な事件が、645年の乙巳の変です。
皇極天皇4年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは、宮中で蘇我入鹿を襲撃しました。
事件の舞台となったのは、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)です。
『日本書紀』では、外交使節を迎える儀式の場で入鹿が襲われ、皇極天皇に事情を訴えた様子が描かれています。
つまり、皇極天皇の目の前で政権中枢を揺るがす政変が起こったことになります。
翌日には父の蘇我蝦夷も追い詰められて自害し、長く朝廷で強い力を持ってきた蘇我本宗家は事実上滅亡しました。
皇極天皇は乙巳の変を知っていたのか
ここは歴史好きなら気になるところでしょう。
皇極天皇は、息子である中大兄皇子たちの計画を事前に知っていたのでしょうか。
これは断定できません。
蘇我入鹿が助けを求めた際の皇極天皇の対応から、計画を事前に知っていたのではないかと推測する説もあります。
一方で、突然の襲撃に直面し、その場で状況を把握できなかった可能性も否定できません。
『日本書紀』の記事だけから皇極天皇が「黒幕だった」「何も知らなかった」と言い切ることはできないのです。
史料を読むときに大切なのは、書かれている出来事と、後世の推測を分けて考えることです。
これは歴史を学び直す際に、私自身もいつも心に留めている点です。
日本史上初とされる「譲位」
乙巳の変の後、皇極天皇は自ら皇位を退きます。
後継者をめぐっては中大兄皇子や古人大兄皇子なども候補になり得ましたが、最終的に皇極天皇の同母弟である軽皇子(かるのみこ)が即位しました。
第36代孝徳天皇です。
皇極天皇の退位は、記録上、日本史で初めて天皇が生前に皇位を譲った「譲位」の例として知られています。
皇極天皇は退位したからといって、政治の舞台から消えたわけではありません。
退位後は皇祖母尊(すめみおやのみこと)という尊称を受けました。
ここが非常に重要です。
「退位した天皇=完全に引退」という現代的な感覚で考えると、飛鳥時代の政治を読み違えてしまいます。
皇極天皇はその後も王権の中心に近いところに存在し続けました。
大化の改新で日本はどう変わった?
孝徳天皇のもとで中大兄皇子が皇太子となり、中臣鎌足らとともに新しい政治が進められました。
元号「大化」も定められます。
これら一連の政治改革が、後世に大化の改新と呼ばれるようになりました。
学校教育では、豪族が支配していた土地と人々を国家の支配へ移していく公地公民が代表的な政策として説明されます。
地方行政の整備や戸籍・税制につながる改革も進められ、豪族の連合的な支配から、天皇を中心とする中央集権的な国家へ移っていく大きな流れが生まれました。
ただし、ここも少し丁寧に理解しておきたいところです。
645年の一つの事件を境に、日本の制度が一夜で完成したわけではありません。
律令国家が形になるまでには、その後の天智天皇、天武天皇、持統天皇らの時代を含めて長い年月が必要でした。
したがって大化の改新は、完成した制度そのものというより、古代国家づくりが大きく加速する転換点として見ると分かりやすいでしょう。
なぜ皇極天皇は斉明天皇として二度目の即位をしたのか
孝徳天皇の治世に入っても、皇極上皇、中大兄皇子と孝徳天皇との関係は決して単純ではありませんでした。
孝徳天皇は都を難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)へ移し、新政を進めます。
しかし653年、中大兄皇子は都を再び大和へ戻すことを求めました。
孝徳天皇がこれを受け入れなかったため、中大兄皇子は皇極上皇や間人皇后、多くの公卿・官人を伴って飛鳥へ戻ってしまいます。
孝徳天皇は難波に残されました。
この出来事は、中大兄皇子と孝徳天皇との間に深刻な政治的対立があったことをうかがわせます。
翌654年、孝徳天皇は崩御しました。
ここで興味深いのが、中大兄皇子がすぐには天皇にならなかったことです。
中大兄皇子が即位せず、母が再登板した理由
元記事では「中大兄皇子がまだ若かったため」と説明しましたが、これだけでは十分ではありません。
中大兄皇子はすでに乙巳の変や改新政治の中心人物であり、政治経験を積んでいました。
それでも即位せず、655年、母である元皇極天皇が再び皇位に就きます。
これが第37代斉明天皇です。
一度退位した人物が同じ皇位に再び就くことを重祚(ちょうそ)といいます。
皇極天皇から斉明天皇への重祚は、日本史上初の例です。
594年生まれとすれば、数え年では62歳ほどでの再即位でした。
古代人の「平均寿命」と現代人の年齢を単純に比較することはできませんが、少なくとも若い皇族を補佐するだけの人物ではなく、長年の経験を備えた王族の長老が再び統治の前面に立ったことは確かです。
では、なぜ中大兄皇子ではなく母が即位したのでしょうか。
決定的な理由を示す史料は残っていません。
皇位継承をめぐる諸勢力の調整、中大兄皇子が皇太子として実権を握るほうが動きやすかった可能性、そして皇極上皇自身が持っていた王族内での高い権威など、複数の事情が重なったと考えるべきでしょう。
私は、この二度目の即位こそ皇極・斉明天皇を見るうえでもっとも重要なポイントだと考えています。
単なる「中継ぎ」であったなら、一度退位した人物を10年後にわざわざ再び天皇として迎える必要性を説明しにくいからです。
斉明天皇は「何もしなかった女帝」ではない
斉明天皇の時代には、飛鳥で盛んな宮殿造営や土木事業が行われました。
『日本書紀』には大規模な水路が造られ、当時の人々から「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼ばれたという記事も残ります。
大量の労働力を必要とする工事に対し、当時から批判の目があったことを示す興味深い記録です。
一方、考古学から眺めると斉明朝の飛鳥は非常に活気があります。
飛鳥では須弥山石など独特の石造物が使われ、海外や各地から訪れた人々を迎える儀礼空間が整えられていたと考えられています。
奈良文化財研究所は、亀形石槽・船形石槽についても斉明天皇の時代に造られ、天皇や国家に関わる重要な祭祀空間だった可能性を指摘しています。
657年には飛鳥寺の西に須弥山の像を造って盂蘭盆会を行ったという記録もあります。
こうした史料や遺跡を合わせて見ると、斉明朝の飛鳥は単なる政治都市ではありません。
国家の威信を目に見える形で示し、国内外の人々を迎える舞台として整えられていったと考えることができます。
さらに660年には、中大兄皇子が日本で最初とされる漏刻、つまり水時計を造ったことが『日本書紀』に記されています。
奈良文化財研究所は、その施設が現在の飛鳥水落遺跡にあたると考えています。
時間を測り、国家が人々に時刻を知らせる。
一見すると小さな出来事ですが、私はここにも古代国家が制度化されていく姿が表れているように思います。
斉明天皇の外交・有間皇子・百済救援は何を意味した?
斉明天皇の後半生は、国内政治だけでなく東アジア情勢に大きく左右されました。
当時の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅が争い、中国大陸では唐が強大な勢力となっていました。
日本列島の政治は、もはや国内だけを見ていればよい時代ではありません。
海の向こうで起きた政変や戦争が、そのまま倭国の安全保障や外交に響いてくる時代になっていたのです。
阿倍比羅夫と北方への進出
斉明朝では、北方への活動も活発化しています。
『日本書紀』によれば658年、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が船団を率いて日本海側を北上しました。
伝承では船師180艘を率い、齶田・渟代、さらに津軽方面の蝦夷と関わったとされています。
ただし、この遠征記事には後世の伝承的要素が含まれる可能性も指摘されており、記述をそのまま現代の意味での「東北征服」と理解するのは慎重であるべきです。
それでも、斉明朝の王権が東北や日本海側の地域との関係を強めようとしていたことは重要でしょう。
飛鳥だけを中心に見るのではなく、列島の北と西へ視線を広げていた政権だったことが分かります。
有間皇子が若くして命を落とした悲劇
斉明天皇の時代には、孝徳天皇の子である有間皇子(ありまのおうじ)が謀反の疑いを受け、命を落とす事件も起きました。
658年のことです。
有間皇子は皇位継承の可能性を持つ皇族でした。
そのため、この事件の背後には当時の複雑な皇位継承問題や中大兄皇子との政治的緊張があったのではないかと考えられてきました。
ただし、有間皇子が本当に主体的に謀反を計画していたのかについては、史料の読み方に議論があります。
政治的に危険な人物として追い詰められた可能性も含め、断定しない姿勢が必要です。
有間皇子が処刑に向かう途中に詠んだと伝えられる歌は、『万葉集』に残っています。
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
磐代の浜にある松の枝を結んでおこう。もし無事でいられたなら、再びここへ戻って見たい――という趣旨の歌です。
帰ることができるか分からない若者が、松の枝に再会への願いを託したと思うと、1300年以上の時間を越えて胸に迫るものがあります。
歴史書では「有間皇子の変」という数文字で終わりますが、その背後には一人の人間の恐れや希望がありました。
年齢を重ねて歴史を読み返すと、私はこうした一首にこそ、制度や政争だけでは見えてこない時代の温度を感じます。
660年、百済が滅亡する
斉明6年にあたる660年、東アジア情勢を大きく変える出来事が起きます。
日本と長く関係を結んできた百済が、唐と新羅の連合軍によって滅ぼされたのです。
百済の遺臣たちは国の復興を目指し、倭国へ救援を求めました。
斉明天皇の政権は、この要請に応じる方向へ動きます。
ここで重要なのは、百済との関係が単なる「外国への親切」ではなかったことです。
百済とは長期にわたって人的・文化的交流があり、朝鮮半島の勢力均衡が崩れることは倭国自身の安全保障にも関わりました。
唐と新羅の勢力が一気に朝鮮半島南部へ及ぶことは、海を隔てた日本列島にとっても重大な問題だったのです。
斉明天皇は自ら九州へ向かった
斉明天皇は百済救援のため軍事準備を進め、661年、自ら中大兄皇子らとともに西へ向かいました。
そして筑紫へ入り、現在の福岡県朝倉市付近に朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)を置いたとされています。
朝倉市の資料でも、斉明天皇が661年に百済復興のため西征し、朝倉橘広庭宮を拠点としたことが紹介されています。
ここで私が改めて驚かされるのは、斉明天皇自身がすでに60歳を超えていたことです。
飛鳥から北部九州までの移動は、現代の旅行とは比較にならないほど大きな負担だったでしょう。
それでも天皇自身が前線に近い九州へ移動したことからは、百済救援が国家の最重要課題として扱われていたことが分かります。
斉明天皇の最期は朝倉だった
しかし斉明天皇は、百済復興という目的を見届けることができませんでした。
661年、朝倉橘広庭宮で病に倒れ、斉明天皇7年7月24日、68歳で崩御します。皇極天皇として642~645年、斉明天皇として655~661年に在位した生涯でした。
宮内庁が治定している陵は、奈良県高市郡高取町の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)です。
一方、考古学では明日香村の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)が斉明天皇陵である可能性も議論されており、飛鳥時代をめぐる歴史には今なお研究の余地が残されています。
なお、百済救援戦そのものは斉明天皇の死で終わりませんでした。
中大兄皇子が即位せず皇太子のまま政務を執る「称制」を行い、救援戦を継続します。
663年、倭国と百済復興軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しました。
したがって「斉明天皇が白村江で敗れた」と理解するのは正確ではありません。
斉明天皇はその2年前に亡くなっており、彼女が行ったのは百済救援を国家として決断し、自ら九州へ向かったところまでです。
朝倉市の歴史文化資料でも、斉明天皇の崩御後に百済復興軍が白村江で敗れた流れが整理されています。
皇極天皇・斉明天皇は「中継ぎの女帝」だったのか|考察とまとめ
皇極天皇・斉明天皇の生涯を振り返ると、彼女を単に「中大兄皇子の母」として扱うだけでは、その歴史的な重要性を十分に説明できないと私は考えます。
彼女の人生は、日本の国家の仕組みそのものが変わっていく時代と重なっていました。
舒明天皇の死後に皇極天皇として即位し、蘇我氏の権勢が頂点に達する時代を経験しました。
その在位中に乙巳の変が起こり、初めての譲位によって孝徳天皇へ皇位を渡します。
しかし政治の中心から完全に退くことはなく、孝徳天皇と中大兄皇子の対立を経たのち、今度は斉明天皇として再び即位しました。
二度目の治世では、飛鳥の大規模な造営、祭祀空間の整備、東北・日本海方面への進出、海外から来た人々との交流など、王権の活動範囲が大きく広がっていきます。
そして最後には、百済滅亡という東アジアの危機を受け、自ら九州まで進みました。
この一連の動きを見ると、「女帝だから実権がなかった」と単純に考えることはできません。
もちろん、中大兄皇子が強い政治的影響力を持っていたのは確かです。
中大兄皇子らが大胆な改革を推し進めることができた背景には、母である皇極・斉明天皇の存在があった可能性も考える必要があります。
一方で、蘇我入鹿の殺害、有間皇子の悲劇、そして百済救援へ向かう軍事政策を見ると、この時代の王権形成が決して穏やかなものではなかったことも分かります。
中大兄皇子の行動には、現代の感覚から見ると非常に非情に感じられるものがあります。
しかし、唐という巨大帝国が東へ勢力を広げ、朝鮮半島では国が滅び、日本国内でも皇位継承争いが続いていた時代です。
その緊張の中で、古代の政治家たちは国家の生存と王権の安定を同時に考えなければなりませんでした。
皇極・斉明天皇を学ぶ面白さは、ここにあります。
豪族がそれぞれ大きな力を持っていた氏姓制度の時代から、天皇を中心とする律令国家へ。
その移行は一本の線を引くように進んだのではなく、多くの争い、妥協、失敗を繰り返しながら少しずつ進みました。
皇極天皇の息子である中大兄皇子は後の天智天皇となり、もう一人の息子・大海人皇子は後の天武天皇となります。
そして天武天皇の後を継いだ持統天皇の時代を経て、律令国家はさらに形を整えていきました。
そう考えると皇極・斉明天皇は、古い豪族政治と新しい国家制度との間に立った、文字どおり時代の橋渡しをした天皇だったと言えるでしょう。
ただし、その「橋渡し」は受け身の中継ぎではありません。
二度皇位に就き、国家的な造営を進め、国内外の人々を飛鳥に迎え、最晩年には自ら九州まで赴いた女帝でした。
個人的には、皇極・斉明天皇を理解する鍵は「二度即位した」という珍しさだけではなく、退位しても権威を失わず、必要とされたとき再び王権の中心に戻ったことにあると感じています。
年齢を重ねてから再び大きな役割を任されたという点も、現代の私たちにはどこか心に響くものがあります。
60歳を過ぎてからの再即位を「晩年」とだけ見る必要はありません。
斉明天皇にとっては、それまで積み重ねてきた経験を国家の最前線で用いる、新しい段階の始まりでもあったのです。
皇極天皇・斉明天皇の生涯は、乙巳の変や大化の改新だけを覚えて終わるには、あまりにも豊かな物語を持っています。
彼女の人生を軸に飛鳥時代をたどることで、天智天皇、天武天皇、蘇我氏、大化の改新、百済、白村江の戦いといった一見ばらばらに見える出来事が、一本の大きな流れとしてつながって見えてきます。
まとめると、皇極天皇・斉明天皇は、642年に初めて即位し、645年の乙巳の変後に史上初とされる譲位を行い、655年に史上初の重祚を果たした女帝です。
その治世は、蘇我氏中心の政治から律令国家形成へ向かう転換期と重なりました。
そして661年、百済救援のため九州へ向かった先で68年の生涯を閉じます。
二度の即位は単なる珍しい出来事ではなく、激動する7世紀の王権が彼女の経験と権威を必要としていたことを示す出来事だったと考えられるのです。
知っておきたい、日本の歴代女帝
皇極天皇(斉明天皇)以外にも、日本の歴史には8人10代の女性天皇が存在しました。
史上初の女帝である推古天皇、平城京遷都を行った元明天皇、母から娘へ皇位を受け継いだ元正天皇、皇極天皇と同じく重祚して称徳天皇となった孝謙天皇など、それぞれが重要な役割を担っています。
女帝を一人ずつ見ていくと、「女性天皇はすべて男性皇族の一時的な中継ぎだった」と単純には説明できないことも見えてきます。
皇極・斉明天皇の生涯は、そのことを考える格好の入口といえるでしょう。
よくある質問
皇極天皇と斉明天皇は同じ人物ですか?
はい、同じ人物です。
宝皇女が642年に第35代皇極天皇として即位し、645年に孝徳天皇へ譲位しました。
その後、孝徳天皇の崩御を受け、655年に第37代斉明天皇として再び即位しています。
一度退位した天皇が再度即位することを「重祚」といい、皇極天皇から斉明天皇への重祚が日本史上最初の例です。
皇極天皇は乙巳の変に関わっていたのですか?
皇極天皇が中大兄皇子らの計画を事前に知っていたかどうかは、はっきり分かっていません。
645年、皇極天皇の宮中で中大兄皇子と中臣鎌足らによって蘇我入鹿が襲撃されたことは『日本書紀』に記されています。
しかし、皇極天皇自身がどこまで計画に関与していたのかについては史料から断定できず、複数の解釈があります。
なぜ中大兄皇子ではなく斉明天皇が再び即位したのですか?
決定的な理由を記した史料は残っていません。
皇位継承をめぐる王族間の調整、中大兄皇子が皇太子の立場で政治を主導する事情、そして皇極上皇自身が持っていた高い権威など、複数の要因があったと考えられます。
単に「中大兄皇子が若かったから」と説明するだけでは十分ではなく、7世紀の複雑な皇位継承と権力構造の中で考える必要があります。


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