皇極天皇は史上初の女帝である第33代の推古天皇の後、一代おいて即位した2人目の女帝です。彼女は一旦退位した後、重祚して第37代の斉明天皇となります。
この間には、古代史で有名な乙巳の変(大化の改新)が起こっています。また、朝鮮半島には緊張状態が続き、斉明天皇没後には有名な白村江の戦いも起こっています。
このように激動の時代を乗り切った皇極天皇(斉明天皇)はどのような人か解説します。
皇極天皇(第35代の天皇で二人目の女帝)の誕生
皇極天皇は第30代敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子の更に皇子である茅淳王の第1王女として西暦594年生まれたとされています。天皇につく前は宝女王と呼ばれていました。
後に、父親の茅淳王の兄にあたる第34代舒明天皇の皇后に立てられます。自分の伯父さんにあたりますよね。舒明2年(630年)ですから、37歳にあたるそうです。
そして舒明天皇との間に、中大兄皇子(後の天智天皇)、間人皇女(後の孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(後の天武天皇)を生みます。当時からすれば本当に遅い出産ですよね。
でも天智天皇の生年は推定で626年、天武天皇の生年は推定で630年ですから、皇后になる前から舒明天皇のところに入っていたようです。
舒明天皇13年(641年)に天皇は崩御します。この時48歳ともいわれています。ずいぶん遅いですよね。なんといっても昔ですから、もう一線から退く歳だと思いますが。
ところがそういうわけにはいかなかったようです。
その時の、後継者候補がいなかったわけではありません。
1人目は舒明天皇の息子である、古人大兄皇子です。この方は母親が蘇我法提郎女と言って、蘇我馬子の娘、当時の実力者蘇我入鹿の叔母にあたります。
2人目は厩戸皇子(聖徳太子)の息子である山背大兄王。
3人目は皇極天皇の弟である軽皇子。
4人目は宝女王(皇極天皇)の息子である中大兄皇子となります。
当時は後世と違って、豪族間の話し合いで天皇が決まります、すなわち調整役としての天皇の役割があるため、あまり若い年齢は望ましくないと考えられていました。
大体35歳ぐらいと言われていたようです。
そんなことから、候補は古人大兄皇子と山背大兄皇子に絞られるのですが、なかなか定まらず、宝女王が皇極天皇として即位することになりました。皇極元年(642年)のことです。
皇極天皇の業績と出来事
皇極天皇の在位中にも様々なことが起こっております。一番の事件は乙巳の変(大化の改新)です。
雨乞い神事
皇極元年、蘇我蝦夷が雨乞いのために大乗経典を転読させるが効果がなかったが、皇極天皇が天に祈ると雷が鳴って大雨が降り、5日間続いたといわれています。
山背大兄皇子の滅亡
天皇即位に関わる騒乱を避けるために、皇極天皇は即位したのですが、これもうまくいかなかったようです。蘇我蝦夷に代わって権力を握った蘇我入鹿が山背大兄王を攻めます。
一時は、山背大兄王は逃れ再起をすすめられるのですが、これ以上の騒乱になるのは本意ではないとして、一族共々命を絶ってしまいます。
この原因としては、一旦皇極天皇になったものの、蘇我一族の系列になる古人大兄王を次に付けたいと考え、対立者を排除するためと考えられています。
それにしても、こんなことで皇族が殺害されることが頻繁に起こることは、我々の感覚とはかなり異なることがわかります。
しかも、この後も蘇我入鹿は何の咎めもなく過ごしているから驚きです。天皇についても如何に絶対的な権威でなかったかがわかります。
乙巳の変(大化の改新)
蘇我入鹿の時代も長くは続きませんでした。
皇極天皇4年(645年)6月三韓の使者との儀式が調停で行われたときに、蘇我入鹿は中臣鎌足と中大兄皇子によって殺害されてしまいます。首謀者は中臣鎌足と言われています。
最初は部下が実行犯の予定でしたが、部下が恐れおののいて役に立たないので、中大兄皇子が自ら手を下したといわれています。
倒れたときに、蘇我入鹿は皇極天皇にすがろうとしますが、皇極天皇は退いてしまいます。
でもこれだけのことをしたのですから、仕方がないでしょうね。
一時は帰化人が蘇我側に豪族、皇室が皇室側について騒乱になりそうな気配ではあったが、入鹿の父親蘇我蝦夷はこれまでと覚悟を決めて、館に火を放って自殺してしまいます。
こうして長い間権勢をふるった蘇我家は滅びてしまいます。これを昔は大化の改新と言っていましたが、大化の改新はそれ以降の政治改革を示し、最近は乙巳の変というそうです。
これによって豪族の集まりから律令制へだんだん政治が変わってくるきっかけとなります。同時に天皇の地位も豪族の調整役から一歩抜け出た形になります。
この翌日には皇極天皇は軽皇子に譲位してしまいます。これが日本初の譲位となります。軽皇子は第36代の天皇である孝徳天皇となります。
さすがに当事者に極めて近い古人大兄皇子と中大兄皇子は継ぐわけにはいかず、古人大兄皇子は出家してしまい、中大兄皇子が皇太子となります。
また、これを機会に元号を大化と定めます。これが日本初の元号となります。何しろ初めて尽くしですね。
これ以降の一連の政治改革を大化の改新と読んでいます。主な内容は、公地公民制、令制国、班田収受の法、租庸調の税制などです。なんとなく懐かしい用語ですよね。
今日は「乙巳の変」が起こった日。
皇極天皇4(645)年、中大兄皇子と中臣鎌足が組んで蘇我入鹿を滅ぼした。
同時に父の蘇我稲目の館も襲撃し、完全に政権を掌握。以後、天皇中心の国づくりを進めていくこととなる。
入鹿の首塚は、蘇我氏の邸宅があった甘樫丘と向かい合うように佇んでいる。 pic.twitter.com/St3RmZsfAu
— 山村純也|らくたび代表 (@yamamura_junya) June 12, 2021
孝徳天皇の時代の出来事
孝徳天皇の時代もいろいろなことがありました。
古人大兄皇子は乙巳の変以降吉野に出家していましたが、大化元年(650年)謀反を企てているとの密告があり、中大兄皇子によって攻め殺されてしまいます。
蘇我入鹿の反対の子をしているようで、やはり荒っぽいですね。
都を難波長柄豊碕に遷した。途中で白雉元年(650)と改元もしています。
また、孝徳天皇は中大兄皇子ともしっくりいかなかったようで、白雉4年(653年)中大兄皇子が倭京に遷ることを請うたが、天皇は許しませんでした。するとすぐ実力行使に出てしまいます。
皇太子は、皇極前天皇と皇后(間人)、皇弟を連れて倭飛鳥河辺行宮に行った。公卿大夫・百官の人らが皆随って遷った。
みんなから見放されて難波に取り残されたのですから、かわいそうですね。それにしても中大兄皇子の傍若無人なふるまいには、我々のイメージからはずいぶん違うようです。
白雉5年(654年)10月孝徳天皇は崩御してしまいます。
#旅行行きづらいから代わりに過去に行った場所を1日1個振り返る
その145:有馬温泉(兵庫)
大己貴命と少彦名命が発見し、舒明天皇・孝徳天皇の行幸で有名になり、行基により基礎が築かれる。特に豊臣秀吉からは愛された。江戸時代の温泉番付では西の最高位の西大関になったhttps://t.co/aEyVFzqC4z pic.twitter.com/avVZ2bCBrc— にんふぇあ (@ninfea85iri) June 10, 2021
皇極上皇が重祚して第37代斉明天皇が登場
孝徳天皇が崩御したとき、中大兄皇子は30歳程度、孝徳天皇の息子有間皇子は16歳と言われていますから、まだ早いのです。そこで元皇極天皇の重祚となります。史上初の重祚です。
この時斉明天皇は62歳と言われています。
この頃は、蝦夷地の平定と朝鮮半島への進出ということで、盛んに対外政策が続いていた時期でもあります。
特に朝鮮半島情勢は、百済、新羅、高句麗の時代ですので、倭国は百済に介入しますが、斉明6年(660年)に百済は滅びてしまいます。
そして、百済復興のため軍を編成して、筑紫にいる間に崩御してしまいます。斉明天皇7年(661年)のことです。68歳と言われています。
有間皇子の謀反
斉明天皇4年(658年)11月、有間皇子の謀反が伝えられ、捕まって絞首刑となってしまいます。
これも、天皇が湯治に出かけている間に、蘇我赤兄が有間皇子に近づき、斉明天皇と中大兄皇子の失政を批判し、謀反を勧めたとされています。
有間皇子にしてみれば、父親の孝徳天皇を見捨てた張本人たちですから同調したくもなります。それに同調したところ、逆に蘇我赤兄に密告されてしまうのです。
これなどは、中大兄皇子に完全にはめられたと考えるべきでしょう。
皇極天皇(斉明天皇)とはどんな人?のまとめ
推古天皇の次の史上二人目の女帝でありしかも初めて重祚した皇極天皇(斉明天皇)について解説してきました。
皇室も激動の時期を乗り越えて、今までの氏姓制度から律令制度に変わっていく時期になっています。
天皇家もこれまでの豪族の一つから抜きんでて、地位を確立する段階になってきたことがわかります。
しかし、この時に果たした中大兄皇子の役割は大きかったと思いますが、この方の人格も我々が後世から想像するのと相当隔たりがあります。
果断に敵対者を排除していく姿勢と強引なやり方には我々の価値観とは違うものがありますが、こうでもしなければ生き残れなかったのでしょう。
最後に排除されたのは、有間皇子ですが、これなどは完全にはめられたものと考えてよいでしょう。僅か19歳でしたが、残念なことです。
この皇子が処刑される直前に読まれた歌が、辞世として万葉集に残っています。
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
最初の女帝である推古天皇については
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