正親町天皇は織田信長との関係でどの様に権威と財政を立て直したか

歴史人物

正親町(おおぎまち)天皇は第106代の天皇になります。戦国時代の末期にあたり、室町幕府は事実上機能しなくなり、朝廷の権威も財政も厳しい時代でした。

この時、権力者の織田信長と羽柴秀吉とどのような関係を結び、この時代を乗り切ったかを解説します。

スポンサーリンク

正親町天皇の即位

正親町(おおぎまち)天皇は、永正14年(1517年)後奈良天皇の第一皇子として生まれます。弘治3年(1557年)後奈良天皇の崩御に伴い践祚しました。

この時40歳です。当時の常識としては、成人になるぐらいの時に践祚するのが普通なのですが、朝廷の財政が逼迫していたため、践祚することもできなかったようです。

戦国の世ですから、朝廷にもお金が集まらず、毛利元就からの献納をうけて3年後の永禄3年(1560年)に即位の礼を挙げることができました。

 

スポンサーリンク

織田信長との関係

正親町天皇が即位した頃は朝廷の財政も逼迫していました。そして戦国の世ですから、その権威も簡単には行き渡らない時代です。それでも、朝廷は一定の役割を果たしているのです。

永禄11年(1568年)織田信長が正親町天皇を保護するという名目で京都を制圧することになります。美濃の制圧が終わり、天下布武を宣言し、足利義昭を奉じて室町幕府を再興した頃です。

信長にとっても、この頃はまだ各地の戦国大名との戦いが続いていたので、朝廷を味方につけておくことは意味があることなのです。

このための財政支援を行います。いわばウインウインの関係です。

この効果は、信長の戦いの中で出てきています。

元亀元年(1570年)朝倉義景・浅井長政との講和の勅命

この頃は第一次信長包囲網が引かれていて、朝倉義景を攻略したときに、浅井氏から離反されるという事態も起こっています。

幸い信長はその後の姉川の戦いで勝利しますが、依然として浅井・朝倉とは対峙しています。その間に長島の一向一揆が起こります。

西の方では石山本願寺とも対立をしています。こんな中で天皇からの勅命により講和を結ぶことができています。

 

天正元年(1573年)足利義昭との講和の勅命

これも第二次信長包囲網と言われている状況です。東の方では武田信玄が動き出し、三方ヶ原の戦いで織田・徳川は大敗を喫します。更に西に向けて進軍します。

この動きを見た足利義昭は信長と対立します。この時に天皇の勅命により義昭と和睦を結ぶことができました。

 

天正8年(1580年)石山本願寺との講和の勅命

石山本願寺とは10年にわたり信長は対立を続けていましたが、その間にも、各地の一向一揆が続いておりました。信長はこれに対して相当に労力を費やしました。

また、本願寺側も相当の負担があったようです。そんなことから、勅命による講話は信長にとっても本願寺にとっても幸いとなったようです。

その他にもこんな便宜も図っています。

天正2年(1574年)正倉院に納められた天下第一の香木、蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りの許可。

沈香の一種で今でも正倉院に納められているといわれています。蘭奢待のそれぞれの字に正倉院が存在する東大寺の文字が隠されていることから名を付けられたようです。

これまで、足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇が切り取っている。基本的に一寸角を2個切り取り、一つは天皇に献上するようです。どんな香りがするんでしょうね。

 

天正5年(1577年)信長に右大臣を宣下。

その前の天正3年には、信長は権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼任します。この就任には源頼朝の先例に習ったものとして、天下人としてのあかしとも言われています。

これと同じくして、織田家の領地、家督を息子の信忠に譲っています。そして2年後には従二位右大臣に昇進、次の年には正二位に昇叙されています。

更には、左大臣、関白か太政大臣を与えようということになりましたが、本能寺の変であえなくご破算になっています。

織田信長に関する関連記事はこちらへ

織田信長は室町幕府将軍足利義昭とどんな関係を築いたのか
織田信長と室町幕府の将軍足利義昭との関係について解説します。戦国時代と言っても室町幕府の権威が全く否定されたわけではありません。 織田信長も最初から幕府を崩壊させようとしたわけではなく、基本は幕府を盛り立てて運営をしていこうとするので...
織田信長は武田信玄、武田勝頼にどの様に対峙したのか
織田信長が尾張、美濃を平定して、足利義昭を奉じて京に侵攻してきたころから、最大の脅威は武田信玄となります。何しろ史上最強と言われている軍団ですし、しかも、情報戦でも織田軍をしのいでいるようです。この武田軍に対して織田信長はどのように戦ってき...
織田信長と明智光秀、本能寺の変。どのように変が起こり終息したか
織田信長の最も注目される事件が本能寺の変です。この本能寺の変についての経過を説明するとともに、これについてはなぜ起こったかを検討したいと思います。 戦国時代で歴史上の最大事件ですので、様々な考察がされていますが、私は既に家督を譲られた...

スポンサーリンク

豊臣秀由との関係

豊臣秀吉も、朝廷に御料地や黄金を献上し、自らの政権に権威付けを図ります。この手法も有用に作用したようです。

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの最中に、従5位下左近衛権少将に任ぜられます。

同年従三位権大納言に任ぜられます。

天正13年には正二位内大臣に任ぜられます。朝廷内で紛糾していた関白職をめぐる争いに介入し、近衛家の猶子となり、関白宣下を受けることとなります。

天正14年には豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任します。このように、豊臣秀吉は朝廷との関係をもとに自分の政権を強固にしていきます。

また、正親町天皇も武家政権の力を利用して朝廷の権威を高めていきます。その意味では、正親町天皇は傾いた朝廷の財政と権威を武家政権との関係で引き揚げた功労者でしょう。

正親町天皇は天正14年孫の和仁親王に譲位して、隠退し、文禄2年(1593年)に崩御します。宝算77です。直前に自分の息子の誠仁親王が39歳で急死してしまいます。さぞかし残念だったことでしょう。

スポンサーリンク

正親町天皇が残した宝物

やはりこの頃の朝廷は、所蔵の品をいろいろ下しおいたり、天皇の宸翰を下げたりしていたようです。

「正親町院御百首」

正親町天皇の時代は、朝廷が大変貧乏な時間であったので、父の後奈良天皇もしていたようですが、直筆の宸翰を売却することで、費用の足しにしていたようです。正親町天皇もも正親町院御百首などの書を残しています。

「八代集巻頭歌」

「古今和歌集」、「後撰和歌集」、「拾遺和歌集」、「後拾遺和歌集」、「金葉和歌集」、「詞花和歌集」、「千載和歌集」、「新古今和歌集」までの8つの勅撰和歌集の中から一首ずつ抜き出して書いたものです。

天下三名槍の一つ日本号

もともとは皇室の持ち物でしたが、豊臣秀吉に授けられ「日本号」と名付けられました。その後、福島正則に与えられ、黒田家家臣の母里友信が勧められた大酒を飲み干して、この槍を手に入れたといわれています。

黒田節の歌で有名ですよね。今は福岡市博物館に所蔵されています。

スポンサーリンク

正親町天皇は織田信長との関係でどの様に権威と財政を立て直したか

第106代の天皇、正親町天皇の業績を解説しました。朝廷の権威と財政が非常に苦しい時期に、その時の権力者、織田信長、羽柴秀吉と上手に付き合うことによって、朝廷の権威と財政の回復に大きく寄与した天皇であったと思います。

また、彼らもそれによって、ずいぶん自分たちの、戦略がうまく回ったことでしょう。多くの天皇がいる中で、こんな苦労と気遣いをされた方もいたことに、大変感銘を受けました。

歴史人物一覧へ

コメント

タイトルとURLをコピーしました