戦国時代の最終覇者、徳川家康の幼少時代から駿府での人質時代、転機となる桶狭間の戦いまでを解説いたします。徳川家康は幼少時に両親から離れ、人質時代に苦労したといわれています。この間に彼の忍耐強い性格が形成されたといわれていますが、実際はどうだったのでしょうか。
松平竹千代(徳川家康)の誕生
松平竹千代(徳川家康)は三河国の土豪、松平氏の第8代目松平弘忠の嫡男として天文11年(1543年)に岡崎城で生まれます。母は水野忠政の娘・於大です。幼名は竹千代です。この名前は有名ですよね。
3歳の頃、水野家当主が織田氏と同盟を結んだため、父親の松平弘忠は駿河の今川氏に庇護されている身分ですから、母親の於大は松平弘忠から離縁されます。若くして母親から離されてしまいます。
天文16年(1547年)竹千代は今川氏の人質として駿府に送られることになるのですが、途中で田原上に立ち寄った時に、戸田康光の裏切りにあって、なんと敵対している尾張の織田信秀のもとに送られてしまいます。
そして尾張国に2年間留めおかれます。時代劇ではこの時、織田信秀の息子である織田信長と知り合ったことになっています。可能性はあるでしょうが確たる証拠は出ておりません。
まだ、10歳にも満たないころから、人のうちに預けられて、そういう意味ではかわいそうな幼少期ですね。世間並みの父親、母親の感覚はなかったのでしょう。
神君出生の地、岡崎城へ来ています
自宅から車で10分ちょい()登城は何年ぶりでしょうか…といった感じですね~ pic.twitter.com/GuE5Pi5OsP
— AZI (@lexus_keine) June 28, 2021
今川義元の下で竹千代は元服から初陣へ
2年ほどして父親の松平弘忠が病死します。駿府の今川義元は織田信秀との人質交換で、竹千代を駿府に連れ戻します。
天文24年(1555年)今川義元の下で元服し、松平次郎三郎元信となります。今川義元の姪の瀬名(築山殿)と結婚することになります。
こうしてみると人質といっても、将来は今川勢力の下で三河国を統治する者としてそれなりに遇されているのではないでしょうか。今川義元もも将来の重要な家臣として考えていたのではないかと思います。
我々が考える人質とは違って、教育も受けますので養育機関として考えるのが近いのかと思います。
永禄元年(1558年)今川義元の下で、三河国の土豪で織田側についたものを攻めているのが初陣になります。
時に15歳、立派に成長しており、永禄2年(1559年)には、従来の三河の家臣とも接触を持つようになります。これも今川義元公認ですから、今川陣営からすれば、順調に育ってきているということでしょう。
駿府城公園。はじめてきた。 pic.twitter.com/4qMJLgwvK5
— どく (@DokU_MaToSu) June 27, 2021
松平元康の人生の転機、桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いです。
今川義元の前線基地である大高城(愛知県名古屋市緑区)の周りに、織田側は4つの砦を作って取り囲む形で圧迫します。
今川義元は駿府から2万とも3万ともいわれる大軍を率いて織田側の圧力を排除し、あわよくば織田側に大打撃を与えようとに迫っていきます。途中で、大高城の手前の沓掛城にとどまります。
松平元康は今川軍の先鋒をつとめており、包囲された大高城に兵糧を届ける役割を受けていた。織田軍の丸根、鷲津砦を突破して無事に大高城に兵糧を届けた後、これらの砦に攻撃をかけて砦を落とします。
ここまでは良かったのですが、沓掛城から大高城に進軍してきた今川義元の本体が、桶狭間で休憩中に、大雨に会って視界が効かないところを、突然織田信長の本体と遭遇してしまいます。
混乱の中、今川義元が討ち取られ一気に形勢は逆転してしまいます。松平元康は大高城におりましたが、全軍撤退ということになります。
とりあえず菩提寺の大樹寺に逃げ込みます。しかし追手に取り囲まれ、先祖の墓の前で自害しようとしますが、住職に諭されて奮起することになります。
この時の言葉が、「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)穢れた世から離れて、浄土を目指すということで、平和な世を気づくことを求めたといわれています。これ以来、この言葉が家康の旗印になっています。
この後ようやく岡崎城に入って一命をとりとめたともいわれています。
織田信長から見た桶狭間の戦いはこちらへ
岡崎 大樹寺
🅿参拝者用駐車場あり。
9時〜午後4時まで
拝観。
家康公と、家康以前の松平氏のお墓のある
菩提寺いたる所に葵の御紋が。
戦国無双とのコラボあるので
徳川家康(戦国無双5の)御城印ほしい人は行ってください。 pic.twitter.com/xPOf1wlQVI— 沢彦 『歴史』 (@higasio1275) June 26, 2021
織田信長との同盟への道(清州同盟)
今川義元の突然の敗退は、大きな混乱を呼び起こします。それまで東海道の駿府、遠江、三河を治める大大名が突然亡くなるわけですから。
同じ頃、関東の方では、上杉謙信の進出があり、今川と同盟関係にある武田、北条との争いが起こります。
今川義元の後を継いだ今川氏真はこの対応に追われ、三河方面への援軍を割くことができなくなります。
松平元康はしばらの間、織田軍からの侵攻に抵抗を続けていますが、援軍を送らない今川氏真に見切りをつけるようになります。以前、織田側についたため生き別れになった母方の実家を頼りに織田側と交渉にあたります。
氏真にしてみれば、幼少より松平元康については、やがて三河国を治める有力な家臣となるよう、元服もさせ、嫁もとらせて、様々な援助を与えてきたわけですから、まさか、今川を見限るとは思わなかったことでしょう。
そして、翌年の永禄4年(1561年)織田側と同盟を結び(清州同盟)、今川と断交することとなります。その後今川義元からもらった「元」の字を返上して、家康と改名します。
その後、5年間は西側の脅威がなくなり、三河国の平定に全力を注ぐことになります。松平家康20代の前半です。
徳川家康の生まれと岡崎、静岡時代はどんな人だった?
徳川家康の幼少時代の顛末、どうして人質生活を送らなければならなかったのか。また、その後の駿府での生活について解説していきました。
こういう意味では、人質と言っても、預かった方は、その人質が立派な青年となって、自分の有力な味方として活躍するよう教育しなければならないことがわかります。
後世の我々が考える人質のように殺さないように牢屋に押し込めていくのとはわけが違います。
そんなことから、松平信康は17歳までは今川義元の目論見通り育ってきたことがわかります。松平元康がどのように考えていたかは別ですが。
でも、三河一国も十分に治めていない状況ですから、もし桶狭間の戦いがなければ、今川軍団の有力メンバーで活躍しなければならなかったでしょう。
そんなことから、桶狭間の戦いは松平元康にとって重要な転機になります。後で同盟を結んだことで西側の脅威はなくなり、東側の遠江も今川方の混乱のため、三河の方に手が出ない状況です。
仮に、織田側につかなければ駿府の今川本家とともに、遠江の鎮圧に駆り出されるし、西側からは織田信長に対峙しなければならなくなり。消耗は避けられないでしょう。
この機会を生かして、5年間に三河国の平定ができたことが出発点になるのではないでしょうか。
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