神功皇后は現在の歴代天皇には数えられず、三韓征伐も伝承をそのまま史実とは断定できません。
ただし、『古事記』『日本書紀』に残る熊襲征討、新羅への渡海、忍熊王との争いには、古代の九州支配や朝鮮半島との交流を考える手掛かりが含まれています。「神功皇后は女帝だったのか」「三韓征伐は本当にあったのか」を、伝承と確認できる史実を分けながら見ていきましょう。
神功皇后は女帝だったのか?成り立ちと歴代天皇での位置づけ
結論からいえば、現在の皇統譜では神功皇后は歴代天皇には数えられていません。宮内庁が公表する天皇系図では、第14代が仲哀天皇、第15代が応神天皇となっています。宮内庁
一方で、神功皇后が古くから天皇に近い存在として扱われてきたことも事実です。ここが「神功皇后は女帝だったのか」という疑問を難しくしています。
神功皇后は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)と呼ばれています。
『日本書紀』では父を気長宿禰王、母を葛城高顙媛とし、『古事記』では開化天皇につながる息長氏の系譜に置かれています。父方をたどると第9代開化天皇につながる人物として描かれました。コトバンク+1
仲哀天皇2年に皇后となったと伝えられています。従来の記事では、この年を360年として紹介してきました。
ただし、ここは古代史を読むうえで大切な注意点があります。『日本書紀』の仲哀天皇・神功皇后の記事に記された紀年を、現代の西暦にそのまま一対一で置き換えられるとは限りません。
『日本書紀』そのものの伝統的な紀年と、後世に歴史的事件との整合性から修正された年代とでは、大きな差が生じる場合があります。
そのため、この記事では「仲哀天皇2年」「神功皇后摂政元年」などの紀年をまず史料上の表記として読み、西暦については確定年代と考えないという立場で進めます。
神功皇后は仲哀天皇の死後、誉田別尊(ほむたわけのみこと、後の応神天皇)が即位するまで長期間にわたり政治を担ったとされています。
『日本書紀』では69年間に及ぶ摂政の記事が置かれ、100歳で崩御したと記されています。ここだけを見ると、確かに一人の君主として扱われているように感じられます。
では、かつて本当に「第15代天皇」と数えられていたのでしょうか。
この点は少し丁寧に見なければなりません。
時期・資料 神功皇后の扱い
古代・中世の一部史料 天皇に近い位置づけや「神功天皇」とする例がある
明治42年『尋常小学日本歴史』 御歴代表の15番目の枠に「神功皇后 摂政」
大正9年『尋常小学国史』 神功皇后は歴代表から外れ、応神天皇が第15代
現在の皇統譜 第14代仲哀天皇、第15代応神天皇
国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、明治期の教科書では神功皇后が15番目の枠に置かれながら「摂政」と記され、大正9年の教科書では応神天皇が第15代になったことが確認できます。レファレンス協同データベース
したがって、以前の記事で述べた「戦前には第15代の女帝として位置づけられていた」という表現は、そのままでは少し大きなくくりでした。
より正確には、歴史上、神功皇后を天皇に準じて扱った時期や史料はあるものの、戦前を通じて一貫して第15代天皇だったわけではない、となります。
この違いを押さえておくと、神功皇后という人物が「完全な女帝」か「単なる皇后」かという二者択一では説明しきれない存在だったことが見えてきます。
仲哀天皇と神功皇后の熊襲征伐は何を伝えているのか?
神功皇后の物語が大きく動き始めるのが、仲哀天皇とともに向かった九州での熊襲征討です。
伝承では、仲哀天皇2年に九州の熊襲が朝廷に従わないとの知らせが入り、仲哀天皇が自ら西へ向かったとされます。その後、仲哀天皇8年、従来の記事で366年としてきたころ、筑紫で重要な神託が行われます。
神功皇后に神がかりが起こり、西方に豊かな国があり、海を渡ってそこへ向かうべきだという趣旨の神託が告げられたと伝えられました。
後世、この国は新羅と理解されます。
ところが仲哀天皇は神託を信用せず、まず熊襲を攻めようとします。しかし思うような成果を得られず、その後に崩御したと記されます。
『古事記』では、皇后に神がかりした神が西方の国について告げたものの、仲哀天皇が信じなかったため、神意に背いたことが天皇の死につながったという形で物語が展開します。
その後、神功皇后は改めて神託を求めます。
『日本書紀』には、天照大神につながる神、事代主神、さらに表筒男・中筒男・底筒男という住吉三神などが登場します。國學院大學が公開している史料でも、仲哀天皇9年の神託の記事と住吉三神の名を確認できます。國學院大學デジタルミュージアム
神功皇后はこの神意に従いながら、すぐに海を渡ったわけではありません。
まず九州で抵抗する勢力への対応を進めます。
『日本書紀』には、吉備臣の祖とされる鴨別を熊襲へ派遣すると、ほどなく服属したとあります。
さらに、荷持田村を本拠とする羽白熊鷲(はしろくまわし)を討ちます。
その後、山門県へ進み、土蜘蛛と記された田油津媛(たぶらつひめ)を討ったとされています。田油津媛の兄・夏羽は軍を起こしたものの、妹が討たれたことを知って逃れたという筋書きです。ウィキソース
以前の記事では、これを「土蜘蛛の巫女女王を討ち取り、九州北部を平定した」と紹介しました。
ただし、「土蜘蛛」は今日でいう民族名や正式な集団名とは限りません。記紀や風土記では、大和王権に従わない地方勢力を表す呼称として使われる場合があります。
したがって、この部分から直ちに「九州全域が一度の戦いで完全に平定された」とまでは言えません。
それでも私は、熊襲や北部九州の有力者との対立を描く物語の背後には、ヤマト王権が西日本へ影響力を広げていった過程の記憶が何らかの形で残されている可能性があると考えています。
神話的な表現と政治的な記憶が重なっているところに、この物語のおもしろさがあります。
神功皇后の三韓征伐は本当にあったのか?
神功皇后で最もよく知られているのが、いわゆる三韓征伐です。
しかし、ここは「『日本書紀』にそう書かれていること」と、「その出来事が記述どおり史実だったこと」を分けて考える必要があります。
松浦でアユを釣った渡海前の占い
神功皇后は肥前の松浦へ進み、海を渡る遠征が成功するかどうかを占ったとされています。
従来の記事では「何もつけない釣り針を使い、魚が掛かれば成功」と紹介してきました。
『日本書紀』本文を細かく見ると、曲げた針を釣り針にし、飯粒を餌として、裳の糸を釣り糸にして川へ投げたと記されています。
そして魚が掛かれば西方への行動が成就すると祈り、実際に細鱗魚、すなわちアユを釣り上げました。Seisaku
何げない釣りの伝承ですが、私はここに古代人の世界観がよく表れているように感じます。
大きな政治判断や軍事行動に入る前に、神意を占う。現在の感覚では不思議に映りますが、当時の物語世界では、政治と祭祀は切り離せないものでした。
男装と月延石・鎮懐石の伝承
渡海を前にした神功皇后は、髪を分けて男性のような髪形にし、雄々しい姿で軍を率いたと伝えられています。
しかも、このとき皇后は誉田別尊を身ごもっていたとされます。
そこで出産を遅らせるため、月延石あるいは鎮懐石と呼ばれる石を身体に当て、さらしなどで腹部に巻いたという伝承が生まれました。
地域によっては、石を身体に添えた方法について異なる伝承も残されています。
そして帰国後に筑紫で誉田別尊を出産します。後の第15代応神天皇です。
福岡県の宇美八幡宮にも、神功皇后が帰還後に応神天皇を出産し、「産み」が地名「宇美」につながったという伝承があります。國學院大學の神社データベースでも、この由緒が紹介されています。古事記学サイト
新羅・百済・高句麗を服属させたという伝承
『日本書紀』の物語では、神功皇后は海を渡って新羅へ向かいます。
新羅は大軍を見て戦わずに降伏し、以後朝貢することを約束したとされます。さらに百済と高句麗も服属したと描かれました。
これが後世「三韓征伐」と呼ばれる物語です。
しかし、新羅・百済・高句麗の三国が神功皇后の一度の遠征によってそろって日本へ服属したと、そのまま裏付ける同時代史料は確認されていません。
神功皇后について『国史大辞典』などを調べた国立国会図書館のレファレンス事例でも、新羅征討説話には史実とみなしにくい部分が多く、神功皇后自身の実在を疑う説があることが紹介されています。レファレンス協同データベース
ですから、「三韓征伐は史実だった」と一言で断定するのは慎重であるべきでしょう。
一方で、「それなら朝鮮半島との戦いや交流は全部作り話なのか」というと、それもまた違います。
七支刀は4世紀の百済と倭の関係を示している
ここで非常に重要なのが、奈良県天理市の石上神宮に伝わる国宝七支刀です。
七支刀は全長74.9センチで、刀身の左右に3本ずつ枝状の刃があり、表裏合わせて61文字の金象嵌銘が刻まれています。
奈良国立博物館では4世紀、369年の資料として紹介しています。イメージデータベース
『日本書紀』の神功皇后52年条には、百済から七枝刀と七子鏡などがもたらされたという記事があります。
『日本書紀』の神功皇后52年を文字どおりの西暦にすると年代が合いませんが、紀年を120年ずらして考えると372年となり、七支刀の369年という年代に近づきます。奈良国立博物館の解説でも、この点が紹介されています。奈良博物館
これはとても大切な点です。
神功皇后の長大な物語全部がそのまま史実でなくても、その物語の中に4世紀後半の倭と百済の外交関係を思わせる記憶が入り込んでいる可能性はあります。
広開土王碑には倭と朝鮮半島の戦闘が記されている
さらに、中国吉林省集安に残る高句麗の広開土王碑も見逃せません。
414年に建立されたこの碑には、4世紀末から5世紀初めにかけ、倭と高句麗などが関係する軍事記事が刻まれています。
碑文の読み方や政治的関係については研究上の議論がありますが、少なくとも倭が当時の朝鮮半島情勢と無関係だったとは言いにくいことを示す重要史料です。コトバンク
以前の記事では「実際に戦争となった痕跡もなさそう」と書きました。
しかし、七支刀や広開土王碑まで含めて考えるなら、この言い方は修正したほうが正確でしょう。
神功皇后による一度の「三韓征伐」を直接証明する証拠はない一方、4世紀後半から5世紀初めに倭と朝鮮半島諸国の外交・軍事的な関係があったこと自体には史料上の手掛かりがあります。
私は現在、このように理解するのが最も無理のない読み方だと考えています。
「全部本当」か「全部創作」かではなく、後世に整えられた大きな英雄物語の中に、異なる時期の外交や軍事の記憶が重ねられたのではないか、と見るわけです。
SNSなどで神功皇后を調べると、甲冑姿や武装した勇ましい姿で描かれた画像が多いことに驚く人もいます。
実際、2021年6月には「さらに時代をさかのぼると武装姿で描かれる神功皇后という格好のよい人物がいる」といった趣旨の投稿も見られました。
現代まで「戦う皇后」という印象が強く残っていることそのものが、この三韓征伐説話の影響力の大きさを物語っています。
忍熊王との闘いと国内平定は皇位継承争いだったのか?
三韓征伐の物語は、海を渡って終わりではありません。
帰国後には、誉田別尊の皇位継承をめぐる国内の争いが待っていたとされます。
神功元年、従来の記事で368年としてきた年、神功皇后は九州で仲哀天皇の殯を行い、畿内へ向かいます。
ところが仲哀天皇の先妻の子とされる麛坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)は、皇后が新たに産んだ誉田別尊が後継者になることを警戒しました。
『日本書紀』では、二人は播磨方面で皇后を迎え撃つ準備を進めます。
そこで二人は戦いの吉凶を占うため、狩りを行いました。
「計画が成功するなら良い獲物が得られる」という趣旨の占いでしたが、突然現れた赤い猪が麛坂王を襲い、麛坂王は命を落としたとされています。
忍熊王はこれを不吉な出来事と受け止め、いったん住吉方面へ退きました。
一方、神功皇后側は誉田別尊を武内宿禰に預け、紀伊方面へ移動させます。
『日本書紀』では皇后の船が難波へ向かおうとした際に進めなくなり、神意を占った結果、広田・生田・長田・住吉などに神々を祭ったとする伝承も続きます。
國學院大學が公開する『日本書紀』神功皇后摂政元年の記事にも、麛坂王・忍熊王が皇后と新生児の存在を知り、兵を集めた経緯が残っています。國學院大學デジタルミュージアム
その後、皇后側は忍熊王との戦いへ進みます。
明石海峡周辺から武庫の水門を経て進軍し、山城方面で両軍が対峙したとされます。
ここで皇后方は一計を案じます。
武器を捨てたように見せ、和平するふりをして忍熊王側を油断させ、その後に攻撃へ転じたという物語です。
忍熊王は敗れて近江方面へ逃れ、最終的には瀬田川付近で入水して亡くなったと伝えられています。
國學院大學の地名解説でも、逢坂は神功皇后側に追われた忍熊王軍が敗走した場所として『日本書紀』に登場することが確認できます。古事記学サイト
翌年、仲哀天皇を河内国の長野陵に葬り、その翌年に誉田別尊を皇太子としたとされています。
現在、宮内庁は仲哀天皇の陵を「惠我長野西陵」とし、大阪府藤井寺市に治定しています。宮内庁
私は、この忍熊王との争いについては、三韓征伐とは少し違った目で見る必要があると思っています。
神話的な猪の登場や神託は別として、王位をめぐって複数の王族勢力が争うという構図そのものは、古代国家の形成期に十分あり得る話だからです。
「先妻の子」と「新たに生まれた皇子」をめぐる後継問題は、政治権力の核心そのものです。
もちろん、この戦いを記述どおりの史実と証明する材料はありません。
それでも、私は王位継承をめぐる複数勢力の緊張関係が、後世に忍熊王反乱の物語として整理された可能性には注目してよいと考えます。
和歌山市の射矢止神社にも、神功皇后に結び付く伝承があります。
社伝では、三韓征伐から帰還した神功皇后が雄湊へ寄港した際、日の神の命によって一言主命が矢を放ち、その矢が落ちた場所に皇后が関わって「射矢止八幡宮」を創祀したと伝えられています。
2021年には実際に同社を訪ね、その神功皇后伝承を紹介する投稿もありました。
こうした神社伝承をそのまま歴史的事実の証拠にすることはできません。
しかし、神功皇后という人物の物語が九州だけでなく、瀬戸内海、紀伊、摂津、近江へと広い地域に結び付けられてきたことは分かります。
神功皇太后の新羅再征伐と69年間の摂政
神功皇后の物語は、最初の新羅遠征と国内平定で終わりません。
『日本書紀』では、その後も新羅・百済との外交関係や軍事行動の記事が神功皇后紀に置かれています。
神功47年、新羅と百済から使者が来た際、百済側の貢ぎ物がみすぼらしかったため理由を尋ねると、百済側は「新羅に貢ぎ物を奪われた」という趣旨の訴えをしたとされます。
そして神功49年には、新羅への軍事行動が記されています。
さらに神功62年にも、新羅が朝貢しなかったことを理由とする再度の軍事記事があります。
神功69年、神功皇太后は崩御したとされ、『日本書紀』では100歳だったと記されます。
数字だけを見ると、非常に長い人生です。
仲哀天皇の死、新羅への渡海、応神天皇出産、国内の王位継承争い、長期にわたる政治、さらに朝鮮半島との外交までを一人で担ったことになります。
この長さも、神功皇后の記録を読む際に注意すべき点でしょう。
一人の人物の生涯をそのまま記録したというより、複数世代にまたがる出来事や外交関係が神功皇后という象徴的な人物の時代へ集約された可能性を考える余地があります。
この見方をすると、なぜ神功皇后紀に朝鮮半島との記事がこれほど集中しているのかも少し理解しやすくなります。
応神天皇についても、神功皇后伝承と切り離せません。
2021年に世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」を訪ねた人の投稿では、応神天皇の陵として知られる惠我藻伏崗陵を紹介し、第15代天皇、仲哀天皇と神功皇后の皇子、八幡信仰の祭神として紹介していました。
現在の公式な天皇系図でも、第14代仲哀天皇の次は第15代応神天皇です。宮内庁
つまり神功皇后は、公式な代数では仲哀天皇と応神天皇の間に「第15代」として入らないにもかかわらず、その二人をつなぐ物語の中心人物として極めて大きな存在感を持っているのです。
これこそが神功皇后の位置づけを分かりにくくすると同時に、歴史好きには非常に興味深く感じられるところでしょう。
神功皇后は女帝だったか。三韓征伐と国内平定の実在をどう考える?
ここまで、戦前の一部史料でも大きな位置を占めた神功皇后の業績と伝承を見てきました。
改めて結論を整理すると、現在の歴史学では、神功皇后の伝承をすべて一人の実在人物の事績としてそのまま受け入れることは難しいと考えたほうがよいでしょう。
一方、「実在しない可能性があるなら全部読む意味がない」と考える必要もありません。
むしろ、そこからが古代史の面白いところだと私は感じています。
熊襲征討については、記紀の記事をそのまま事実とは断定できませんが、ヤマト王権が九州方面の勢力と関係を深めていった歴史的背景を考えれば、一定の政治的記憶が反映された可能性はあります。
以前の私は、この部分について「かなり信憑性が高いのではないか」と考えていました。
今はもう少し慎重に、具体的な戦闘の細部は伝承として扱いつつ、九州をめぐる勢力関係という大きな背景には注目するのがよいと思っています。
問題となる三韓征伐も同じです。
「神功皇后が海を渡り、新羅を戦わず降伏させ、百済と高句麗まで一度に朝貢させた」という筋書きは、あまりにも整然としています。
これをそのまま一回の軍事遠征の記録と考えるのは難しいでしょう。
以前は私は、「実際には戦争というより朝鮮半島との国交成立を表したものではないか」と考えていました。
この見方には今も一理あると思いますが、七支刀や広開土王碑を踏まえると、「戦争の痕跡がない」とまで言うこともできません。
より正確には、4世紀後半の倭と朝鮮半島諸国の間に外交・軍事双方の関係が存在したことはうかがえるが、それを神功皇后の三韓征伐という一つの出来事に直結させることはできないとなります。
ここは大切な違いです。
伝説の中に歴史が含まれている可能性はありますが、伝説そのものを歴史年表へそのまま移すわけにはいきません。
国内平定についても同様です。
仲哀天皇の別の皇子たちと、新たに生まれた誉田別尊との間に後継問題があったという構図は、政治的には理解しやすいものです。
当時は現在のように制度化された皇位継承の仕組みが完成していたわけではありません。
有力豪族との結び付き、血統、軍事力、政治的支持などが複雑に絡み合って王権が形成された時代です。
話し合いや政治交渉が行われる一方、それで収まらなければ武力が使われることもあったでしょう。
そのような古代の権力形成の記憶が、麛坂王と忍熊王の反乱という物語に姿を変えて残った可能性は考えられます。
そして、神功皇后の逸話の中で私が特に興味深く感じるのが、出産を遅らせるために使ったとされる月延石や鎮懐石です。
戦争や政治の話だけなら、後世の支配者が作った英雄物語として整理できるかもしれません。
ところが神功皇后には、妊娠、出産、釣り、土地の名前、神社の創建など、人々の日常生活に結び付く細かな伝承が数多く残りました。
月延石・鎮懐石についても、腹部に巻いた、身体に添えたなど複数の伝承があります。
長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮などにも、神功皇后や出産にまつわる石の伝承が伝えられているとされます。
こうした石は、やがて安産祈願とも結び付いていきました。
私はここに、歴史上の人物が「地域の記憶」に変わっていく過程を見るような気がします。
一人の皇后の伝承が、九州から瀬戸内、近畿まで移動経路に沿って神社や地名と結び付き、それぞれの土地で少しずつ異なる物語となって残っていく。
これは、神功皇后が実在したかどうかという問いとは別に、非常に重要な文化史だと思います。
神功皇后を学ぶときは、「本当にいた・いなかった」だけで判断せず、どの部分が古代史料にあり、どの部分が後世の伝承で、さらにどの背景なら考古資料や外国史料と接点があるのかを一つずつ分けることが大切です。
年齢を重ねて歴史を学び直していると、若いころには「答えが一つでない」ことを面倒に感じた問題ほど、かえって面白く感じられることがあります。
神功皇后も、まさにその一人です。
現在の歴代天皇ではありません。しかし、ただの脇役でもありません。
三韓征伐を記述どおりの史実とは言えません。しかし、当時の倭と朝鮮半島の交流や軍事関係まで架空だったわけでもありません。
神功皇后とは、神話・王権・対外交流・女性統治者の記憶が幾重にも重なった存在と見るのが、現在の私には最もしっくりきます。
史実と伝承の境界を急いで一本の線で区切らず、複数の史料を見比べながら考える。そのゆっくりした読み方こそ、古代史を学ぶ楽しさではないでしょうか。
よくある質問
神功皇后は第15代天皇だったのですか?
現在の皇統譜では違います。第14代が仲哀天皇、第15代が応神天皇で、神功皇后は歴代天皇の代数には含まれていません。宮内庁
ただし、古い史料には天皇に近い扱いをするものがあり、明治期の教科書でも15番目の枠に「神功皇后 摂政」と掲載された例があります。そのため「かつて第15代女帝だった」という説明が広まったと考えられます。レファレンス協同データベース
神功皇后の三韓征伐は史実ですか?
『古事記』『日本書紀』に伝承はありますが、記述どおり神功皇后が新羅・百済・高句麗を一度の遠征で服属させたことを直接証明する史料はありません。
一方、七支刀や広開土王碑などから、4世紀後半ごろの倭と朝鮮半島諸国に外交・軍事関係があったことを考える材料はあります。コトバンク+1
神功皇后は実在した人物ですか?
実在を確実に証明できる同時代史料はなく、研究上も実在を疑う見方があります。
ただし、神功皇后紀には百済との交流など、年代を修正すると4世紀後半の出来事と結び付く記事も含まれています。ですから、完全な創作か一人の実在人物の記録かという二択ではなく、複数の歴史的記憶が一人の人物像へまとめられた可能性も含めて考えるのが慎重でしょう。コトバンク+1
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