三島由紀夫事件の概要とその理由は

歴史人物

1970年(昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫は陸上自衛隊市谷駐屯地において東部方面総監の益田陸将を人質に取ります。

市谷駐屯地の自衛官を集めさせ自衛隊に決起を促す演説をしたのち割腹自決を図ります。この事件は内外に大きな衝撃を与え三島事件として語られています。

この概要と三島が自決に及んだ理由を説明します。

スポンサーリンク

三島由紀夫事件の概要

1970年(昭和45年)11月25日の11時ごろ三島由紀夫は盾の会メンバー4名とともに東京都新宿区市谷にある陸上自衛隊市谷駐屯地に東部方面総監益田陸将に面会を求めます。

かねてから、三島由紀夫と盾の会は陸上自衛隊とは親しい関係にあるため、一行は総監室に通されます。

三島と盾の会メンバーは益田東部方面総監を拘束

益田総監と会談後に総監を拘束してしまいます。総監は最初は冗談だと思っていたようですが、事態は深刻になります。一行は総監室の出入り口をバリケードで塞いでしまいます。

やがて、事態に気がついた自衛隊幹部が総監室に押しかけ、小競り合いになり何人かは傷害を負うことになります。一行が武装していることもあり、総監も人質に取られているため、一旦自衛隊は後退します。

この間に三島の要求書が提示されます。内容はこのようなものです。

  • 市谷駐屯地の自衛官を本管前に集合すせること
  • 演説を成長すること
  • 市ヶ谷会館にいる盾の会会員を参列させること
  • 2時間程度の間妨害活動はしないこと

その他にも若干の取り決めが書いてありましたが省略します。

三島由紀夫は自衛隊員に演説

12時ごろには放送を聞いた自衛官が本館前に集まります。およそ1000人と言われています。バルコニーの上から盾の会メンバーの森田と小川が「檄」文を撒布します。

事件発生の知らせを受けた機動隊、警察関係、報道関係も集まってきます。

そして三島の演説が始まります。日本を守るための建軍の本義に立ち返って、憲法改正の決起を促す内容でした。

演説は10分ほどで終了します。聞き取った隊員もいましたが、怒号とヤジで聞き取れなかった隊員が多かったようです。報道関係のヘリコプターの騒音も相当だったことでしょう。

どうも誤算だったのは、精鋭部隊の第32普通科連隊900名が演習でいなかったことでしょう、いわゆる第一線に立つ部隊には伝わらなかったようです。

三島由紀夫と盾の会森田必勝の責任の取り方

バルコニーから総監室に戻った三島は、総監室の赤じゅうたんの上で、正座して、短刀で割腹自殺します。それを盾の会メンバーの森田必勝が介錯します。

三太刀しますが、うまくいかないため、古賀に代わって古式に則った介錯をします。

続いて、森田が三島の隣で自決します。これも古賀が一刀の下に介錯します。

こうして事件は終息を迎えます。メンバーは総監を開放して、警察に引き渡されます。

現場の押収品の中に辞世の句が残されていました。

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

— 三島由紀夫

今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは

— 森田必勝

歴史人物一覧の戦後昭和はここをクリック

スポンサーリンク

三島由紀夫が伝えたかった理由

この行動の趣旨は当時撒布された「檄」に記載されています。この内容を解説していきます。

彼の理想としての自衛隊を描いていたのですが、どうしても自衛隊が違憲であることは明白であり、これを解釈でごまかしていることが、日本人の魂の腐敗、道義の退廃の原因となっている。

これでは、警察の大きくなったものにすぎないと考えてしまう。

彼としては日本国の歴史、文化、伝統を守るための、日本の軍隊の建設の根本をわすれて、1969年10月21日の国際反戦デーの治安活動を安易に機動隊で行ってしまい、警察力だけで政体維持ができることに自信をつけて、すべてを頬かむりしてしまったことを嘆いています。

言い得て妙なのは、国体を守るべき自衛隊が、自らを否定する憲法を守るための軍隊になっているという矛盾を糾弾しているのです。

政治家の腐敗、欺瞞だけではなくそれに対して甘んじている自衛隊自身にも問題があるのではないか。

財政上のコントロールだけではなく人事権まで奪われ、政治に操られる状況を嘆いているのです。

かっては、ワシントン条約で軍艦保有について国内で大議論を呈したにも関わらす、軍事上の大問題である核拡散防止条約に対して物申す自衛官が一人も出なかったことを嘆いているのです。

これでは左派の言う通り永遠にアメリカの傭兵になってしまうと警告しています。最後にこのように結んでいるのです。

生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。

— 三島由紀夫「檄」

いま改めて、このことを考えてみると、本当にそのようになっていることがわかってきます。当時は、政界の評論では、常軌を逸した行動と非難されていましたが、それは行動のことであって精神についてはごくまともだったことがわかりました。

スポンサーリンク

三島由紀夫事件の概要とその理由のまとめ

1970年の三島事件発生の時私は高校生でした、学校の授業中に誰かがこの事件を報じたのを覚えています。

当時の私は世情に疎かったものですから三島由紀夫と言っても作家としか認識していませんし、ましてや盾の会などというのもわかりませんでした。

しかし、こうしてこの事件を見ていくと、自衛隊の置かれている危うさがわかるような気がします。

この事件で監禁された益田兼利陸将は旧日本陸軍で陸軍大学校を首席で卒業した人です。昔の天保銭組ですから将来も嘱望されたようでしょう。まだ、戦争時代も近かったのですね。

自衛隊でも嘱望されており、陸上幕僚長の本命とされていましたが、この事件の責任を取って直後の辞職しております。

この時の防衛庁長官が中曽根康弘で「自分には将来があるけれど、君は位を極めたから辞職しろ」と言ったとかされています。こんなところが三島が危惧した政治の道具になっているあらわれなのでしょう。

また、盾の会のメンバーも裁判の結果、懲役4年の実刑判決を受けています。それにしても、感覚的には重いような感じがします。この事件の幕引きを早めたいという意図もあったのかもしれません。

歴史人物一覧の戦後昭和はここをクリック

コメント

タイトルとURLをコピーしました