渋沢栄一が会談したウィリアム・タフト大統領はどんな人

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1909年(明治42年)渋沢栄一は経済使節団を連れてアメリカを訪問します。その時会談したのが第27代大統領のウィリアム・タフトでした。彼はその4年前にも陸軍長官として来日して、当時の桂首相との間で重要な会談を行うほか、渋沢とも会談していたようです。

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ウィリアム・タフトの生い立ちは

ウィリアム・タフトオハイオ州シンシナティの名家に1857年に生まれます。父親のアルフォンソ・タフトは著名な弁護士でもあり、グラント大統領の下で陸軍長官を務めるなど地元の名士といったところでしょう。

イエール大学に進学し、1878年2番で卒業しています。その後、シンシナティ・ロー・スクールに入学し1880年に卒業しています。

ウィリアム・タクトは法曹界で働くことに

オハイオ州のハミルトン郡の検察官、内国歳入局の長州間、オハイオ州高等裁判所判事、と順調に法曹界のポストを歩んでいきます。

1890年にはベンジャミン・ハリソン大統領から訟務長官に任命されます。1892年第6連邦巡回区控訴裁判所判事1896年からはシンシナティ大学法学部教授、学部長となります。

本格的に中央政界で活躍を始め、陸軍長官、大統領まで上り詰めます

1900年ウィリアム・マッキンリー大統領からフィリピンの文民政府組織委員会の委員長に指名され、1901年からはフィリピンの初代知事となります。更に、1904年にはセオドア・ルーズベルト大統領から陸軍長官に指名されます。

まさに、とんとん拍子の出世ですよね。この頃、日本にルーズベルトの特使として日本に赴いております。日露戦争の講和条約と東アジア地域の問題について、その後を決定づける会談をしているのです。

セオドア・ルーズベルトが2期大統領を務めた後に、大統領出馬を辞退しますが、共和党の候補としてウィリアム・タフトを指名するのです。大統領選では圧倒的な勝利となり、第27代大統領に就任します。

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第27代大統領ウィリアム・タフトの業績は

タフト大統領は前任のルーズベルト大統領の方針を引き継ぎました。国内問題では、独占禁止、官公庁の改革等を行っています。

外交面では、棍棒外交と言われるルーズベルトに比べるとハト派的な行動をとるようになります。

名称としてはドル外交と言われておりますが、アメリカの経済力を背景に武力を伴わない経済力による外交であったようです。

特にカリブ海周辺諸国については、ホンジュラス、ハイチの財政難の救済、ニカラグワについては外債をアメリカの金融機関が買い取るような政策をしてきました。

日本との関係では桂・タフト覚書が有名です

これは、1905年に日露戦争中にアメリカ合衆国特使、陸軍長官として日本に立ち寄り、桂太郎首相兼外務大臣と交わした内容です。

この後の日本に大きな影響を与えた内容なのです。この外交団は議員30名を含む総勢83名の大型外交団だったのです。

アメリカの最大の関心事はフィリピン問題でした。スペイン戦争を勝ち取り、植民地となっていたフィリピンに対して日本が手を出さないことを確認する必要があったからです。

日本側の関心事は大韓帝国問題でした。今回の日露戦争の原因は大韓帝国政府の姿勢にあるとし、同じように大韓帝国政府が単独で他の国と条約を結んで、日本と戦争を起こす可能性を排除したいとしていました。

このため、日本の大韓帝国に対する指導的地位を認めることになります。

そして、東アジアの極東の平和は、日本、アメリカ、イギリスによる事実上の同盟によって守られることを確認したものです。

この内容を確認してメモとして保存したものですが、これからの日露戦争の交渉にあたって、アメリカが日本との事実上の同盟国であることを表明するのはまずいとの考えから、この文書は私的文書として処理されました。

その後、ポーツマス条約により大韓帝国に対する指導的地位を得た日本は、第二次日韓協約を締結し、大韓帝国の外交権を吸収することになるのです。

ところが、これに不満の高宗はハーグ密使事件を起こして外交権の回復を世に訴えようとしたが、かえって列強各国からは無視されることになります。この事件がもとで日韓併合に至ることになるのです。

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ウィリアム・タフトにはこんなエピソードもあります

タフト大統領は歴代の中では最大の巨漢ということでした。何しろ1m82㎝、体重140㎏と言われていましたので、幾つかのエピソードがあります。

ホワイトハウスのバスタブにはまって出られなくなった事件がありました。そのため、ホワイトハウスのバスタブをより大型のものに取り換えたそうです。

最高裁判所長官時代に迎えの車のドアに挟まって動けなくなり、ドアを切り取ったといわれています。

また、運動不足を心配した側近の助言により、1910年MLBの始球式を始めて行った大統領としても知られています。日本の始球式と違って観客席からボールを投げ込む形式です。

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渋沢栄一が会談したウィリアム・タフト大統領はどんな人のまとめ

ウィリアム・タフトは前任のセオドア・ルーズベルトから政策を引き継ぎますが、よく言えば保守的、ハト派的な政策もあり、また、議会経験がないので、政策のネゴに苦労することになります。

このため、共和党の中からも不満が出てくる始末でした。このため、二期目の大統領選挙にあたり、セオドア・ルーズベルトが革新党を作って出馬することになります。

このため共和党の勢力が分散したおかげで、二期目の大統領の地位を民主党のウッドウ・ウイルソンに奪われてしまいました。

タフトはその後は、学術や世界平和のための仕事をしていましたが、1921年にハーディング大統領によって最高裁の長官に任命されます。こうして、タフトは三権の長のうち2つを勤めた唯一の大統領として記録に残ることになります。

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