ウィリアム・タフトの生い立ちと法曹界での歩み
ウィリアム・ハワード・タフトは1857年、オハイオ州シンシナティの裕福な家庭に生まれました。父親アルフォンソ・タフトは法律家・政治家として活躍し、グラント政権では陸軍長官や司法長官を歴任しました。こうした家庭環境の中で、タフトは自然と法と政治に興味を持ちます。
イェール大学では学業に秀で、1878年にはクラス2位で卒業。続けてシンシナティ・ロー・スクールで法学を学び、1880年に法曹資格を取得しました。オハイオ州の検察官からキャリアを始め、連邦訟務長官、第6連邦巡回控訴裁判所判事などを歴任。1896年からはシンシナティ大学の法学部長として法学教育にも尽力しました。
政界での躍進とアジアとの関係
1900年、タフトはマッキンリー大統領からフィリピンの文民統治を行う委員会の委員長に任命され、翌1901年には初代フィリピン知事となります。アメリカによる新たな植民地政策の顔として東アジアに関わるようになり、日本にとっても重要な人物となっていきます。
さらに1904年には、セオドア・ルーズベルト大統領によって陸軍長官に抜擢され、1905年に特使として来日。日本の桂太郎首相と「桂・タフト協定」を交わし、日米間でフィリピンと韓国の相互容認という形での了解が成立しました。
桂・タフト覚書の内容と影響
桂・タフト覚書は公式な条約ではなく、非公式な私的覚書として扱われました。内容としては、日本が大韓帝国において指導的立場をとることをアメリカが黙認し、その代わりに日本はアメリカのフィリピン統治に干渉しないとする合意です。
この覚書は日露戦争後の東アジア情勢を大きく左右する布石となり、アメリカがポーツマス条約の仲介を行う際にも背景として機能しました。日本はこの合意をもとに第二次日韓協約を結び、韓国の外交権を掌握。その後、1907年のハーグ密使事件を経て、1910年の日韓併合に至る流れが加速します。
タフト大統領の内政と外交:ドル外交の展開
1909年、大統領に就任したタフトは、前任のルーズベルトが掲げた進歩主義政策を継承しつつ、より穏健かつ経済重視の外交を志向しました。これが「ドル外交」と呼ばれるアプローチで、アメリカの資本力を背景に中南米や東アジアで影響力を拡大しようとするものでした。
ホンジュラスやハイチでは財政支援を通じて関与を強め、ニカラグアでは政情不安定な情勢に乗じて金融支配を強めました。一方で日本との関係においては、軍事的圧力を控え、経済・外交を通じた安定関係の構築を模索しました。
渋沢栄一との会談:経済外交の一環として
1909年に渋沢栄一がアメリカを訪問した際、タフトは渋沢との会談を通じて日米経済関係の深化を図りました。渋沢は、民間経済人として国家間の理解と協力を促進しようとする意識が強く、タフトもその理念に共鳴したとされています。
この会談は、国家間の硬直した政治的な対立を和らげる象徴的な出来事でもあり、のちに「民間外交の先駆け」と評価されることになります。
タフトの逸話:巨漢ゆえの伝説
タフトは身長182cm、体重140kgの巨漢としても知られており、数々の逸話が残されています。最も有名なのが、ホワイトハウスの浴槽に挟まって出られなくなったという話で、この事件をきっかけに浴槽が特注の大型に交換されたと言われています。
また、最高裁判所長官時代には迎えの車のドアに身体が挟まり、ドアを切り取って救出されたというエピソードもあります。さらに、MLBで始球式を行った最初の大統領という記録も残っています。
タフトの晩年と評価:唯一の三権経験者
大統領退任後のタフトは、学問と国際平和の推進に尽力しました。1921年にはハーディング大統領により連邦最高裁判所の長官に任命され、1930年に死去するまでその任を全うしました。
これにより、タフトはアメリカ史上唯一、行政府(大統領)と司法府(最高裁長官)の両方を担った人物となり、歴史にその名を刻みました。
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