大山巌と捨松の馴れ初めとその後は?120年前の素敵なカップル

歴史人物

大山巌は薩摩藩出身の幕末から明治時代に活躍した軍人です、西郷隆盛とは従兄弟でもあり、陸軍大臣、元老など要職を歴任します。

妻の捨松は会津藩出身で最初の女子留学生として米国に11年間滞在し大学を卒業して帰国します。

二人はその後結婚して、以後の人生を送るわけですが、120年前のこの時代にあって、なかなか進んだ考え方を持っていました。そんな両人の馴れ初めから生活を解説していきます。

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大山巌が捨松に出会うまではどのような人生を歩んだか

大山巌は1842年(天保13年)11月12日薩摩藩士大山綱昌の次男として生まれます。西郷隆盛・従道兄弟の従兄弟にあたります。薩英戦争、戊辰戦争にも参加しております。

会津戦争では鶴ケ丘城攻撃に参加しますが、初日に負傷して戦線を離れます。この鶴ケ丘城の中には捨松が場内で籠っていました。

維新後は普仏戦争を観軍したり明治3年から6年にジュネーヴに留学しております。

西南戦争前は政府側につき西郷隆盛の説得につとめますが、最終的に城山攻城戦の指揮官として戦うことになります。このこともあり以降鹿児島の地を踏むことはありませんでした。

大山巌は同郷の吉井友実の長女沢子と結婚しており、3人の娘がありましたが、3人目の出産後に亡くなってしまいました。

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大山捨松は巌に会うまではどのような人生を歩んでいたのか

大山捨松は1860年(安政7年)3月16日会津藩の家老山川尚江重固の5女として生まれます。山川さき又は咲子と言っていたようです。会津戦争では鶴ケ丘城内で弾薬の運搬とかを行っていたようです。

攻城側には将来の夫となる大山巌がいました。

会津降伏後は会津藩士は下北半島の斗南に移住することとなります。さきは函館の知り合いに里子に出され、フランス人の家庭に引き取られたと言われています。

1871年12月23日岩倉使節団に伴う女子留学生5名のうちの1人として11歳の時にアメリカに出発します。11年の留学期間の間にヴァッサー女子大学を卒業し、看護婦の資格を取得して帰国します。

1882年に帰国しますが、留学の拠り所であった北海道開拓使はすでに廃止されており。政府の女子教育の方針も変わって全く見向きされない状況でした。しかも海外生活が長かったので日本語の読み書きが不自由とあってはなおさらでした。

しかも、10代で結婚するのが常識の時代に23歳では縁談の可能性もほとんどありませんでした。せっかくの教養と美貌を持って帰国したのに散々な結果でした。

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大山巌は3人の娘をどのように育てようとしたのか

大山巌はすでに立派な政府高官となっています。そのため、3人の娘のために子守を雇いますが、それでは教育になりません。

大山は自分のように女性にも学問をさせて育てたいという、昔でいえば変わった、今でいえば先進的な考え方の持ち主でした。

身内なら良いだろうと、姉が面倒をみますが、姉は典型的なその頃の考え方で、教育はいらないという方針でした。大山としては極めて不満でしたが、我慢するしかなかったのでした。

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そして大山巌は山川捨松に出会うことになります

これはどうやら大山巌の義理の父である吉井友実が最初に見つけたとも言われています。山川捨松の海外留学の友人永井繁子の結婚披露宴であったようです。大山巌のひとめぼれのようでした。

しかし、そこからが大変でした。

さっそく大山巌は吉井友実を通じて縁談の申し入れを行うことになりますが、長兄の山川浩は何しろ会津藩士でしたから、薩摩藩との縁談にはとんでもないという考え方でした。

また、その頃、山川は陸軍少将でしたので、自分の出世のために妹を差し出すなどの評判が立つことを嫌ってもいました。

困った大山はさらにグレードアップを図ります。今度は従兄弟の西郷従道に説得を頼みます。西郷従道も懸命に努力し徹夜になったとも言います。

面白いのは、山川が自分は会津の賊軍の出だと言うと、西郷も自分も西郷隆盛の賊軍の身内だと言いあったとか。とりあえず山川も断り切れないところまで持ち込んだようです。

それでも本人次第ということになります。こんな時代に本人次第なんてなかなかないですよね。

会っても日本語が通じない

そして両者で会うことになります。この当時ですから大山巌は薩摩弁丸出しだったでしょう。

山川捨松も会津なまりのでしょうから、しかも11歳から日本を離れていましたので、どうやら最初は意思の疎通ができなかったようです。

でもフランス語に切り替えてからはすっかり話し合いができるようになって、捨松も大山の人柄を理解したようです。

と言っても18歳も違うので最初は困ったのではないかと思います。大山の方は実は先妻の歳と捨松は同年になるのでそれほど違和感はなかったようです。

そして、わずか3ヵ月で結婚を決意することになります。披露宴は1883年(明治18年)完成したばかりの鹿鳴館で盛大に執り行われました。

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それ以降の大山巌・捨松夫妻の生活

結婚披露宴を開いた鹿鳴館は井上馨外務卿の肝いりで建設された社交場です。夫妻はこの社交場の人気者となり、捨松は「鹿鳴館の花」とまで言われるようになります。

彼らの生活はほぼパートナーとして暮らしており、公式の場でもお互いをファーストネイムで読んでいたようなぶっ飛んだ夫婦だったようです。

捨松自身は2男1女に恵まれ、先妻の残した3人の子供を含めて6人の子供をそだてています。大山巌もその頃の男性のように妾を持つこともなく、平穏に暮らしていたようです。

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大山巌と捨松の馴れ初めとその後は?120年前の素敵なカップルのまとめ

120年も前のことですが、こんな素敵なカップルが日本にもいたので、ご紹介しました。大山巌も順調な晩年を過ごしておりましたが、1916年(大正5年)75歳で亡くなりました。糖尿と胃病と言われています。

捨松はその後公の場に出ることが少なくなりましたが、女子留学生の仲間であった津田梅子の女子英学塾の手伝いをしていました。

ちょうどその女子英学塾の問題で無理がたたって、その頃はやりのスペイン風邪により1919年(大正8年)58歳で亡くなってしまいます。

大山巌と捨松者は仲良く那須の墓地に葬られているそうです。

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