持統天皇とはどんな人?夫の天武天皇の事業を完成した3人目の女帝

歴史人物

持統天皇はどんな人であったかを解説します。簡単に言えば、天智天皇の娘であり、叔父の天武天皇の皇后となった歴代3人目の女帝です。

夫の天武天皇の事業をしっかり受け継いで、完成させた女帝です。息子の草壁皇子が早くなくなるという誤算から、天皇として即位し、その息子の文武天皇まで受け継がせます。

家系を守るためにとても長い忍耐と果断な決断を示した女帝でした。

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中大兄皇子の娘鸕野讚良(うののさらら)皇女の誕生

大化元年(645年)父は中大兄皇子(天智天皇)母は遠智娘と言い、母の父親は蘇我倉山田石川麻呂です。なまえは、鸕野讚良(うののさらら)皇女とよぶが、大田皇女という同父同母の姉がいます。

お祖父さんにあたる石川麻呂は蘇我一族であるが乙巳の変にあたっては、中大兄皇子方についた人でした。

しかし、娘鸕野讚良(うののさらら)皇女が生まれた年、石川麻呂は父親である中大兄皇子によって攻め滅ぼされることになる。

斉明3年(657年)13歳で叔父の大海人皇子(天武天皇)に嫁します。姉の大田皇女も同じように大海人皇子に嫁します。天智元年(662年)草壁皇子を生みます。

大田皇女も天智2年(663年)大津皇子を生みますが、ばらくして亡くなってしまいます。

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古代史最大の戦い壬申の乱で兄と夫が争う

天智天皇11年(672年)大海人皇子が吉野で決起して壬申の乱となります。鸕野讚良(うののさらら)皇女は草壁皇子、忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃に脱出します。そして、一緒に計画をたてて戦っていたようです。

大海人皇子は乱に勝利して、翌年天武天皇2年(672年)即位します。鸕野讚良(うののさらら)皇女は皇后となります。

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夫である天武天皇の治世

天武天皇9年(679年)天武天皇と皇后、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子は吉野の盟約を交わし、互いに争わないことを誓います。

天武天皇10年(681年)天武天皇は律令の編纂を始めることと草壁皇子を皇太子に立てることを宣言しました。

天皇にしても皇太子にしても今とは異なり実務能力が要求される時代でした。天皇は35歳くらいと言いましたが、皇太子も立派に活動できる25歳ぐらいは要求されたようです。

その点、草壁皇子は19歳でしたのではなはだ心もとない状況でしたが、皇后の要望が強く出たと推測されています。

その後数年経て、天武天皇は病気がちになります。そして朱鳥元年(686年)天皇は「天下のことはことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、その後崩御してしまいます。いかに皇后の能力に期待していたことがわかります。

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甥の大津皇子の謀反

大津皇子は持統天皇の姉の大田皇女と天智天皇の間に生まれた皇子で、若い時から聡明であり、何かと、持統天皇の息子の草壁皇子に勝っていたようです。

草壁皇子が皇太子になったのちにも政治への参加が認められ、天武天皇からも重用されていました。ところが、天武天皇が崩御されて直後に、大津皇子の謀反の密告があります。

そして即座に、大津皇子は自殺に追いやられてしまいます。

後難を避けるために、何かと皇太子の草壁皇子よりも能力も人望も優れている大津皇子を皇后が排除したとみられていますが、そんなこともあったのかもしれません。

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持統天皇の誕生

ここまでして、息子に皇位をと考えた万全の体制を作ったはずなのですが、朱鳥4年(689年)その草壁皇子が病気で亡くなってしまいます。

その子供にあたる軽皇子はたったの7歳ですから、皇太子にも立てられません。こうして、鸕野讚良(うののさらら)は第41代の持統天皇として即位します。690年のことです。

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持統天皇が在籍中になしたことは

持統天皇が在籍中になしたことは、夫である天武天皇の政策を完成させることでした。

 

飛鳥浄御原令の制定

天武天皇が天武10年に制定を宣言したが、志半ばで没したためその意思を受け継ぎ即位前の持統天皇が事業を行っていたが、草壁皇子の病死後に急遽公布された。

戸籍の作成、地方制度、班田収授などが盛り込まれている。

 

藤原京の造営

これも天武天皇5年から着手されていたが、最初の本格的な条坊制の唐風都城であった。天武天皇の死により一旦建設は止まったが、持統天皇即位後の持統4年(690年)ただちに再開され694年に完成しました。これ以降、710年平城京に遷都するまで都とされています。

規模は平安京や平城京よりもやや大きい25平方キロメートルとなっています。

 

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孫にあたる文武天皇への譲位

高市皇子は天武天皇の長男ではあるが、母の身分が低いため、皇女である草壁皇子、大津皇子のように皇太子にはなれなかったようです。

しかし、壬申の乱のときには父親の大海人皇子を助けて、よく戦っていましたし、実務的にはものすごく能力があったようです。

持統天皇が即位したときに、太政大臣となり、持統政権を支えることになります。その高市皇子が、ついに病気になって亡くなってしまいます。持統天皇10年(697年)のことです。

そして皇族が集まり相談の結果、持統天皇が譲位し、孫の軽皇子が天皇に即位します。第42代文武天皇です。持統天皇は初の太上天皇となります。

文武天皇の即位は15歳という若さで、これまでにないことです。それまでは、豪族間の調整とか実務能力が必要とされたのですが、これまでの慣例を破る持統天皇による強引な措置だったと思われます。

譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執ります。文武天皇はまだ判断力はついていないので、実際上は持統天皇が自分で行うつもりだったのでしょう。

それよりも、何とか孫に皇位を継がせるのが主眼だったと思われます。

文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行ですが、これにも飛鳥浄御原令を作ったものの、本格的な律令を完成させようとする持統天皇の意思が関わっていたのではないでしょうか。

持統上皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行い、翌年には三河国まで足を伸ばし、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらいます。

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持統天皇とはどんな人?夫の天武天皇の事業を完成した3人目の女帝のまとめ

持統太上天皇は大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御します。宝算58。火葬されて天武天皇陵に合葬されます。天皇の火葬はこれが初めてでした。

こうして、持統天皇の生涯、業績を見てきましたが、現代人に通じる自分の血統を守ること、夫の天武天皇がなしえなかった事業を完成させることに精力を注いだ一生だったような気がします。

持統天皇というと、我々は、「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」という百人一首の歌を想像してしまいます。

そうすると、この飛鳥時代を生きたおおらかな女帝なのかなと思うのですが、どうも実像はかなりの頑張る方であることがわかります。作品と実像はこんなにも違うものなのですね。

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