持統天皇は、天武天皇の政策を受け継ぎ、藤原京遷都と律令整備を進め、文武天皇への譲位で皇位継承を安定させた女帝です。
本名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)。壬申の乱、夫・天武天皇の死、草壁皇子と大津皇子をめぐる皇位継承問題という激動を乗り越え、日本が律令国家へ移っていく重要な時代を担いました。
とくに注目したいのは、持統天皇を単に「女性天皇」として見るだけでは、その歴史的な重要性が十分に伝わらないことです。
彼女の治世には、法律、戸籍、官僚制度、都城、皇位継承という国家の基本構造が一つずつ形になっていきました。言い換えれば、「人が治める国」から「制度によって治める国」へ向かう転換期の中心にいた天皇だったのです。
- 持統天皇とは?生涯と主な出来事をわかりやすく整理
- 持統天皇の出自と誕生背景|天智天皇と蘇我氏につながる皇女
- 壬申の乱で持統天皇は何をした?大海人皇子とともに経験した内戦
- 天武天皇の政策と草壁皇子・大津皇子をめぐる後継問題
- 草壁皇子の死から持統天皇即位へ|なぜ自ら天皇になったのか
- 飛鳥浄御原令とは?持統天皇が進めた律令国家の基盤整備
- 藤原京はなぜ重要?694年の遷都が変えた日本の政治
- 持統天皇の譲位は何が画期的だった?文武天皇への皇位継承
- 持統天皇と和歌|「春過ぎて」に込められた香具山の風景
- 持統天皇はどんな人物だった?「冷酷な女帝」だけでは見えない実像
- 持統天皇と天武天皇の関係|二人で築いた律令国家と見ると分かりやすい
- 持統天皇の晩年と墓|天武天皇とともに眠る檜隈大内陵
- 考察|なぜ持統天皇は歴史に残る女帝なのか
- まとめ|持統天皇は藤原京と律令国家を次代へつないだ女帝
- よくある質問
持統天皇とは?生涯と主な出来事をわかりやすく整理
持統天皇は第41代天皇で、父は天智天皇、母は蘇我遠智娘とされています。宮内庁でも第41代持統天皇の父を天智天皇、母を嬪蘇我遠智娘としています。宮内庁+1
まずは持統天皇の生涯を年代順に見ておくと、複雑な古代史の流れがつかみやすくなります。
- 645年:鸕野讃良皇女として誕生
- 672年:夫・大海人皇子とともに壬申の乱を経験
- 673年:大海人皇子が天武天皇として即位
- 686年:天武天皇が崩御し、大津皇子の事件が起こる
- 689年:皇位継承を期待された草壁皇子が死去
- 690年:持統天皇として即位
- 694年:藤原京へ遷都
- 697年:孫の軽皇子に譲位。軽皇子は文武天皇となる
- 702年:持統太上天皇が崩御
こうして並べてみると、持統天皇の人生は、父・天智天皇の時代から天武天皇、そして文武天皇へと続く古代国家形成の大きな橋渡しになっていたことが分かります。
なお、従来「持統天皇は日本で最初に譲位した天皇」と紹介されることがありますが、正確には注意が必要です。
645年には皇極天皇から孝徳天皇への譲位が確認されています。ただし宮内庁書陵部の研究では、皇極天皇の譲位は政変という特殊な事情の中で行われたものであり、平常の状態で行われた譲位としては、持統天皇から文武天皇への継承が最初と整理されています。書陵部
この違いを押さえておくと、持統天皇の譲位がなぜ日本史上重要なのかが、よりはっきり見えてきます。
持統天皇の出自と誕生背景|天智天皇と蘇我氏につながる皇女
持統天皇の本名は鸕野讃良皇女といい、大化元年(645年)に生まれました。
父は中大兄皇子、のちの天智天皇です。母の遠智娘(おちのいらつめ)は、蘇我倉山田石川麻呂の娘とされます。
つまり鸕野讃良皇女は、父方では皇室、母方では当時大きな政治的影響力を持っていた蘇我氏につながる血筋を持っていました。
ただし、「有力な家柄だったから自動的に天皇になれた」と考えるのは単純すぎます。
7世紀の皇位継承は、現代のように明確な長子継承の原則だけで決まるものではありませんでした。天皇との血縁、母方の家系、本人の政治的立場、皇族間の勢力関係などが複雑に絡み合っていました。
鸕野讃良皇女はやがて叔父にあたる大海人皇子の妃となります。
大海人皇子は後の天武天皇です。二人の間には草壁皇子が生まれました。
ここで大切なのは、持統天皇の政治人生を考えるとき、夫である天武天皇だけでなく、息子の草壁皇子、さらに孫の軽皇子へ続く血統を一本の線として見ることです。
私は古代史を読む際、「誰が天皇になったか」だけでなく、次の世代へ皇位をどうつなごうとしたのかを見ることが大切だと考えています。
持統天皇の政策や決断には、この皇位継承への強い意識が繰り返し現れるからです。
壬申の乱で持統天皇は何をした?大海人皇子とともに経験した内戦
持統天皇を語るうえで避けて通れないのが、672年の壬申の乱です。
天智天皇の死後、皇位継承をめぐって大友皇子側と大海人皇子側が衝突し、古代日本最大級の皇位継承戦争となりました。
大海人皇子はいったん吉野へ退いていましたが、やがて挙兵します。
鸕野讃良皇女も夫と行動をともにしました。
元の記事では、彼女が物資や兵站の調整、指示伝達などの後方支援に従事し、軍師的な役割を果たした可能性があると紹介されていました。
ただし、ここは史料の扱いに慎重さが必要です。
鸕野讃良皇女が壬申の乱で具体的にどのような作戦を立案し、どの部隊に何を指示したのかまでを裏付ける史料は十分ではありません。そのため、「持統天皇が軍師として戦争を指揮した」と断定するのは避けたほうがよいでしょう。
一方で、夫の大海人皇子と運命をともにし、皇位をめぐる実戦的な政治闘争を身近で経験したことは重要です。
壬申の乱は大海人皇子側の勝利に終わり、673年、大海人皇子は天武天皇として即位しました。
この戦争を私は、後の持統天皇の政治姿勢を理解するための原点の一つと考えています。
皇位継承が曖昧なままでは、国家そのものが内戦に陥る――。
持統天皇は若い時期に、それを実際に目の当たりにしました。
後年、彼女が草壁皇子から軽皇子へとつながる皇位継承に強くこだわったように見える背景には、壬申の乱の記憶も無関係ではなかったのではないでしょうか。
もちろん、これは史料に直接書かれた本人の言葉ではなく、歴史の流れから見た私なりの考察です。
しかし、持統天皇の生涯を通して眺めると、「皇位を争わせない仕組みをつくる」という課題が繰り返し姿を現すように感じられます。
天武天皇の政策と草壁皇子・大津皇子をめぐる後継問題
壬申の乱に勝利した天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備を進めます。
その代表的な政策として、八色の姓による氏族秩序の再編、官人制度の整備、法令編纂への取り組みなどが挙げられます。
天武天皇の目標は、単に有力豪族を従わせることではありませんでした。
天皇を中心とした国家制度を整え、役人が一定の仕組みに従って政治を行う国家へ移行させようとしていたと考えられます。
その政策を支える重要人物となったのが皇后の鸕野讃良でした。
そして皇位継承の中心とされたのが、二人の息子である草壁皇子です。
ところが、皇族の中にはもう一人、有力な皇子がいました。
天武天皇と大田皇女の間に生まれた大津皇子です。
大津皇子は天武天皇の皇子であり、母の大田皇女は鸕野讃良皇女の姉にあたります。そのため草壁皇子と大津皇子は、父を同じくするだけでなく、母方でも非常に近い血縁関係にありました。
686年に天武天皇が崩御すると、その直後に大津皇子が謀反を企てたとして捕らえられ、自害する事件が起こります。
この事件は持統天皇を考えるうえで、現在も議論の尽きない問題です。
従来、大津皇子が草壁皇子の有力な競争相手だったことから、鸕野讃良皇后が息子の草壁を守るため、大津皇子排除に関与したのではないかという見方が語られてきました。
元の記事でも「持統皇后が草壁を守るために働きかけた可能性が高い」とされていました。
しかし、持統皇后が事件を仕組んだと確認できる決定的な史料があるわけではありません。
謀反が実際にどこまで計画されていたのか、政治的排除の側面がどの程度あったのかについても慎重に考える必要があります。
そのため、持統天皇を「息子のために大津皇子を死なせた冷酷な母」と単純化するのも、「すべては大津皇子自身の謀反だった」と言い切るのも適切ではないでしょう。
大切なのは、天武天皇の死後、皇位継承をめぐる緊張が非常に高まっていたという事実です。
そして、そこで中心人物となったのが鸕野讃良皇后でした。
草壁皇子の死から持統天皇即位へ|なぜ自ら天皇になったのか
大津皇子の死後、皇位継承の中心は草壁皇子となりました。
ところが689年、その草壁皇子まで亡くなってしまいます。
持統天皇にとっては、政治的にも私生活の上でも大きな転機だったはずです。
天武天皇が目指した国家建設を引き継ぐ人物として期待された息子を失った一方、草壁皇子の子である軽皇子はまだ若く、すぐに政治を全面的に担わせるには難しい状況でした。
そこで鸕野讃良皇女自身が政治の中心に立ちます。
690年、正式に即位して持統天皇となりました。
宮内庁の皇統譜に基づく系図でも、天武天皇を第40代、持統天皇を第41代、続く文武天皇を第42代としています。宮内庁
ここで注目したいのは、持統天皇の即位を「女性だったのに天皇になった」という驚きだけで捉えないことです。
持統天皇以前にも推古天皇、皇極天皇・斉明天皇という女性天皇が存在しました。
したがって、持統天皇は日本最初の女性天皇ではありません。
むしろ重要なのは、天武天皇の死後に国家建設を止めず、次世代の軽皇子へつなぐまで自ら政治を担ったことにあります。
私はここに、持統天皇の政治家としての特徴が最もよく現れていると感じます。
自分の即位を最終目的としたというより、天武天皇から草壁皇子、そして軽皇子へつながる政治秩序を維持する「中継ぎ」としての側面を持ちながら、その在位期間に国家制度を大きく前進させました。
しかも、その「中継ぎ」は決して消極的なものではありません。
後の日本国家につながる制度を次々と具体化していく、非常に積極的な治世となったのです。
飛鳥浄御原令とは?持統天皇が進めた律令国家の基盤整備
持統天皇の代表的な業績の一つが、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行です。
飛鳥浄御原令は天武天皇の時代から編纂が進められ、689年に施行されたとされます。
つまり、すべてを持統天皇一人がゼロから作ったわけではありません。
ここが大切なところです。
天武天皇が設計図を描き、持統天皇がそれを実際の国家運営に移していったと見ると、二人の治世の連続性が分かりやすくなります。
奈良文化財研究所の木簡研究でも、持統天皇4年(690年)の記事に「考仕令」が見え、官人の勤務評価や選任に関する制度が飛鳥浄御原令と関わっていたことが説明されています。木簡庫
律令という言葉は少し難しく感じますが、簡単に言えば、
- 国をどのような組織で運営するか
- 役人をどのように任命・評価するか
- 人々をどのように把握するか
- 税や土地をどのように扱うか
- 天皇を中心とする政治秩序をどう整えるか
といった国家運営の基本ルールを体系化していくものです。
持統朝では戸籍の整備も進められました。
代表的なのが690年の庚寅年籍(こういんねんじゃく)です。
全国的に人々を把握する戸籍を整えることは、現代の私たちから見ると事務的な作業に思えるかもしれません。
しかし古代国家にとって、「誰がどこに住み、どの集団に属しているのか」を把握することは、税、兵役、土地制度、行政組織の前提です。
元行政職員として制度の変化を眺めると、ここには非常に興味深いものがあります。
立派な理念だけでは国は動きません。
台帳を作り、人を把握し、役人の役割を決め、地方と中央の関係を整理して初めて制度は機能します。
その意味で持統朝は、古代国家の「表舞台」だけでなく、行政を動かす土台そのものを整えた時代だったと見ることができます。
後の701年に完成する大宝律令、さらに養老律令へと続く流れを考えれば、持統天皇の治世は律令国家完成への重要な助走期間でした。
藤原京はなぜ重要?694年の遷都が変えた日本の政治
持統天皇の功績として、飛鳥浄御原令と並んで重要なのが藤原京です。
持統8年(694年)、持統天皇は藤原京へ遷都しました。
ただし、藤原京も持統天皇が一人で突然計画した都ではありません。
奈良文化財研究所によると、藤原京の計画を始めたのは天武天皇で、その末年には道路工事など実際の造営が始まっていたことが発掘調査から分かっています。持統天皇がその計画を引き継ぎ、694年の遷都へ結び付けました。生物資源ネットワーク
藤原京が画期的だった理由は、単に新しい宮殿を建てたことではありません。
奈良文化財研究所は、藤原京を宮城と碁盤目状の街区「条坊」を備えた最初の本格的な中国式都城と位置づけています。生物資源ネットワーク+1
中央には政治と儀礼の中心となる藤原宮が置かれ、その周囲に道路や宅地、寺院などが計画的に配置されました。
中国の都城制度から強い影響を受けた都市ですが、単純に「唐の長安をそのままコピーした」と説明するのは正確ではありません。
当時の東アジアの都城思想を取り入れながら、日本の政治制度に合わせて形づくられた都市と考えるほうがよいでしょう。
発掘調査が進んだ結果、藤原京はかつて考えられていた以上に広大だったことも明らかになっています。
奈良文化財研究所では、藤原京の京域が方5キロメートル以上に広がっていたと説明しています。生物資源ネットワーク
これは非常に重要な発見です。
長い間「平城京以前の一段階」とだけ見られがちだった藤原京が、実際には大規模な首都計画だった可能性が高まっているからです。
奈良文化財研究所は藤原京について、持統8年(694年)から和銅3年(710年)まで古代国家の首都であったとしています。生物資源ネットワーク
つまり藤原京は短命な都ではありましたが、決して失敗した「仮の都」ではありません。
ここで官僚が働き、法令が運用され、後の大宝律令も成立しました。
藤原京は平城京へ向かうための練習台ではなく、律令国家が実際に動き始めた舞台だったと見るほうが、その歴史的な重みを理解しやすいでしょう。
持統天皇の譲位は何が画期的だった?文武天皇への皇位継承
697年、持統天皇は孫の軽皇子へ皇位を譲りました。
軽皇子は即位して文武天皇となります。
持統天皇の生涯を貫く一本の糸を探すなら、私はこの場面にたどり着きます。
天武天皇と持統天皇の息子である草壁皇子は、天皇になる前に亡くなりました。
それでも皇統は途切れず、草壁皇子の子である軽皇子へつながりました。
壬申の乱という皇位継承戦争を経験した持統天皇にとって、次の天皇へ平穏に皇位を渡すことには、大きな意味があったと考えられます。
先ほど触れたように、皇極天皇から孝徳天皇への譲位という先例はすでにありました。
そのため「持統天皇が日本史上初めて譲位した」という説明は正確ではありません。
一方で、宮内庁書陵部の研究では、政変ではない通常の状況で行われた譲位として、持統天皇から文武天皇への皇位継承を最初と位置づけています。書陵部
ここに持統天皇の譲位の本当の重要性があります。
皇位は天皇の死によってしか移らないものではなく、存命中に次の天皇へ計画的に渡すことができるという形が、政治制度として明確になっていきました。
持統天皇は譲位後も政治的影響力を保ち、太上天皇として文武天皇を支えました。
後世の上皇政治や院政とそのまま同一視することはできませんが、「退位した天皇が存命し、後継天皇を支える」という形が歴史上重要な意味を持ったことは確かです。
なお、元の記事では「摂関政治の基礎を築く先例」とされていましたが、摂関政治は後世、藤原氏が摂政・関白として天皇を補佐する仕組みです。
持統天皇の譲位と直接結び付けるより、後の太上天皇・上皇という存在につながる重要な先例の一つとして理解するほうが適切です。
持統天皇と和歌|「春過ぎて」に込められた香具山の風景
持統天皇は政治制度を整えた統治者である一方、和歌の世界でも広く知られています。
とくに有名なのが、『小倉百人一首』に収められた次の歌です。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山
学校で覚えたという方も多いのではないでしょうか。
春が過ぎ、いつの間にか夏が訪れたらしい。天の香具山には白い衣が干されている――。
目の前の風景から季節の変化を感じ取る歌です。
持統天皇というと、大津皇子の事件や律令、藤原京など、どうしても厳しい政治の世界が先に浮かびます。
しかし、この歌を読むと、その人物像にもう一つの窓が開きます。
なお、この歌は『万葉集』に伝わる形と『百人一首』に採られた形で表現に違いがあります。
『万葉集』は舒明朝から奈良時代にかけての歌約4500首を収める、日本を代表する古代歌集です。国立情報学研究所
そのため「持統天皇の歌」と検索すると、異なる表記や語句を目にすることがありますが、誤記とは限りません。
また、この歌を「女性らしい感性」とだけ評価してしまうと、持統天皇という人物の一面を狭く捉えることになります。
香具山は飛鳥の政治・祭祀空間と深く結び付く山です。
国家を治めた天皇が、都を取り巻く風景と季節の変化を歌に残したものとして眺めると、政治史と文学史が一つにつながって見えてきます。
私は歴史人物を学ぶとき、制度や戦争だけでなく、こうした一首の歌に触れる時間も大切にしています。
年号だけでは遠く感じる人物が、同じ季節の移ろいを見つめた一人の人間として、少し近く感じられるからです。
持統天皇はどんな人物だった?「冷酷な女帝」だけでは見えない実像
持統天皇を調べると、「強い女帝」「冷酷な母」「策謀に長けた政治家」といった刺激的な人物像に出会うことがあります。
確かに、大津皇子の死、草壁皇子を中心とする皇位継承、藤原京建設などを見ると、非常に強い政治的意思を持った人物だったと考えることはできます。
しかし、史料に書かれていない内面まで断定することには慎重であるべきでしょう。
大津皇子の事件一つを取っても、持統皇后がどこまで関与したのかは確定していません。
古代史では残された史料が限られているため、後世の物語的な人物像が、いつの間にか史実そのもののように受け取られることがあります。
持統天皇の本当の強さは、私は別のところにあると考えています。
それは、天武天皇が始めた政策を途中で終わらせなかったことです。
夫が亡くなり、後継者とされた息子も亡くなりました。
それでも法令整備を進め、戸籍を整え、藤原京を完成させ、最後には孫の文武天皇へ皇位を渡しました。
一人の英雄が一度の戦いで国を変えたという物語ではありません。
むしろ、制度を少しずつ積み上げ、次の世代が使える形に整える仕事です。
行政の世界に長く身を置いてきた私には、この点がとても印象深く映ります。
制度づくりというものは、華やかな場面ばかりではありません。
法律を作っても、それを運用する役人がいなければ動きません。戸籍を作っても、継続して更新しなければ意味を失います。都を造っても、そこに官庁と人々の暮らしが根付かなければ国家の中心にはなりません。
持統天皇の治世を見ていると、そうした「仕組みを継続させる力」の重要さが浮かび上がってきます。
持統天皇と天武天皇の関係|二人で築いた律令国家と見ると分かりやすい
持統天皇の功績を高く評価するあまり、天武天皇の仕事まで持統天皇一人の業績としてしまうのも適切ではありません。
飛鳥浄御原令の編纂も藤原京の計画も、その出発点は天武朝にあります。
藤原京についても、奈良文化財研究所は天武天皇が計画し、その末年には実際の造営工事が始まっていたと説明しています。生物資源ネットワーク
一方、計画は完成しなければ歴史を変えません。
天武天皇の死後に政策を継承し、法令を施行し、藤原京への遷都を実現し、次世代へ国家制度を渡したのが持統天皇でした。
そのため天武・持統朝は、二人の治世を切り離すより、一つの長い国家形成過程として見ると理解しやすくなります。
天武天皇が国家の骨格を構想し、持統天皇がその骨格に制度を通し、実際に動かした――。
少し単純化した表現ではありますが、初心者が古代史の流れをつかむには、この見方が役立ちます。
そして持統天皇の死後、その成果は文武天皇の時代へ受け継がれます。
701年には大宝律令が完成しました。
藤原京について奈良文化財研究所も、694年から710年まで首都として機能し、その時代に大宝律令が完成して政治の仕組みが整備されていったと説明しています。生物資源ネットワーク
持統天皇自身は大宝律令完成時にはすでに譲位していましたが、太上天皇としてなお存命でした。
このことからも、持統天皇の時代は「飛鳥時代の終わり」というだけでなく、奈良時代の律令国家へ直接つながる時代だったことが分かります。
持統天皇の晩年と墓|天武天皇とともに眠る檜隈大内陵
697年に文武天皇へ譲位した後も、持統太上天皇は完全に政治の世界から離れたわけではありませんでした。
若い文武天皇を支えながら、天武・持統朝から続く国家形成を見届ける立場にありました。
そして702年、持統太上天皇は生涯を閉じます。
現在、宮内庁は持統天皇陵を奈良県高市郡明日香村の檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)としています。
ここには天武天皇も合葬されています。宮内庁
政治の上でも長く一体となって律令国家形成を進めた天武天皇と持統天皇が、死後も同じ陵に葬られているという事実には、歴史を学ぶ者として深い感慨を覚えます。
現在の奈良県明日香村周辺を歩けば、持統天皇の時代を伝える場所は決して教科書の中だけに存在しているわけではありません。
藤原宮跡、香具山、飛鳥の遺跡、そして天武・持統天皇陵。
史跡を一つずつたどると、1300年以上前に進められた国家建設が、実際の土地の広がりとして感じられます。
考察|なぜ持統天皇は歴史に残る女帝なのか
持統天皇の最大の功績を一つだけ選ぶなら、私は「何か一つの制度を発明したこと」ではなく、天武天皇が始めた国家改革を、次の世代が引き継げる形まで完成に近づけたことだと考えています。
飛鳥浄御原令、庚寅年籍、藤原京、官僚制度、そして文武天皇への譲位。
一つひとつを別々に見るより、「国家を制度として安定させる」という一本の流れとして見ると、持統天皇の政治がよく分かります。
壬申の乱では、皇位継承をめぐって国が二分されました。
天武天皇の死後には、大津皇子の事件が起こりました。
さらに、次の天皇になるはずだった草壁皇子も亡くなりました。
持統天皇は、皇位継承の不安定さを人生の中で何度も経験した人物です。
その持統天皇が最終的に実現したのが、若い軽皇子を文武天皇として即位させ、自らは退位して支えるという形でした。
ここに私は、彼女の政治人生の一つの到達点を見ることができます。
もちろん、「壬申の乱を経験したから持統天皇は譲位制度を考えた」と直接証明する史料があるわけではありません。
しかし、彼女の人生を時系列に並べると、争われる皇位から、計画的に継承される皇位へという変化が浮かび上がります。
これこそ、持統天皇を学ぶ際に見落としたくない視点です。
もう一つ重要なのは、持統天皇を現代の価値観だけで「女性リーダーの先駆者」として語りすぎないことです。
確かに彼女が巨大な政治権力を担った女性であることは間違いありません。
しかし7世紀の皇位継承や女性天皇のあり方は、現代社会の男女平等や女性管理職の問題とは背景が大きく異なります。
現代的な物差しをそのまま古代に当てはめるのではなく、その時代の皇族社会と政治制度の中で彼女が何を成し遂げたのかを見ることが大切です。
そのうえでなお、夫の死、息子の死、皇位継承の危機を乗り越え、国家制度を継続させた力量には目を見張るものがあります。
持統天皇は、華やかな征服者というより、国家の設計図を現実の制度へ変えた実務型の統治者として見ると、その存在がより鮮明になります。
まとめ|持統天皇は藤原京と律令国家を次代へつないだ女帝
持統天皇は、645年に鸕野讃良皇女として生まれ、壬申の乱を夫・大海人皇子とともに経験し、後に天武天皇の皇后となりました。
天武天皇の死後には大津皇子をめぐる事件、さらに草壁皇子の死という皇位継承の危機に直面します。
それでも政治を止めることなく、飛鳥浄御原令の施行、戸籍をはじめとする制度整備を進め、690年には持統天皇として即位しました。
694年には、天武天皇から引き継いだ藤原京建設を完成させて遷都します。
藤原京は条坊を備えた本格的な中国式都城であり、日本の律令国家形成を目に見える都市の形にした場所でした。生物資源ネットワーク+1
そして697年、孫の軽皇子へ皇位を譲り、文武天皇の時代へつなぎます。
これは日本史上最初の譲位そのものではありませんが、政変によらない平常時の譲位として重要な先例となりました。書陵部
持統天皇の主な功績を改めて整理すると、次のようになります。
- 天武天皇の国家改革を継承し、律令国家の基盤整備を進めた
- 飛鳥浄御原令を施行し、官人制度や国家運営の仕組みを整えた
- 庚寅年籍などを通して、人々を把握する行政基盤を整えた
- 694年に藤原京へ遷都し、本格的な計画都市を国家の中心とした
- 文武天皇への平穏な譲位によって、皇位継承の新しい形を示した
- 「春過ぎて」で知られる和歌を残し、古代文化史にも名を刻んだ
持統天皇は、一時的に皇位を預かっただけの女性天皇ではありません。
天武天皇が描いた国家の構想を制度として実行し、文武天皇と大宝律令の時代へ橋を架けました。
古代史は人名や年号が多く、最初は覚えるだけでも大変です。
けれども持統天皇を「天武天皇から文武天皇へ国家をつないだ人物」と捉えると、壬申の乱、飛鳥浄御原令、藤原京、大宝律令という出来事が一本の流れとして見えてきます。
学び直しは、すべてを一度に覚える必要はありません。
一人の人物の人生をゆっくりたどることから始めるだけでも、遠い古代の歴史は驚くほど立体的になっていきます。
よくある質問
持統天皇は日本で最初の女性天皇ですか?
いいえ。日本最初の女性天皇とされるのは第33代の推古天皇です。
その後、皇極天皇・斉明天皇を経て、第41代の持統天皇が即位しました。持統天皇の重要性は「初の女性天皇」であることではなく、天武朝から続く律令国家形成を大きく前進させた点にあります。
持統天皇は日本で初めて譲位した天皇ですか?
厳密には違います。
645年に皇極天皇から孝徳天皇への譲位が行われています。ただし、これは乙巳の変に続く政変という特殊な状況でした。
宮内庁書陵部の研究では、平常の状態における譲位としては、697年の持統天皇から文武天皇への皇位継承が最初とされています。書陵部
持統天皇の最大の功績は何ですか?
一つに絞るのは難しいですが、天武天皇が始めた律令国家づくりを引き継ぎ、制度として定着させ、文武天皇の時代へ渡したことが大きな功績です。
飛鳥浄御原令、戸籍整備、藤原京への遷都、文武天皇への譲位は別々の出来事ではなく、中央集権的な国家を安定させる一連の政策として見ると理解しやすくなります。


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