渋沢栄一が会談したセオドア・ルーズベルト大統領はどんな人

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渋沢栄一は1902年(明治35年)日本の経済団体一行を引き連れてアメリカに視察しております。その時に、セオドア・ルーズベルト大統領とも会談しております。このルーズベルト大統領は日露戦争後の講和条約を斡旋した大統領として有名ですが、一体どのような人だったのでしょう。

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セオドア・ルーズベルト大統領の生い立ちは

セオドア・ルーズベルトは1858年ニューヨーク市で裕福な家庭で生まれます。小さい頃は喘息持ちの少年だったようです。その後もそうですが、自然への志向が強かったとも言われています。

セオドア・ルーズベルトの政界への進出

セオドア・ルーズベルトはハーバード大学在学中アメリカ海軍の米英戦争の歴史を研究しています。

1880年卒業後の1882年にそれをまとめた、The Naval War of 1812を出版して著名人となっています。1882年から1884年まではニューヨーク州議会の議員となっています。

若い時にと言っても25歳の時ですが、1884年2月14日に、母を腸チフスで亡くし、同時に2日前に一人娘を生んだ妻を亡くすという大変な経験をしています。その後しばらくはノースダコタの農場でしばらく暮らしていたそうです。

1886年にニューヨークに戻ってくると、重用されることになります。1889年アメリカ行政委員会のメンバー、1895年はニューヨーク市公安委員委員長に就任しています。

ルーズベルトの米西戦争に従軍することに

ルーズベルトは海軍の歴史、役割の専門家として著名でしたので、1897年ウイリアム・マッキンリー大統領の指名により海軍次官に就任します。

スペイン戦争に向けて海軍力の整備を図ります。1898年戦争が勃発すると、海軍省を辞職して、義勇騎兵隊を結成し、「ラフ・ライダース」と呼ばれる部隊を指揮します。ルーズベルトの指揮のもとキューバ侵攻で活躍し、大佐に昇進ます。

そしてルーズベルトは大統領へ

戦後は、警視総監及びニューヨーク州知事を務めた後、1900年大統領選で副大統領として当選します。翌年9月マッキンリー大統領が暗殺されたため、第26代大統領に昇格することになります。42歳10か月は史上最年少でした。

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セオドア・ルーズベルトは対日関係をどう考えていたか

ルーズベルト大統領は日露戦争後の講和条約の斡旋で大きな功績があったことから、いかにも親日家と考えがちです。このためにアメリカ初のノーベル平和賞も受賞しています。

柔道を習うなど日本に対しての親しみは持っていたとしても、彼の頭の中は海軍の歴史、役割を中心に考えていますので、その点は冷静に物事を見ているのです。

1897年の段階で太平洋の方面について考え方の中で、ハワイ王国を併合すること、パナマ運河を建設することを見通しております。

特にハワイについては、日本とハワイ王国が急速に親しくなっていくことを危惧しています。

確かに、グラント元大統領が日本に来た後にもハワイ王国のカラカウア王が来日して、アメリカの支配が強まっていることを明治政府に訴えています。

そういえばグラント元大統領に後にも、カラカウア王も渋沢邸を訪問していましたね。

日本がハワイに目を付ける前に抑えていこうとする意図です。明治政府はまだ条約改正で頭がいっぱいで対外戦略を立てられない状態なのですが、将来の危険な相手として認識しているのです。

日露戦争後の交渉も、ロシアの満州での脅威を排除するために、日本に好意的に振舞っただけで、その後は日本の脅威を真剣に考え始めています。

そして、戦後は日本に大艦隊を送り出したりしてけん制しているのです。

また、日本人移民の排斥にも乗り出していますが、あくまでも戦争にならないようにとの配慮を考えつつということになります。

このように、日本文化に理解があることと、親日とは違うという認識が大切なようです。近頃ではロシアのプーチンが柔道を行っているが、親日とは言えないのと同じでしょう。

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セオドア・ルーズベルトのテディ・ベアとの関係は

本論と少し外れますが、セオドア・ルーズベルトはテディ・ベアに例えられていますが、これにはいわれがあります。

1902年ルーズベルト大統領が熊狩りに出かけた際、獲物をしとめることができませんでした。

ようやく追いつめた年老いた雌熊に同僚が大統領に最後の一発を頼んだところ、「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神に反する。」として撃たなかったそうです。

その話がワシントンポスト紙に載り、触発された業者が熊の縫いぐるみにテディと愛称を付けて売り出したのが始まりだそうです。

ちなみに熊のプーさんもテディ・ベアから着想を得たものだそうです。日本のコレクターとしてはソムリエの田崎信也、歌手の宇多田ヒカルがいるそうです。

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渋沢栄一が会談したセオドア・ルーズベルト大統領はどんな人のまとめ

セオドア・ルーズベルトの人となりを解説してきましたが、日本に親しみを持つものの、現実の外交とは異なることがわかりますね。

彼の外交政策は「棍棒外交」と言われていますが、あまりにも強硬な感じがするのですが、棍棒をもって静かに話せば、すべてはそれで通るという彼の発言から出たものです。Speak softly and carry a big stick, you will go far.

確かに、歴代の大統領の中では、コロンビアからのパナマの独立、ドミニカ共和国の救済、キューバの占拠など中南米での力づくの外交政策が目立っていたようです。

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