吉田松陰とは?安政の大獄でなぜ殺されたか。

歴史人物

吉田松陰は幕末長州藩の教育者、思想家として有名です。彼の松下村塾で学んだ久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵がやがて幕末、明治維新で活躍することになります。

しかし、その思想、考え方、生涯について解説するとともに、なぜ安政の大獄に連座して死罪となったかについて述べていきます。

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吉田松陰の幼少時代から修業時代

吉田松陰は文政13年(1830年)長州萩城下で長州藩士杉百合之助の祐の次男として生まれます。叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり兵学を修めます。

大助が亡くなったため、これもまた叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けます。

何と、9歳にして藩校の明倫館の兵学師範に就任します。13歳の時には長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を行います。

嘉永3年(1850年)西洋兵学を学ぶため九州、江戸に遊学します。

嘉永5年(1852年)東北旅行を計画するが、約束の出発日までに藩の通行手形が下りなかったため脱藩してしまいます。

水戸、会津、津軽まで足を延ばしますが、江戸に着いたところで、藩から士籍剥奪・世禄没収の処分をうけます。

いくら約束期限に間に合わないからと言って、脱藩すればそもそも何をするのも不便なことが理解できなかったのでしょうか。なんとなく感覚のずれを感じます。

嘉永6年(1853年)ペリーの浦賀来航を観察し、外国への留学を決意します。そして長崎へ、ロシアの軍艦に乗り込もうとしますが、先に出向していて失敗してしまいます。

どうもここらのあたり、吉田松陰の早熟の頭の良さと、処世の仕方にギャップがあるような気がします。

嘉永7年(1854年)再び現れたペリーの艦隊に小舟で近寄り乗船します。しかし渡航は拒否されます。当然ですよね。

どこの誰かもわからない者が乗り込んで、連れてってくれと言ったって相手にされるものではありません。結局自首して伝馬町の牢屋敷に投獄されてしまいます。

次の年に出獄しますが、杉家に幽閉ということになります。

ここらのアプローチも全く理解できません。そもそも成算があってやったことなのでしょうか。我々から見てもあまりによ幼稚なやり方だと思いませんか。

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吉田松陰の松下村塾

安政4年(1857年)叔父が行っていた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地で開講することになります。

この松下村塾の特徴としては、松陰と弟子がお互いに意見を交わし合ったり、野外活動もするような塾だったといわれています。

塾生としては、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵などが挙げられています。

吉田松陰はこの間に次のような当時からすれば危険思想をいだいたといわれています。

間部要撃策

幕府が勅許なしに日米修好通商条約を締結したことに怒りを覚え、時の老中首座間部詮勝が朝廷への弁明に上洛する機会をとらえて、条約破棄と攘夷の実行を迫り、受け入れられないときは討ち取るという過激な計画です。

伏見要駕策

間部要撃策を実行するため毛利藩に武器弾薬の持ち出しを申し入れるが拒否されたので、参勤交代で伏見を通る藩主毛利敬親に直訴する計画です。

これについても、ほとんどの弟子が反対したので失望したとされていますが、当然ですよね。すぐに行動しなければとしても、自分を中心として世界が回っていると思わない限り、こんな計画に賛同する人はいないでしょう。

更にこれらの計画が誰からも受け入れられないため、藩への不信感が増大してきます。やがては、この不信感が幕府への不信感につながり討幕思想を発言するようになります。

これでは、長州藩もほっておくわけにはいかないので、野山獄に幽閉することとなります。

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吉田松陰は安政の大獄に連座

安政6年(1859年)安政の大獄の主要人物として梅田雲浜がとらえられております。梅田雲浜は尊王攘夷運動の中心人物として幕政批判を繰り返しておりました。

将軍跡継ぎ問題では、一橋派を推して議論を展開したため井伊直弼からも危険人物とみなされています。また、水戸藩に出された戌午の密勅は梅田雲浜の発案ともされている関係から取り調べを受けることになります。

梅田雲浜は一時長州に行き吉田松陰と関係を持っていることから、裏付けをとるため、長州の野山獄に捕らえられた松陰を江戸に護送しすることとなりました。

いわば、幕府にとっては参考人聴取です。

吉田松陰の取り調べについては、梅田雲浜との関係については、ほとんど何もなかったことが判明し、問題なかったのですが、その後に大変なことを言ってしまうのです。

先ほど、解説した間部要撃策を堂々と述べてしまうのです。これは幕府の老中の暗殺計画ですから幕府としても聞いた以上はほっておくわけにもいきません。

この結果死罪が確定し。伝馬町牢屋敷で処刑されてしまいます。安政6年(1859年)10月27日、享年30でした。

でもどうして、聞かれもしないことを言ってしまったかは不思議に思いませんか。松陰に言わせると至誠を尽くして言葉を尽くして述べれば自ずから通じるという信念があったようです。

従って、どんな場合でも損得を考えずに持論を展開してしまうようです。その純粋さに多くの人が引かれるのかもしれません。また多くの門人が慕ったのかもしれません。

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吉田松陰とは?安政の大獄でなぜ殺されたかのまとめ

早熟の天才、吉田松陰の30年の生涯を解説しました。我々の感覚からするとどうしてこんなと思うような行動をするのですが、そこが吉田松陰の純粋なところなのでしょう。

世間の損得は関係なく、また、その行動の成否にもとらわれずひたすら自分の考えに忠実に進んでいったようです。そんなところが、後世の人の共感を呼ぶのかもしれません。

辞世の句は次のものが残っています。

両親に「親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん

弟子たちに「身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂

自らに「吾、今、国のために死す。死して君親に背かず、悠々たり天地の事。鑑照は明神にあり

辞世 吾今爲國死 死不負君親 悠々天地事 觀照在明神

処刑にあたっても全く取り乱すことなく、悠々と進んで、役人に一揖し、「ご苦労様」と言って端座したそうです。その堂々とした態度は幕吏も深く感動したそうです。

処刑にあたったのは、御様御用第七代の山田浅右衛門です。

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