渋沢栄一の後妻となる伊藤兼子は江戸随一の大金持ちと言われていた伊藤八兵衛の四女として生まれます。
兼子は近江から婿をもらい家業を行いますが、明治初期の為替取引によって大損を被ります。
それに実際にかかわったのがウォルシュ・ホール商会のロバート・W・アーウィンという人物です。彼はその後も渋沢栄一の海運業の事業にも関係を持つことになります。
伊藤八兵衛の没落はどのように起こったのか
伊藤八兵衛はもともと武蔵国川越の出身ですから、渋沢栄一とは近いと言えば近いですね。
伊勢長という江戸一番の質屋に奉公して、認められ、幕府の御用商人である伊藤家に婿養子に入ります。努力の甲斐もあり江戸一番の富豪になります。
幕末には水戸の天狗党の旗揚げに際して、即座に3万両の用立てができたといわれています。今のお金では3億円ぐらいだったでしょう。
1871年ごろアメリカのウォルシュ・ホール商会とドル為替取引の事業を行いましたが、取引失敗により、保証金、損失を補填のため大損害を被ったものです。
どんな取引だったのかわかりませんが、今で言えばFXみたいなものでしょうか。
この時のウォルシュ・ホール商会の担当者がロバート・W・アーウィンなのです。
しかも、実際の取引はアーウィンが行い失敗していたのですが、その損失隠しに日本側の伊藤八兵衛が関係していたとして領事裁判所は日本側の全面敗訴になってしまったものです。
伊藤八兵衛はカリフォルニアの裁判所に訴えようとしましたが、15万円ですから15億円の負債を抱えていたため、裁判費用が出せなかったといわれています。そして失意のうちに1878年に亡くなってしまいます。
伊藤兼子はこの頃どのようにしていたのか
伊藤兼子はこの取引が始まった頃、伊藤八兵衛の後継ぎ娘として近江から婿をもらっていました。ちょうど一つの絶頂期だったのではないでしょうか。
この後10年ぐらいで仕事が傾き、1882年頃には離縁しております。この夫が関係していたかどうかも分かりません。
子供がいたかどうかは定かではありませんが、一説には1872年に生まれた妹の絢子が兼子の子供ではないかとも言われています。
伊藤兼子は豪商 伊藤八兵衛の娘に生まれ、18歳で婿を取り家業を継いだが、明治4年頃に八兵衛がアメリカの商会と共同事業を始めようと保証金を渡したところ、取引失敗により大損失を出し、保証金の返還を求め裁判を起こしたものの交渉は決裂。
家は没落し、夫とも離縁している。#青天を衝け pic.twitter.com/I45bOKEZSL— 豆大福 (@ma_daifukuan7c) November 7, 2021
兼子は芸者として働くことから渋沢との縁談が
良いところのお嬢さんですから芸事は一通りできたのでしょう。
それなりの美貌の持ち主ですので、妾の申し入れは多くあったようですが、すべて断ったそうです。そして、妻の千代を亡くした渋沢栄一の話が持ち上がり、正妻ならということで嫁ぐことになりました。
偶然と言えば偶然ですが、渋沢が当時住んでいた家はかって兼子が住んでいた家だったそうです。そんなこともあるので、なんか縁もあったのでしょう。
既にその頃は渋沢栄一も社会で立派な役割を果たしていますので、相手としては十分だったのではないでしょう。
いずれにしろ、兼子にとっては、アーウィンは自分の生活を台無しにした不倶戴天の敵と思っても良いでしょう。一説によれば、「狐のアルピン」と言われていたようですから、やはり怪しかったかもしれません。
ロバート・W・アーウィンはその後どのように
アーウィンは1974年にウォルシュ・ホール商会を辞めて、横浜でエドワード・フィッシャー商会の共同経営者になっています。この時も会計処理のトラブルがあったようです。
しかし、経営はうまく運んだようで、鉱山経営と米穀相場の会社「岡田組」に出仕したり、三井物産の前身となる益田孝と密接な関係にもなっています。
アーウィンは三井物産、共同運輸の事業に関わる
1876年には三井物産の相談役、ロンドンでの代理店業務をおこない。三井物産の顧問にもなっています。
この時期に益田や渋沢栄一が岩崎弥太郎の三菱に対抗すべく設立した共同運輸の外国人支配人にもなっています。この時には兼子は知っていたはずですからどのような気持ちで見ていたでしょうか。
明治十四年政変で大隈一派を追放した薩摩閥は更に資金源の三菱を潰すべく井上馨=財界連合を引入れ共同運輸会社設立。共倒れの危機に陥るなか #岩崎弥太郎 は胃癌悪化で壮絶死し弟の #岩崎弥之助 が海運業撤退を決断。が鉱山,造船で三菱再興を果し晩年 #日本郵船 を取戻します⇒https://t.co/28eg9efueW pic.twitter.com/FJBmikOGZx
— 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ(略してグシャケン?) (@History_JP_5963) August 23, 2020
アーウィンはハワイ移民の仲介で莫大な富を築く
しかしこれだけでは留まりませんでした。1880年に重大な転機がおとづれます。
ハワイ王国の総領事館が不在になったため、アーウィンはハワイ王国の総領事代理に指名されます。横浜駐在ハワイ王国総領事官、駐日ハワイ王国代理公使、同弁理公使、同移民事務局特派委員に就任します。
この関係を生かしてハワイのプランテーションで働く日本人移民の仲介をすることになります。
全体で3万人が移民したそうですから、これによって莫大な富を築き、「移民帝王」とまで言われるようになったと言います。そして幸せの中で1925年8月に亡くなっております。
晩年を過ごした麹町の屋敷は衆議院事務総長公邸となり、1万坪の三田の本宅は三井家に売却し三井倶楽部となり、十数万坪あった玉川の別宅は五島家の邸宅と五島美術館が立っているそうです。
※渡部鼎
娘2人がアメリカの実業家ロバート・W・アーウィン(ベンジャミン・フランクリンの子孫)の2人の息子とそれぞれ結婚②【野口英世】
ほぼ独学で医師になる
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その後研究者になり北里感染病研究所へ入所
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研究所を視察したアメリカのサイモン・フレクスナーと知り合う pic.twitter.com/hhdUoGnJlR— ちゅーた (@wankolove_111) September 24, 2021
伊藤兼子の没落を招いたロバート・W・アーウィンのその後のまとめ
伊藤兼子の実家の没落を招いたロバート・W・アーウィンと伊藤兼子、渋沢栄一の関係を解説してきました。
兼子にとっては波乱万丈の人生だったのですが、渋沢栄一という伴侶を得ることで晩年は幸せに暮らせたことと思います。
それにしてもアーウィンは成功続きで幸せな人生を送ったようです。こんな様子を渋沢兼子はどのように見ていたのでしょうか。
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