永倉新八は幕末に剣客として新選組二番隊隊長として名をとどろかせていました。戊辰戦争を戦い抜き、明治になっても生き延びた数少ない方です。
るろうに剣心でも登場し、北海道を舞台に活躍しております。また、幕末、明治初期の映画にも登場しており、永倉新八の実像と虚像、数々の逸話について紹介します。
永倉新八の新選組からの生涯は?
天保10年4月11日(1839年5月23日)松前藩江戸定府取次役長倉勘次の次男として同藩上屋敷にて生まれる。
弘化3年(1846年)、神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。
剣術好きが昂じて脱藩し剣術修行の旅に出る。心形刀流剣術に見込まれて道場師範代を務める。近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となる。
浪士組に参加。新選組結成後は、二番組組長や撃剣師範を務める。
元治元年(1864年)の池田屋事件では、近藤や沖田総司らと共に池田屋に突入。
沖田が昏倒し、藤堂平助が負傷して離脱、永倉も左手親指に深い傷を負った中、防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。
幕府から見廻組格70俵3人扶持(京都見廻組隊士と同格の地位)に取り立てられた。
油小路事件では、原田らと共に御陵衛士を暗殺。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは決死隊を募って刀一つで突撃する。
新選組改め甲陽鎮撫隊として御親征東山道先鋒総督軍と甲州勝沼の戦いで戦う。
靖兵隊(靖共隊)を結成し北関東にて抗戦するが、会津藩の降伏を知って江戸へ帰還する。
【誕生日】
天保十年四月十一日(1839年5月23日)は #永倉新八 が生まれた日。
「世を挙げて太平を謡う天保十年四月十一日、江戸は下谷三味線堀なる福山藩主松前伊豆守屋敷の長屋で、現存の杉村義衛翁こと永倉新八が呱々の声を揚げた」『永倉新八』
写真の右から3人目が永倉新八(杉村義衛) pic.twitter.com/gwxjgPWZbv— 新選組の日々(旧暦) (@ysyf_1125) April 10, 2021
松前藩士として帰参が認められる。
明治4年(1871年)藩医・杉村介庵の娘・きねと結婚して松前に渡る。
明治15年(1882年)から4年間、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務める。
退職後は東京牛込にて剣術道場を開く。
明治32年(1899年)、妻と子供が薬局を開いていたため、小樽へ転居する。
明治42年(1909年)東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導する。
大正4年(1915年)1月5日、虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し、小樽にて死去。享年77。
墓所は小樽市中央墓地と札幌市里塚霊園、東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地の3箇所がある。
永倉新八のるろうに剣心での描かれ方は?
新選組の永倉新八は経歴のように明治以降は松前、空知、東京、小樽と転々としておりますので、どこかに接点があったかと言えば、設定することができますね。
空知では樺戸集治監(刑務所)の剣術師範をつとめています。
るろうに剣心ではこの時代に、緋村剣心となんと斎藤一とも再会して、お互いに協力し合う設定になっているそうです。斎藤一はほとんど北海道に行ったことがないのでまさかとは思いましたが、面白い設定ですね。
緋村剣心は長州方ですし、永倉新八と斎藤一は新選組ですから、本当は会ってもそんなに打ち解ける感じではないのですが、それでも、かっての動乱を駆け抜けたものとして協力し合っているようです。
確かに、この三人は明治政府に対しては斜に構えているものの、明治政府を壊すようなことは考えていないので、深いところではつながることができるのでしょう。
この時の、永倉新八はずいぶんアバウトなおじさんで、池田屋事件の時に三人が対峙したと、平気で記憶違いを披露しているそうです。そして、その回顧録を出すのだといっています。
そんなでたらめな回顧録が出たら大変なことになるところでしたが、実際はそれなりのものになって、後日出版されています。確か新撰組顛末記だったと思います。
永倉新八の新選組からの生涯におけるエピソード
屈指の剣豪として
新選組の組長格の中でも屈指の剣腕を誇り、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」といわれている。
「龍飛剣」と称する下段の構えから上へ敵の剣を擦り上げながら下へ切り落とす技を得意としていた。
鳥羽・伏見の戦い以後、土方歳三が不在時には隊長代務をこなすなど信頼も厚かった。
新選組時代の妻子
新選組時代、島原亀屋の芸妓・小常を妻としたが、娘・磯子を産んだ後に死別する。
磯子は永倉が退京する際に小常の姉に預けられ、明治33年(1900年)に関西の女役者・尾上小亀となりのち再会も果たす。
板橋駅のすぐ近くに建つ新選組供養塔。近藤と袂を分かちながらも、新選組への思いが増し、永倉新八が建立を決意したという。松平容保公題字の「近藤勇 宜昌 土方歳三義豊 之墓」に寄り添うように自らの墓も建て、新八に思いを馳せると胸が熱くなる。#気まま散策備忘録 #新選組 #永倉新八 pic.twitter.com/cUeF0ruT0J
— 一歩一会♪ (@oTApLMzOngIDK2p) February 4, 2021
永倉新八の晩年
明治27年(1894年)の日清戦争開戦時、55歳の永倉は抜刀隊に志願したものの、「お気持ちだけ」と断られた。
「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい」と自嘲したという。
晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通ったとされる。映画館の出口で地元のヤクザにからまれたが、鋭い眼力と一喝で退散させた。
新選組の顕彰につとめ、新撰組に好意的だった松本良順と共に東京都北区滝野川に近藤・土方の墓を建立している。
新選組時代に負った傷の由来を『七ケ所手負場所顕ス』として書き上げた。
晩年、酒に酔うとふんどし一枚になり、銃創を叩きながら、「お国のために働いた体だ。わしの誇りだ」と声を上げていた。
最晩年に、東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の剣道部員が永倉に指導を依頼した。家族は高齢を理由に反対したが、永倉は「形を教えるだけ」と言って指導に出かけた。
稽古中に体を痛めてしまい、馬車に乗せられ学生に抱きかかえられて自宅に帰ってきたという。
新選組の永倉新八の生涯と逸話を紹介のまとめ
新選組の数少ない生き残りの永倉新八の生涯と逸話をまとめてみました。それにしても厳しい戦いを生き抜いてきた人ですね。
明治になってやっとホットしたのではないでしょか。それでも終生、剣については、相変わらずこだわりがあったようですね。
永倉新八が語った新選組始末記があるおかげで、いくらか記憶違いはあるものの、当時のことも良く残っています。
日清戦争の抜刀隊に応募した話などはとても面白い状況でした。
また、私も昔「北の蛍」という映画で、永倉新八が出てくるのを記憶しています。
樺戸集治監を舞台にした物語で、看守に成りすましてその時の所長をつけ狙うという役だったと記憶しております。
でも実際は、堂々と剣術指導をしているわけですから、物語とは面白いものですね。
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