織田信長の美濃侵攻はどのよう進んだか。戦国大名への道

歴史人物

尾張国をやっと支配し、最大の危機であった桶狭間の戦いを制した織田信長は、東側の脅威がなくなったことで、美濃侵攻に取り組むことになります。

どうして美濃に侵攻しなければならなかったか、美濃侵攻はどのように進んだかを解説します。

 

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織田信長はどうして美濃に侵攻したのか

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長は東側の脅威が取り除かれたため、いよいよ美濃攻めに本格的に取り組むこととなります。

ところで、どうして美濃なのか説明したほうが良いのかもしれません。現代の地図で見ると愛知県には大きな濃尾平野があって、そのまま三重県に行ける形になっています。

新東名はこちらのルートですよね。何も岐阜県の方を迂回しなくても良いと感じるでしょう。

でも、戦国時代は地形が異なるのです。名古屋のほぼ真ん中まではまだ海です。今の熱田神宮は今の名古屋城がある那古野台地から砂州が海側に突き出たところにあったのです。

さらに、名古屋の西半分から先は木曾三川のためにほとんど泥地になっています。陸地は今の津島まで後退しています。

従って、そのまま三重県に渡るためには、名古屋から津島の方を回って山沿いに三重県に入るしかありません。

江戸時代になっても東海道ではこの熱田から宮の渡しと言って船に乗って、桑名まで行くのです。

京の方に安定的に行くためには中山道を通っていく必要があるので、むしろ美濃から回っていくほうがメインルートなのです。

現代と違って尾張よりも美濃の方が交通の要衝と言えるし、京都に近いのです。

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織田信長の美濃侵攻

時もおり永禄4年(1561年)に斎藤家当主斎藤義龍が死去してしまいます。義龍は織田信長の義理の父親にあたる道三を打ち破った本人です。

信長はその間何度か美濃に侵攻しますがうまくいきません。義龍の息子龍興が家督を継ぐことになります。わずか14歳の当主ですから、織田信長にとってチャンス到来と考えるでしょう。

織田信長は美濃に侵攻をはかります。森部の戦い、十四条の戦い、新加納の戦いなどがありますが、一進一退という状況です。

どうも尾張の身内との戦いではかなり強かったはずですが、美濃勢との戦いでは、ほぼ拮抗しています。どうも全国区と地方区の違いのようなものでしょう。

それだけ尾張の兵力は強くないようです。

永禄7年(1564年)に事件が起こります。斎藤家の家臣である竹中重治と安藤守就が造反して稲葉城を乗っ取る事件が起こります。

この竹中重治というのが、後の羽柴秀吉の軍師となる竹中半兵衛です。

これは龍興が国政を顧みないのに、業を煮やしての所業と言われています。本人たちは謀反を興すつもりはなく、半年ほど後に龍興に城を返しています。

そして、竹中と安藤はそのまま引き込んでしまいます。

永禄8年(1565年)、永禄9年(1566年)も引き続き、信長による美濃侵攻が続きますが、拠点の稲葉山城を落とすところまではいきません。

しかし、永禄10年(1567年)にはついに稲葉山城も陥落してしまい、斎藤龍興は木曽川から船に乗って、伊勢国の長島に逃げてしまいます。

これによって、織田信長は居城を稲葉山城に移し、天下を狙う立場に立つことができたのです。この戦いは7年の時間を要する戦いとなりました。

この時から「天下布武」を使うようになります。ここで示す「天下」は機内のことを示しており、必ずしも全国統一という意味ではありませんが。

美濃を平定することにより、戦国大名としての京への展望が開けてきたのです。

ずいぶん後の戦い方に比べるとゆっくりしているでしょう。それだけまだ織田信長には実力が備わっていなかったということです。

それでも、こうして苦労して尾張、美濃の二国を支配したことから、いよいよ力がついてきます。織田信長34歳です。

この戦いの中で有名なのは、秀吉の功績と言われる墨俣一夜城です。実際に墨俣に行ってみるとお城が復元されていますので、本当かと思うのですが、真偽のほどは不明のようです。

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織田信長の美濃侵攻はどのよう進んだかのまとめ

 

尾張国一国をやっと手に入れて、桶狭間の戦いに勝利した織田信長が美濃攻略を経て戦国大名の仲間入りを果たすまでを説明しました。

当時の尾張国の実力では美濃一国を平定するのに七年も有してしまいましたが、これによって織田信長は義理の父斎藤道三の所領を受け継ぐことができました。

美濃から京へは100kmの距離です。これによって戦国大名への道が大きく開けたことでしょう。

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