西郷隆盛はなぜ征韓論に加担したのか?当時の朝鮮と日本の国情から

歴史人物

西郷隆盛と言えば、幕末の英雄、明治維新の五傑、征韓論を主張し下野した後、西南戦争を起こして自決した人として知られています。

どうして日本と関係ない朝鮮との関係が当時の日本の大激論になってしまうのかはっきりしませんよね。しかもこの征韓論には、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎という有力な人たちが提唱しているのです。

朝鮮が攻め込んでくるならいざ知らず、門戸を閉ざしている朝鮮を無理やり開国させようとするのですから。朝鮮にしてみれば余計なお世話と思うでしょう。この原因を双方の立場から解説していきます。

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日本で征韓論が提唱されるきっかけは何だったか

江戸時代には日本と朝鮮は朝鮮通信使に見られるように一応の国交は維持されていました。

明治政府対馬藩を窓口に朝鮮に対して、新政府ができたことをお知らせし、引き続き国交を望むよう交渉を行います。ある意味当然ですよね。今でも政権が変わった時に、引き続き諸外国にも変わったことと引き続き国交を維持しようとしますね。

しかし、朝鮮は日本側から提出された文書の受け取りを拒否します。これは大変失礼な対応になります。どうしてこうなったのでしょうか。

実は、江戸時代までは将軍ですから、日本国大君又は日本国王として文書を出しています。明治時代になれば日本国天皇になりますから、皇帝又は天皇という言葉を使うことになります。

これは、清を宗主国とする朝鮮にとっては皇帝は清国の皇帝を示すもので、日本がこの言葉を使うのは失礼な文書となるようです

明治3年(1870年)2月、9月にも使節を明治5年(1872年)1月にはわざわざ対馬旧藩主を派遣、9月も使節を派遣しますが、事態は変わりません。明治6年4月、5月には、ボイコットなども行なわれています。

こんなことですから、朝鮮を正すために征伐しろという声も高まるわけです。

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当時の朝鮮の状況を調べると意外なことがわかります

朝鮮の強硬姿勢は何も根拠がなかったわけではありません。数々の成功体験に裏打ちされているのです。

丙寅洋擾(へいいん ようじょう)でフランスに対して勝利する

1866年10月にフランス人宣教師9名を処刑し、キリスト教に改宗した住民を虐殺したことから朝鮮とフランスで起こった戦争です。

フランス兵800名とフランス極東艦隊を派遣します。最初は江華島に上陸し、漢江を封鎖しようとしますが、最終的には撤退します。

辛未洋擾(しんみ ようじょう)でアメリカの進出を防ぐ

1866年7月アメリカのシャーマン号と住民の争いでシャーマン号が焼き討ちされ、乗員が殺害される事件がありました。これへの報復として1871年にアメリカのアジア艦隊5隻が江華島に向かいます。

砲撃と上陸で朝鮮側死者240名、アメリカ側死者15名戦いはアメリカの勝利になりますが、持久戦となり、通商交渉は全く朝鮮に拒絶され成功を収めることができませんでした。

尊王攘夷を掲げて外国に立ち向かった日本が、薩英戦争、下関戦争で負けたことと対照的ですね。

こんなことがあって、当時実権をふるっていた、大院君のもと鎖国政策を堅持していたのでした。同時に、大院君は「日本夷狄に化す禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告も出しています。ついに日本人も今までの伝統を捨てて、西洋の野蛮人の仲間になったので、付き合う必要はないというものです。

こんな成功体験があるので強気になるのも理解できますよね。

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日本側は根深い尊王攘夷思想により朝鮮をみていた

日本にも問題がなかったかというとそういうわけではありません。実は幕末から深く根付いた尊王攘夷思想が背景にあるのです。攘夷の方は明治維新の過程で無謀ということになって捨て去られてしまいますが、尊王の方は捨てられません

さかのぼれば、古事記、日本書紀のところまで行きついてしまいます。戦前に古事記、日本書紀の内容が信じられていたのと同じことです。教育で無理やり教えたのではなくてもともとそういう背景があったのです。

朝鮮半島との経緯を調べてみれば一貫して日本が朝鮮半島に支配権を確立していたという記述があります。

神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐の記述

仲哀天皇9年に天皇の意志を継いで、神功皇后は海を越えて新羅、百済、高麗を服属させたとされています。

任那日本府をはじめとするの朝鮮半島支配の歴史

崇神天皇から天武天皇にかけて朝鮮半島のたびたび侵攻していて勢力下においていたとの記述がなされています。いくつか取り出せば次のようになります。

倭の五王が三韓において軍事行動をしたり、百済との特別な関係を結んだりもしています。

欽明天皇の時代には任那日本府まで顕れています。その後、新羅に調を要求もしています。

推古8年(西暦600年)倭国は任那を救援するために新羅へ出兵します。翌推古9年(601年)3月には、百済へ派遣し、任那救援を命じます。

推古10年(602年)2月、聖徳太子の弟来目皇子が新羅征討将軍として軍二万五千を授けられる。

大化2年(646年)2月まで任那は高麗・百済・新羅とともに倭国へ調を納めていたことになっています。

当時の尊王思想を踏まえた朝鮮に対するとらえかた

すなわち尊王に徹すれば、もともと朝鮮半島は日本国の保護下にあって、たびたび影響を与えているということになります。たまたま近年は鎖国をしていたので外征はしないが、本来は日本の影響下にあるのだという考え方です。

従って尊王思想が強ければ強いほど、朝鮮を討つべしということになってしまいます。

朝鮮が清国を宋主としてむしろ日本に対しては弟と位置付けているのは真逆の考え方です。こんなことですから、朝鮮が日本の提案を拒否すれば、けしからん征伐せよということになってしまうのです。

しかも征韓論の韓の字も変ですよね。相手国は朝鮮です。ここにも古代の三韓時代の発想が残っているのです。

さて、西郷隆盛です。もともと征韓論は西郷隆盛が主張したわけではなく、尊王思想に根付いた人がたくさんいますので、その中から自然に沸き起こってくるのです。

理屈ではなく、もともと自分の支配していた地域だという発想が残っているのです。そして、その征韓論が大きなうねりになってきたときに西郷としてもこちらの方に進んでいくことになるのです。

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西郷隆盛はなぜ征韓論に加担したのか。日本の背景と李氏朝鮮の国情からのまとめ

征韓論については、いち早く西洋化を成し遂げた日本が、まだ開国していない朝鮮を説得して何とか近代化を成し遂げるために提唱されたと昔教えられたような気がします。

その時はそんなものだと思ったのですが、よく考えれば余計なお世話ですよね。これがどうもすっきりしなくて、征韓論について朝鮮の立場、日本の立場から調べてみることにしました。

確かに外交使節を全く拒絶するのは失礼なことですが、征韓論が起こる心理的背景としては、尊王攘夷思想にも原因があると考えています。

その他にも、戦略論として、吉田松陰、橋本佐内、勝海舟なども列強に立ち向かうためには、何とか朝鮮を支配下に押さえて、日本を守ろうなどと提唱しています。

地政学的には理解できますが、この発想もやはり尊王思想の影響を受けているのではないでしょうか。

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