勝海舟は何をした人?無役からチャンスを生かした軍艦奉行への道

歴史人物

勝海舟というと一般に幕末にあって西郷隆盛と幕府代表として江戸無血開城の交渉をしたことで有名ですが、これ以外のことは知られていません。

勝は江戸幕府の中でも出自が良いわけではありませんが、その彼がチャンスを生かして無役から幕府を代表する地位にどの様についていったかを解説していきます。そして、難しい時代にどの様に対処していくかを学ぶ参考になることと思います。

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勝麟太郎(海舟)の出自と生まれ

勝麟太郎(海舟)文政6年(1823年)江戸本所亀沢町の生まれになります。曾祖父は越後の貧農の盲人であったが、江戸で高利貸をして大富豪となり、朝廷より検校を買官することができます。

そして息子に御家人・男谷家の株を買うことになります。その息子の孫が勝麟太郎の父親の子吉です。子吉は勝家に婿養子に出されます。

江戸時代は身分制度が厳しいものだと思っていましたが、意外とこんなところで身分間の入れ替えがあるものなのですね。

勝家は徳川にあっても古参の幕臣であったが、無役の旗本の家です。天保9年(1838年)子吉の隠居で家督を相続します。時に15歳です。

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勝麟太郎(海舟)の修行時代のエピソード

剣術は実父子吉の実家の縁石にあたる道場で直新陰流の免許皆伝となります。また、兵学も山鹿流兵法を学んで、蘭学も一通りこなしています。やはり、武家の子弟というのは大変ですね。

蘭学修行中に辞書を1年かけて2部筆写して一部を売って資金としたとの有名な話があります。昔は苦労していますね。この辞書「ドゥーフ・ハルマ」は単語数5万語、総3千頁、全58巻の大著です。

年10両(120万円ぐらい)で蘭医から借り受け、それを一部は自分用、一部は30両とも60両とも言われる金額で売ったそうです。

うまくいけば400万程度のもうけになりますから、一石二鳥のアルバイトですよね。それでも大変だったと思いますが。これが25歳ごろの話です。

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勝海舟はペリー来航を機に長崎海軍伝習所へ

嘉永6年(1853年)ペリー艦隊が来航し、開国を要求することになります。幕府老中首座阿部正弘は海防に関する意見書を広く募集することになります。

これがなんと大名どころか町人まで提出してよいということですから、幕府も本当に困ったことなのでしょう。ペリー来航の可能性はそれまでに幕府に伝わっていたにもかかわらずですから、本当に人材が不足していたかもしれません。

勝麟太郎(海舟)が提出した意見書の内容は次のようなものだったようです。

まずは、幕府の心情を述べていきます。共感を得るためです。アメリカの黒船が江戸の内海まで侵入し、何の断りもなく、測量をするのはけしからん。

次に、自分の立場を客観的に述べます。自国の軍備は時代遅れで、外国からも侮られる状況になっている。

三番目に大局的な軍事改革の必要性を、兵制、軍法、訓練、江戸湾の防備について述べます。

四番目に江戸湾の現状、五番目に具体的な今後の江戸湾の砲台整備を述べます。

六番目に、軍艦の必要性を述べますが、操艦のための人材育成が必要なので時間がかかること、七番目に人材育成から軍艦建設のための工業化の必要性を述べて、それまでのつなぎとして、砲台整備で時間稼ぎをすることを提唱します。

最後に、これらの手順を確実に一つずつ実行することを提唱しています。

この意見書が老中阿部正弘の目に留まり、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて役を得ることができました。自分の努力でつかむことになったのです。安政2年(1855年)32歳のことでした。

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勝海舟の長崎海軍伝習所及び渡米

勝海舟はここで5年ほど勉強をすることになります。しかし、オランダ語は良かったのですが、船酔いに苦しんだことと数学が苦手だったようです。

しかし、良いこともあります。安政5年(1858年)には薩摩を訪れ藩主島津斉彬にも知遇を得ることになります。安政6年には江戸にもどり、軍艦操練所教授方頭取に命じられます。

万延元年(1860年)日米修好通商条約の批准書交換のため渡米使節を米国に送ることになります。正使、副使、目付はアメリカ海軍の船で渡米しますが、咸臨丸も同時に出発します。

この教授方頭取として勝海舟が乗り込みます。咸臨丸には、通訳のジョン万次郎福沢諭吉も乗り込んでいます。

咸臨丸は日本人による操船で太平洋を渡ったことになっているが、少なくとも行きは日本人は船酔いで全く役に立たなかったようです。帰りは操船して帰れたようですが。

いずれにしろ、この140日の渡米は勝海舟に新たな目を見開かせたことでしょう。

帰国後は、蕃書調所頭取助、翌年には、講武所砲術師範となります。

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勝海舟は幕府と諸侯の海軍創設をめざすが

文久2年(1862年)軍艦操練所頭取、軍艦奉行並に就任した。

文久3年(1863年)将軍徳川家茂を乗せて、大阪から神戸まで航行した時に、将軍家茂に神戸が天然の良港であるので貿易拠点にするよう進言し、受け入れられます。

また、神戸海軍操練所設立の許可が下りたので、勝海舟の私塾もここに開設することにします。そして元治元年(1864年)には軍艦奉行に昇格神戸海軍操練所も設立されたが、勝海舟が目指す日本の海軍とは違う方向に政治は動いていきます。

やはり、政治体制からはどうしても藩の枠組みが乗り越えられない人が多いのです。幕府も幕府だけの海軍を目指していますのでどうしてもかみ合いません。

最後は、軍艦奉行を罷免され蟄居生活を送ることになります。理由としては勝海舟が幕府の海軍ではなく諸侯と幕府を合わせた海軍を目指していたこと。神戸の私塾で怪しげな脱藩浪人を抱えていたことなどが挙げられます。

これに伴い、神戸海軍操練所と私塾も閉鎖となります。しかしこんな時にも勝海舟は西郷隆盛とも会談しております。

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勝海舟は長州征伐後の宮島会談で久しぶりに政治の場に復帰するが

慶応2年(1866年)軍艦奉行として復帰することになります。そして会津藩と薩摩藩の対立解消を図りますが、勝海舟は成功したつもりでしたが、完全な思い込みで失敗だったようです。

次は、徳川家茂亡き後に継いだ徳川慶喜から、第二次長州征伐の停戦交渉を任されます。海舟は宮島まで乗り込み交渉にあたりますが、幕府側撤退の際には追撃しないことでとりあえずの約束を取り付けます。

しかし将軍慶喜は停戦の勅命を朝廷から取り付けてしまい、とっととはしごを外してしまいます。徳川慶喜の良くやることですね、相手のことをほとんど考えないのですから。

勝海舟はすっかり怒ってしまい、お役御免を願って江戸に帰ってしまいます。大政奉還まではこんな様子ですから、江戸でぶらぶらしていたようです。

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勝海舟は何をした人?無役からチャンスを生かした軍艦奉行への道のまとめ

勝海舟の幕末までの世に出るきっかけから幕府の海軍、さらに、幕府と諸侯の海軍を目指しての活動を解説してきました。

若い頃は本当に苦学して、少ないチャンスをものにして、活躍する糸口を見つけてきた人です。そして最初は海軍そのものから入って、最終的には幕藩体制にものを申す立場になっていきます。

しかし、幕府中心、藩中心の人からはなかなか理解されずにうまくいきません。最後の長州との宮島会談などはいかにも徳川慶喜らしい采配で、すっかり、翻弄されてしまい、勝海舟の悔しがる姿が手に取るようです。

このように、仕事の内容では評価されるが、今一つ成果が上がらない大政奉還までを解説しました。

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