第46代孝謙天皇とは?6人目の女性天皇の生い立ちと治世は

歴史人物

第46代孝謙天皇は父は聖武天皇、母は光明子です。どちらも歴史的には有名な人ですが、その実態は我々が想像するのとどうも違うようです。しかし、孝謙天皇はその穴を埋めて、治めていたようです。ここでは、主に、孝謙天皇の天皇時代、上皇時代の内容を解説します。

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第46代孝謙天皇の生い立ち

阿倍内親王(孝謙天皇)は父・聖武天皇で母は史上初の人臣から皇后になった光明子の間に養老2年(718年)に生まれました。

弟の基皇子は1歳で早世してしまいますし、安積皇子は有力な後ろ盾がいないため即位はできない状態でした。

このため、天平10年(738年)史上初の女性皇太子となります。天平勝宝元年(749年)聖武天皇が譲位して即位します。

聖武天皇は我々の印象では、天平文化の時の代表的な天皇だと思っていたのですが、どうも政治には関心がないようなイメージですね。

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第46代孝謙天皇の治世

藤原四兄弟の長男藤原武市麻呂の次男である藤原仲麻呂が勢力を伸ばしており、聖武天皇時代に活躍していた橘諸兄と拮抗するまでになっていた。光明皇太后と藤原仲麻呂で実際の政治は仕切られていたようです。

孝謙天皇皇太子道祖王を廃嫡する

天平勝宝8年(756年)聖武上皇が崩御します。天武天皇の息子である新田部親王の道祖王(ふなどおう)を皇太子とする遺訓を残しました。

孝謙天皇はこれに従いますが、どうも素行が悪いようで、1年後には皇太子を廃してしまいます。多分どこからの入れ知恵なのでしょう。

その理由としては次のものが挙げられています。

先帝(聖武)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失した。

宮中の機密を巷間に漏らした。

孝謙天皇がたびたび戒めても、悔い改めず、むしろ婦人の言うことを好んで取り上げるなど、態度が改まらなかった。

夜中に勝手に東宮を脱けだして私邸に戻ったりした。

自ら「自分は愚か者で皇太子の重責には耐えられない」と述べた。

このため、天武天皇の息子である舎人親王の子である大炊王(おおいおう)を皇太子としました。

藤原仲麻呂の勢力拡大と橘奈良麻呂の乱

藤原仲麻呂の勢力が増していくことに対して、橘諸兄が謀反のうわさが立ちます。さすがに不問となりましたが、このことで橘諸兄も職を辞し2年後に亡くなっています。

橘奈良麻呂は橘諸兄の息子ですが、孝謙天皇を廃して、新帝を擁立する計画が発覚し、橘諸兄の系統は粛清されてしまいます。これを橘奈良麻呂の乱と言われています。

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孝謙天皇は譲位して淳仁天皇が即位する

天平宝宇2年(758年)病気の光明皇太后に仕えるために大炊王に譲位し、太上天皇となります。淳仁天皇の誕生です。ここらの感覚がわからないのですが、女性だからでしょうか。

この頃が藤原仲麻呂の絶頂期です。仲麻呂は大炊王から藤原恵美朝臣の姓と押勝の名前が与えられます。そして官職の唐風改称を行うようになります。

天平宝宇4年(760年)藤原仲麻呂は太師(太政大臣)に任命されるまでになります。この人事も、事実上は孝謙上皇が突然宣言し、淳仁天皇が追認する形となっています。

つまり、淳仁天皇が即位しても、かなりの部分は孝謙上皇がかってに仕切っている状態です。

この頃では孝謙上皇42歳で、淳仁天皇も27歳ぐらいです。15歳の開きがあるといっても、かなり判断力がある歳ですから気の毒ともいえます。

しかも制度上は天皇の権限ですので、それだけ孝謙上皇の影響力があるということでしょう。

弓削の道鏡の登場

その後、光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と淳仁天皇の関係はぎくしゃくしてきます。そして弓削の道鏡の登場となります。

天平宝宇5年(761年)病に臥せった孝謙上皇は、看病にあたった弓削氏の道鏡を寵愛するようになります。次の年になっても孝謙上皇は法華寺に居を定めて、平城宮に戻らなくなります。

更に孝謙上皇は淳仁天皇が不孝であると宣言し、政務は自分が取ることを宣言してしまいます。ここらの件については、道鏡の重用を淳仁天皇が非難したことが契機になっています。恐ろしいですね。

天平宝宇7年(763年)から天平宝宇8年(764年)には、道鏡、吉備真備が孝謙派として要職に就き、藤原仲麻呂の子たちが淳仁天皇派として主に軍備につくようになります。

藤原仲麻呂の乱

藤原仲麻呂の軍事的な準備の進捗に対して脅威を覚えた孝謙上皇は、淳仁天皇のもとから軍事指揮権の鈴印を回収してしまいます。

こうなっては、軍備の指揮権がなくなって、藤原仲麻呂は朝敵となります。逆に、藤原仲麻呂は太政官印を奪取して近江国に逃走したが殺害されてしまいます。

ここら辺はおかしいですよね。鈴印にしろ太政官印にしろ単なる印と我々は思うのですが。こんなものが権威の象徴となって、この物によって権力が動くものなのでしょうか。

仲麻呂が殺害されたため、藤原豊成を右大臣、道鏡を大臣禅師とします。

ついには淳仁天皇を廃して大炊親王として淡路に流刑とします。これを藤原仲麻呂の乱と言います。

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第46代孝謙天皇の生い立ちとその治世のまとめ

第46代孝謙天皇の生い立ちと治世での出来事を解説していきました。確かに能力のある天皇なのですが、例えば、光明皇太后の世話をするために譲位するとか、譲位した後も政権を手放さずに上皇として思いっきり権力をふるうとか、とかく問題のある行動がある人です。

更に弓削の道鏡があらわれると、どんどんおかしくなりますね。こんなところがとても人間らしい感じがします。そんなことで振り回される下々はたまりませんが。

孝謙天皇は再度重祚して称徳天皇になります。その時の様子はこちらをご覧ください。

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