明正天皇とは?女帝として850年後に即位した理由とその背景は?

歴史人物
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奈良時代の孝謙天皇、称徳天皇から女性天皇は久しく登場しませんでした。しかしながら、江戸時代に入り850年を超えて、久しぶりに7人目の女性天皇が登場します。

これが109代の天皇にあたる明正(めいしょう)天皇です。この登場の背景として、徳川幕府と朝廷との厳しい関係の結果ともいえます。そんな若き明成天皇について解説します。

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明正天皇の誕生と即位

明正天皇は後水尾(ごみずお)天皇の第二皇女になります。母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の娘東福門院源和子です。元和9年(1624年)に生まれます。

寛永6年(1629年)7歳で興子内親王となり、突然、父の後水尾天皇が譲位したことにより即位してしまいます。7歳ですから即位させられたといったほうが良いでしょう。

称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇の誕生です。また、徳川将軍家を外戚とした唯一の天皇になります。

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後水尾天皇の譲位の理由

実は後水尾天皇の突然の譲位は江戸幕府成立期の朝廷との様々な緊張関係が反映されたものです。ここを説明しておくこととします。

後水尾天皇の前は父親の後陽成天皇でした。後陽成天皇は第1皇子良仁親王を廃して、自らの弟・八条宮智仁親王をたてることを望んでいましたが、徳川家康の介入に会います。

良仁親王の廃位は認められましたが、弟への譲位は認められず、第3皇子の政仁親王にするよう求められます。これが後水尾天皇です。

後陽成天皇は従いますが、息子の後水尾天皇との関係は不仲となります。これは、ついに解消されませんでした。

慶長18年には禁中並公家諸法度が制定され、幕府の管理下に置かれるようになります。

更に後水尾天皇にとっては厳しい試練が待ち受けています。

およつ御寮人事件

大御所徳川家康は孫娘和子の入内を申し入れ、正式に決定します。

しかし、元和4年、天皇と寵愛されている女官四辻与津子との間に皇子・皇女がいることが問題視され、関係者の処分、配流、与津子の追放・出家を強要されます。これをおよつ御寮人事件といいます。

これは、平安時代末期、高倉天皇の寵愛する小督を追放した平清盛と同じパターンですよね。いつの時代でも人間のやることは大差ないということです。

紫衣事件

寛永4年(1627年)には、後水尾天皇が慣例通り幕府に相談することなく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えたことを知り、幕府は禁中並公家諸法度違反として、紫衣を取り上げるよう命じます。

これに対し、朝廷、高僧も幕府に抗弁したが、反抗した高僧たちは流罪とされた。このように天皇の勅許よりも幕府の法度が優先することを見せつけられることになりました。

更には無位無官の春日局が宮中に参内することもありました。

こんなことがあったので、後水尾天皇は耐えられなかったのでしょう。幕府への当てつけもあったのでしょう。

しかし、別の見方もあるようです。後水尾天皇は徳川幕府のこのような干渉に対抗するため、古来より女性天皇は生涯独身という不文律を逆手にとって、譲位したともいわれています。

これによって徳川の系統は明正天皇一代で終わってしまいます。となると、両権力のはざまで無理やり即位、譲位させられた明正天皇はかわいそうですよね。

後水尾天皇は法皇のままですから、禁中並公家諸法度の影響を受けませんから。

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明正天皇の治世

明正天皇の治世と言っても寛永6年(1629年)7歳で即位し、寛永20年(1642年)21歳で譲位して、太政天皇になっているので、ほとんど自分が判断することはなかったでしょう。

父親の後水尾天皇が院政を敷いていたのでほとんどお飾りであったと思われます。とても気の毒ですね。

さらに、譲位直前には、朝廷に関する関与禁止、親戚にも年始以外の面会禁止、両親には会えるが、それ以外には同行者が必要など、外部との接触が厳しく制限されてしまいます。まるで軟禁状態です。

山科の勧修寺にある宸殿と書院は、明正天皇が生活した御殿を、明正天皇の死後に移築したものだと言われています。

書院にある土佐光起親子が書いたと言われる障壁画は、江戸幕府や後水尾上皇らの許可なしには外出や他人との面会もままならない一生を過ごした明正天皇を慰めるために、畿内の名所を描いたものであると伝わっています。

こんなことでどんな生活をしていたか分かりませんが、元禄9年(1696年)74歳まで生きたようです。

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明正天皇とは?女帝として850年後に即位した理由とその背景のまとめ

このように明正天皇の人生について解説しました。せっかく天皇になっても21歳で退位してしまった後はどのように暮らしていたのでしょうか。仙洞御所で暮らしていたともいわれています。

徳川家康の孫にあたりますので幕府の庇護もあったので案外豊かに暮らしていたともいわれています。明正天皇については、諸芸に秀でたといわれ、ご真筆の「三十六歌仙画帖」が京都の実相院に残っているとも言われています。

また、後年明正天皇が帰依した十禅寺には、復元された短冊型の庭石とともに、現在も「明正天皇ゆかりの人形」が、寺宝として残されています。

なお明正天皇の名前は同じ女帝の元明天皇と元正天皇から一字ずつ取ってきたと言われています。

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