元正天皇とはどんな女帝?どのように皇位を継ぎ業績は?

歴史人物

第44代の天皇・元正天皇は元明天皇から直接譲位された5人目の女帝です。女帝から女帝への譲位は空前絶後のこととされています。

この方の治世には、日本書紀の成立、養老への改元、長屋王の変など様々な出来事、事件が起こっています。天皇の即位の理由、業績、人となりを解説していくこととします。

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氷高皇女(元正天皇)の誕生

氷高皇女(元正天皇)天武天皇9年(680年)父、草壁皇子、母は元明天皇のもとで長女として生まれました。草壁皇子は天武天皇と持統天皇の息子で、その頃は皇太子となっておりました。

後に軽皇子(後の文武天皇)も生まれます。

父・草壁皇子は即位する前に亡くなったため、その母親である持統天皇が即位します。その後、軽皇子が文武天皇として即位します。

このように、最初の危機は乗り切ったのですが、文武天皇は慶雲4年(707年)病気のため崩御してしまいます。まだ25歳でしたので、文武天皇の遺児、首皇子は皇位を継ぐことが来ません。

そこで、文武天皇の母である阿部皇女が元明天皇として即位します。

霊亀元年(715年)元明天皇は老齢のためと言っても当時54歳ですが、また首皇子がまだまだ14歳と若いため、娘の氷高皇女に譲位します。これが第44代の元正天皇の始まりです。

第42代文武天皇からは姉になりますし、第43代元明天皇からは娘になります。また、軽皇子(後の聖武天皇)から見ると伯母にあたります。

譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と絶賛されています。

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第44代の天皇である元正天皇の業績は

このような経緯で天皇になったのですが、元正天皇はどのような事業をした人なのでしょうか。

養老律令

養老元年(717年)藤原不比等らが中心となって、編纂を始めますが、720年に藤原不比等の死によって中断してしまいます。やっと40年後の、757年に施行されることになります。

大宝律令に続く律令として、明治維新まで存続することになります。

三世一新法

養老7年(723年)に口分田の不足を解消するために、新しい田を開墾した者は三世代まで私有を認める制度です。中学、高校で習いましたよね。

これによって開墾面積を増やすことができますが、結果的に続かなくなるし、公地公民の制度の崩壊につながったといわれていますよね。この制度は長屋王の計画によるものと言われています。

日本書紀

養老4年(720年)日本書紀が完成します。

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元正天皇の譲位

養老8年、神亀元年(724年)、皇太子に譲位し、太上天皇となります。譲位後も聖武天皇が病気がちのときには後見人としての立場で補佐しています。

それも相当長期になっており、20年後の天平15年(743年)に至っても、政務に携わっています。その頃には、元正上皇と橘諸兄、藤原仲麻呂と政務を行っていたといわれています。

天平20年(748年)69歳で崩御します。

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長屋王の変について

元正天皇の時代に起こった大事件である長屋王の変についても述べておく必要があります。

長屋王はどのような生まれでどんなことをした人

長屋王は太政大臣高市皇子、持統天皇の政治を支えた功労者、の長男です。養老4年(720年)藤原不比等が亡くなると、翌年には右大臣となり政治の主導者となります。

決して家柄だけではありませんし、藤原不比等も期待しており、かなりのことを学んだようです。

養老4年(720年)、神亀元年(724年)大規模な蝦夷の反乱がおこります。隼人や蝦夷の反乱対策にも力を注いでいます。基金や疫病の発生についても税の免除を行っています。

また、開墾政策としては、百万町歩開墾計画を勧めたり、三世一身法を行ったりしています。

勧進に対する統制強化・綱紀粛正策も行っています。神亀4年、5年(727年、728年)いわゆる4段階の勤務評定をしております。最上、次上、中等、下等に分けて、下等は官職を解かれたりしています。

かなり厳しい綱紀粛正策だったようで、その他の官人には冷たいと言われている。

長屋王の変・藤原四兄弟との関係

神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同時に、左大臣になります。この時問題が起こります。聖武天皇の生母藤原宮子を「大夫人」と称する勅を発します。

ところが、長屋王は「皇太夫人」と称すべしといって公式令に習うべきと主張します。実は、長屋王の主張の方が正しいのです。

結局は、聖武天皇が誰かから入れ知恵されて、決めてしまったのでしょう。このため、文章上は「皇太夫人」、口頭では「大御祖」と呼ぶことで収拾されます。これが、藤原四兄弟の不満につながります。

実は、聖武天皇は、母親が皇室の親族ではなく藤原不比等の娘です。しかも病弱で性格が弱いということから、どうも天皇としての資質に欠けるのではないかとみられていました。

藤原四兄弟は更に動きます。神亀4年(727年)光明子の皇子を基王を皇太子にしてしまいます。しかし、これも虚しく、基王はすぐに亡くなってしまいます。聖武天皇には非藤原系の安積親王しかいない状態になります。藤原系としては焦りますよね。

しかも、長屋王と吉備内親王の子女は霊亀元年(715年)に皇孫として扱う勅令が出ています。このままでは、いったん聖武天皇に万一のことがあれば、長屋王に皇位が行ってしまいます。藤原系には全く芽が出ません。

そこで最後の手段です。神亀6年(729年)密告により、藤原宇合の軍勢が邸宅を包囲します。尋問により、長屋王、吉備内親王及びその親族の諸王は自殺に追いやられます。これを長屋王の変と言います。

これにより光明子は始めた非皇室系の皇后になることになります。

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元正天皇とはどんな女帝?のまとめ

第44代元正天皇についてはあまり知られておりませんが、業績から言えばとても立派な方だったことがわかります。

しかも聖武天皇が天平時代の中心として脚光を浴びますが、どうやらほとんどのことを元正天皇がしていたようです。これも後の藤原時代の影響なのでしょうか。

そういう意味で、両者の関係を見直す必要があると思います。

また、長屋王も資質はとても立派で、律令体制を維持するために相当な事業を行っていました。本人も自信満々だったと思います。そんな時に足をすくわれることになります。

それでもその前の厳しい綱紀粛正の影響が大きかったような気がします。そのために、体制内に支持者がほとんどいなかったのでしょう。周りに気配りができていれば、こんな目に合うこともなかったでしょう。

実力もある、家柄も良い人が起こしやすい誤りかも知れません。いつの世も、とても教訓になる事件です。長い間続いてきた、皇室関係者による政治がついに終わりを告げる時が来たようです。

元明天皇についてはこちらをご覧ください。

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