島津斉彬、西郷隆盛を見出した名君、薩摩藩第11代藩主の生涯は

歴史人物

島津斉彬は幕末第一の名君と言われている方です。

人材登用では西郷隆盛、大久保利通を用いたほか、殖産興業の面でも、西洋式軍艦、蒸気船の建設など西洋の技術を取り入れて、スケールの大きな政策を展開した方です。

その方の生涯と業績を説明します。

 

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島津斉彬、西郷隆盛を見出した名君と言われる薩摩藩第11代藩主の経歴

文化6年3月14日(1809年4月28日)島津斉興の長男として生まれる。

曾祖父第八代藩主重豪の影響を受けて洋学に興味をもつ。

嘉永4年(1851年)2月斉興が引退。藩主に就任。41歳。

嘉永4年(1851年)8月中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護。

安政元年(1854年)洋式帆船「いろは丸」を完成。

安政5年(1858年)安政の大獄に抗議のため5,000名を率いて上洛の準備中に発病。

7月16日死去。49歳。

 

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島津斉彬、西郷隆盛を見出した名君と言われる薩摩藩第11代藩主の業績

島津斉彬の生涯の業績をいくつか昇華していきます。

藩内の人材登用

藩内の人材登用を積極的に進め、身分の上下を問わず西郷隆盛、大久保利通ら、後の維新の志士となる人材を登用した。さらに、その登用した人材からも慕われる度量の広さも持っていた。

自身の藩主着任に反対していた、お由良その一派についても粛清することなく遇している。特に弟の久光についても登用しており、人材登用に私情を挟むことが少なかった。

この裏付けとして、島津斉彬言行録に「君主は愛憎で人を判断してはならない」、「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない」など、

今となってはあたり前であるが、当時としては画期的な考え方を示している。

 

西洋からの技術、工業力の導入

自身も西洋に興味を持っていたことから、技術、工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見抜いていた。

このため、藩の富国強兵に努め、西洋式軍艦、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造、綿紡績などの事業を興した。

特に、ガラス製品製造のうちガラス工芸品は薩摩の紅ビードロとして珍重され、特産品として、海外にも販売されている。

 

藩の財政力の強化

薩摩藩では先代より、琉球を通じた貿易で多大な利益を挙げていました。

さらには、ニセ金づくりもしていたようですが、はっきりしたことはわかりません。このような資金源があったことから、西洋技術の取り入れも比較的容易にできた背景があるようです。

更に、こんなこともあったようです。寛永通宝を天保通宝に改鋳することで利益を得られること目をつけて、極秘に鋳造を行ったとのことです。

表向きは、琉球で通用する天保通宝と同じ大きさの琉球通宝を名目にしたともいわれています。このおかげで、莫大な軍資金をためることができたようですね。

こんな仕掛けがあれば、軍艦だろうが、大規模な兵力の動員だろうが可能だったのでしょう。

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島津斉彬、西郷隆盛を見出した名君と言われる薩摩藩第11代藩主のお由羅騒動

島津斉彬の曾祖父第八代藩主重豪からの話です。この方も大変西洋好きで、藩のお金を西洋のもの費やして大変な借金を作ってしまったそうです。

そして、お父さんの斉興は大変な苦労をして藩財政を立て直すことになります。

この重豪にかわいがられた斉彬も西洋のものが大好きでしたので、また、重豪の二の舞になるのではないかと、藩の上層部は心配したようです。

おかげで通常は息子が成人になれば家督を譲るのが慣例だったのですが、40を超えるまで斉彬は斉興から家督を譲られなかったのです。

そこに、ややこしいことが入ります。斉彬にとっては異母弟になるわけですが、斉興の側室のお由羅の子供久光を擁立しようと画策するグループがあらわれます。

兄弟で家督争いに発展しそうになります。

それを察した斉彬派が久光派を粛清しようとしたところ、計画がばれて、斉彬派の首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島・謹慎に処せられました。

斉彬派にとっては大打撃になってしまいます。そのため、斉彬派は外に応援を頼みます。

このため、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平慶永らが事態収拾に努めることになりました。

こうして嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が第11代藩主に就任したのです。

どこでもありそうなお家騒動ですが、大変なことでした。

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島津斉彬、西郷隆盛を見出した名君と言われる薩摩藩第11代藩主の生涯のまとめ

島津斉彬は、松平慶永(福井藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称されています。

しかしながら、松平春嶽は島津斉彬に他の人は遠く及ばないと評しております。

僅か7年余りの藩主でしたが、確かにスケールの大きさを感じさせる人です。この人が仕切っていたら、もう少し、うまく政権交代ができたかもしれないと考えさせます。

しかし、相手が、最終的には癖のある徳川慶喜ですが、当初は慶喜を推しているところから、うまく折り合いが付けられたかもしれないと想像します。

安政の大獄に反対して、実力行使をするところもなかなかのものかなと思いますが、そのさなかに急逝してしまったのは残念でした。コレラともいわれていますが、毒殺説もあるようです。

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