大河ドラマ「青天を衝け」で津田寛治さん演じる武田耕雲斎とは?

歴史人物

ドラマ「青天を衝け」の中で水戸藩主徳川斉昭を支えて、藩政の改革を行った一人に津田寛治さんが演じる武田耕雲斎がいます。

武田耕雲斎は幕末の歴史の中でどのような生涯を送ったか、またその人となりを漢詩も交えて説明します。

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武田耕雲斎の生涯

武田耕雲斎は1603年生まれ、藩主の徳川斉昭より3歳年下となります。清和源氏の末裔、武田信玄の末裔を自負しており、早くから武田姓を名乗っております。
水戸藩では徳川斉昭に認められ、38歳の頃と言われています。

以前紹介した藤田東湖とともに藩政に参画し数々の実績を挙げます。思想的には水戸学の中心となる尊王攘夷となります。
斉昭の死によりやがて藩政から遠のくことになります。ほとんど隠居の身だったようです。
やがて藤田東湖の息子小四郎が尊王攘夷ガチガチの水戸天狗党をうちたてます。800名ほどの人数を集めたともいわれています。

ドラマの中では渋沢栄一と小四郎は関係を持っていて、一時、栄一も攘夷のために立ち上がろうとしていたようです。
武田耕雲斎は過激な攘夷には反対の立場で、小四郎を説得に向かうのですが、逆に首領に祭り上げられてしまいます。この時に自分の死を覚悟したともいわれています。
1864年水戸天狗党は中山道を京へ目指しますが、美濃で街道を封鎖され、福井方面に迂回したところで、幕府軍に包囲されて降伏します。
その時降伏した300余名とともに斬首されてしまいます。
その家族も孫に至るまで死罪とされたようです。まことに悲劇の人と言えるでしょう。本人の本当の意志とは別のところで人生を送ってしまったのか。又は抑えきれないのを覚悟で率いてしまったのかは判別しようがありません。

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武田耕雲斎の残した漢詩の解説

武田耕雲斎もこのころの人として漢詩の素養があり詩を残しています。

題厓山楼

厓山妖血汙乘與  〇〇〇● ●〇魚
礼楽衣冠掃地虚  ●●〇〇 ●●魚
卻怪文章経術士  ●●〇〇 〇●●
年来畢竟読何書  〇〇●● ●〇魚

詩文の後ろに〇は平字、●は仄字、最後の魚は韻字の種類を示しています。漢詩風に言えば七言絶句平起式といいます。

読みと内容は次の通りです。

厓山楼(がいざんろう。高台の名前のようです。)に題す
厓山(南宋の最後の決戦地)の妖血(穢れた血)乗與(天子の乗り物)をけがす。
礼楽(礼節も音楽も)衣冠(礼服も)地を掃いて虚し。
かえって怪しむ文章経術の士(文章や儒教を修めた人)。
年来(長い間)畢竟(いったい)何の書を読む。

厓山は南宋が元によって最後に滅びた激戦地です。幼い皇帝もその地で海に沈んだようです。平家の壇ノ浦と考えればよろしいでしょう。

高台の名前からそれを思い出して、南宋滅亡に想いを寄せたようです。二行目も礼節も音楽も着飾った衣装も地にまみれてしまった。
でも本当に言いたかったのは三行目からです。南宋を支えていた知識人たちは何をしていたのか。

長い間知識を蓄え儒教をおさめても、南宋につくせずに、さっさと元に帰属してしまった人が少なからずいることを嘆いているのです。

この詩を考察すると、武田耕雲斎が後に水戸天狗党と運命を共にしたことと繋がるような気がします。

思想的には尊王攘夷派ですし尊敬していた藩主の水戸斉昭が亡くなったからと言って、さっさと尊王攘夷の思想を捨てるわけにはいかなかったでしょう。

でも、どうも天狗党のまたその頃はやっていた尊王攘夷派の活動が立ち行かなくなることを想像していたかもしれません。
ここらの様子はドラマで描かれるかどうかわかりませんが、どのように脚色されるか楽しみでもあります。
後の西南戦争の勃発にあたっての西郷隆盛とも通じるものを感じてしまいます。

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ドラマ「青天を衝け」で津田寛治さん演じる武田耕雲斎の残したもののまとめ

「青天を衝け」で渋い武田耕雲斎を演じている津田寛治から、その一生について調べてみました。なかなか幕末ものでもスポットが当たらない役割ですが、とても波乱万丈の人生であり悲劇的な最後であったのでとても胸が痛みます。
ドラマの中でどの様に取り上げられるか楽しみですね。

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