福沢諭吉についての明治維新後の業績を解説いたします。政府とは距離を置いて、主に慶應義塾を軸足に、日本の教育、言論界に大きな足跡を残しております。そんな中からいくつかの業績を紹介します。なかには、現代から見れば違和感があるものもあるでしょうが、その時代のものとしてご理解ください。
明治維新時には慶應義塾に軸足を置いた活動を
慶応3年(1867年)朝廷は王政復古の大号令を発します。
福沢諭吉はもっぱらこれより慶應義塾の教育活動に専念することになります。三田藩、仙台藩、紀州藩、中津藩、越後長岡藩から藩士を受け入れています。
政権とは距離を置いており、彰義隊の戦いの中でも、講義を続けていたといわれています。
新政府からの出仕も相変わらず来ますが、諭吉自身は断り、替わりに学生を推薦する形をとっています。
新銭座で慶應義塾は運営しておりましたが、旧島原藩中屋敷の土地に目をつけて交渉を始めております。明治3年ごろです。内大臣岩倉具視などの助力を得て、ここに移転をすることになります。これが現在の三田の土地です。
文部省に多くの人材を送ったこと、また、新政府とも良好な関係を持っていたことから、慶応義塾と東京英語学校は徴兵免除の待遇を受けることもできています。
明治7年(1874年)板垣退助、後藤象二郎、江藤新平が野に下ると、福沢は門下生を教師として派遣して、その政治活動を支援しています。
また、岩崎弥太郎と面会し、その人物を見たうえで、三菱商会に門下生を送っています。
文筆家としても活動しており、愛国社から頼まれて『国会を開設するの允可を上願する書』の起草も手伝っております。このため、明治9年(1876年)に大久保利通と会談した時、急進的な民権運動の一人として誤解されていましたが、その誤解も解けたようです。
福沢諭吉、時事新報を発行し言論界にも進出する
明治13年(1880年)大隈重信、伊藤博文、井上馨から公報新聞の発行を福沢諭吉に依頼します。
諭吉はしばらく悩みほとんどやめようとしていましたが、井上馨が国会開設について前向きになったことに呼応し、新聞発行を引き受けます。
ここまでは良かったのですが、ここから少し怪しくなります。
大隈重信、伊藤博文、井上馨も一枚板ではありません。大隈重信のやや急進的な動きに伊藤博文は警戒感を覚えます。
ちょうどこの時期に北海道開拓使勧誘物払い下げ問題がスキャンダルとして各地で反対集会が開催されています。これについても大隈重信は反対の姿勢をとっています。
また各地の集会にも慶應義塾出身者が参加していることから。伊藤博文、井上馨は大隈、福沢、慶応義塾がつるんでこの払い下げ問題を追及していると思います。そして明治14年、大隈重信一派を政府から追放します。
福沢諭吉はこの動きに対して、伊藤博文、井上馨の両名に抗議の手紙を書きますが、事態は収拾しません。
このため、福沢諭吉は公報新聞の準備をしていましたが、すっかり梯子を外された形になってしまいました。このため、公報新聞から自分のための新聞として時事新報を発行することになりました。明治15年(1882年)のことです。
この新聞は不偏不党を掲げており、政党色が薄い新聞でした。1896年にはロイター通信社と独占契約を結び、1921年のパリ講和会議やワシントン軍縮会議ではスクープを獲得し注目を集めています。大正中期には東京5大新聞の一つにもなっています。
福沢諭吉は教育の支援活動も積極的に展開
慶應義塾も官立の学校が整備されてくると段々経営が苦しくなってきます。ついに勝海舟にまで資金援助を頼むことにもなります。また、島津家にも資金援助の要請もしています。
明治13年(1880年)頃には廃塾も決意する程になったが、門下生が奔走することにより危機を乗り切ることになります。
明治23年(1890年)には大学部を発足し、文学、理財、法律の3科を置きます。
明治31年(1898年)一貫教育制度を作り、政治科を置きます。
私立学校の設立支援
多くの私立学校の育成にも協力しております。大阪商業講習所(大阪市立大学)、商法講習所(一橋大学)、専修学校(専修大学)、東京専門学校(早稲田大学)、英吉利法律学校(中央大学)の設立も支援しています。
北里柴三郎への支援
明治25年(1892年)ドイツ留学から帰国した北柴三郎のために東京柴山内に「伝染病研究所」を設立します。
明治27年(1894年)には芝愛宕町に移転しますが、付近住民から反対運動が起こります。このため、次男の新居を隣に作って危険がないことを示したりしています。
明治32年(1899年)に伝染病研究所が国に移管されると、北里柴三郎は、福沢諭吉らが設立した土筆ヶ岡養生園に移っています。
福沢諭吉の死後、大正5年(1916年)慶応義塾大学に医学科の創設が決まった時、学長として北里柴三郎が就任することになりました。
まあ、ここまで支援したのですから、北里柴三郎も恩に報いたということでしょうか。
北里柴三郎(1852 – 1931)。細菌学者。ドイツに留学、コッホのもとで学び、1889年に破傷風菌の純粋培養に成功、翌年にはベーリングと共にジフテリアの血清療法を発表した。帰国後、北里研究所を創立。ほか、ペスト菌を発見した。 pic.twitter.com/klJWwzjm1D
— 肖像画bot(試験運用中) (@botportrait) July 13, 2021
朝鮮改革運動を支援し対清国には主戦論者として行動
明治15年(1882年)に訪日した金玉均や朴泳孝と親交を深めていることから、朝鮮問題について深く興味をいだくようになる。
考え方としては清の保護下にあってはいつまでたっても朝鮮の近代化はできないので、清の影響力を排除すべきという考え方であったため、清に対しても強い主戦論者となっていった。
ちょうどこの考え方は、朝鮮半島の進出を図る日本政府と考え方を同じにしているため、政府にとっては非常に好都合に行動しています。
朝鮮政府内は親新派の事大党と親日派の独立党に分裂して争っている状態でもありました。そんな中、明治17年(1884年)に起こった独立党のクーデターが失敗ししてしまいます。このクーデターの首謀者であった金玉均を日本で匿ったりもしています。この甲申事変では対清国についての主戦論を時事新報に掲載しております。
明治27年(1894年)朝鮮で東学党の乱鎮圧を理由に清が兵を送り、日本も兵を送ったことから日清戦争が勃発します。福沢諭吉は、戦費の募金活動を積極的に行い、自身も1万円を募金するとともに、戦費募金組織「報告会」を三井八郎、岩崎久弥、渋沢栄一とともに結成しています。
日清戦争は、1894年7月25日から1895年4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日であり、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。 pic.twitter.com/FQt4oiCZcw
— _ (@kotora31ex) July 10, 2021
福沢諭吉とは何した人?その業績は?言論界、教育界での活躍のまとめ
明治維新後は政府とは距離を置いて言論界、教育界で活躍してきた福沢諭吉の後半生を解説してきました。
福沢諭吉はこの当時の人としては常識的に漢学から学んだのですが、もっぱら東洋思想には否定的に接しております。日清戦争の時の対清強硬論もこのことから出てきているのでしょう。
西洋の平等主義にかなり理解を示しており、男女平等にも理解を示していたようです。また、一夫多妻についても反対しており、この頃の男性としては珍しく、他の女性との関係もなかったようです。
それでも四男五女に恵まれました。
明治31年(1898年)脳出血で倒れますが、回復します。翌年再び倒れ意識不明になりますが、回復します。多分高血圧だったのでしょう。当時としてはよくわからなかったのかもしれません。
明治34年(1901年)脳出血で倒れ、一週間ほど後に再出血して死亡します。享年66。
福沢諭吉は品川区の常光寺に埋葬されましたが、昭和52年に麻布善福寺に改装されるときに、遺体が死蠟化して残っているのが発見されます。
外気から遮断されて低温の地下水に使ったいたためとされています。学術解剖や保存の声も上がったが、遺族の希望により荼毘に付されました。
コメント