「日本の一番長い日」の題材となった宮城事件とは?

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宮城事件は昭和20年8月14日~15日にかけて起こったクーデター未遂事件です。

戦争遂行のため日本の降伏を阻止しようと、陸軍省の将校と近衛師団参謀が起こしたクーデター未遂事件です。この時東部軍管区指令官の田中静壱大将が重要な働きをしています。

この事実を踏まえて、映画「日本の一番長い日」と「8月15日の動乱」が作成されています。結果、クーデターは失敗し、8月15日に玉音放送がなされるわけですが、事件はどのように展開し阻止されたかを説明いたします。

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日本が降伏を表明するまでを説明します

昭和20年7月26日イギリス、アメリカ、中華民国よりポツダム宣言が日本に対して発せられます。

その間いくつかの会議が開かれます。

8月10日午前0時宮城内で開かれた最高戦争指導者会議において、鈴木貫太郎首相から天皇の御聖断を仰ぐことになり、ポツダム宣言の受諾が決定されます。

同日午前6時45分、スイス国、スウェーデン王国を通じて連合国側に受諾通知がなされます。

8月12日午前0時サンフランシスコ放送により連合国の回答文が放送されます。

その回答文の中に疑義が生じ、閣議、最高戦争指導者会議で議論が紛糾しますが、午後3時の閣議で回答受諾が決定されます。それでも陸軍内部ではさらに紛糾することになります。

8月14日阿南陸軍大臣と梅津参謀長はクーデター計画には反対することを確認します。再度、御前会議が開催され、鈴木首相から聖断の要請を受けた昭和天皇は回答受諾を是認し、国民への語りかけをも伝えます。

そして玉音放送の収録が23時30分に宮内省で行われます。

大まかこんな経過で、ポツダム宣言受諾の顛末を解説していきました。でもこれだと、放送を傍受すれば8月12日には終戦交渉が起こっていることがわかりますね。

これだけでも大変なのですが、ここからが本題になります。

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ポツダム宣言受諾回避のクーデターの決起が始まります

事件は次のような段階を経てスタートします。

東部軍管区司令部

8月15日の未明陸軍省の畑中少佐は東日本を管轄する東部軍管区司令官の田中静壱大将にクーデター参加を求めるため面会しようとするが、追い払われます。

近衛師団司令部

同じく陸軍省の井田中佐、椎崎中佐近衛第1師団長森赳中将に面会しますが、クーデター参加をはぐらかされます。

しかし後に入った畑中少佐と2名は森赳中将を射撃し斬殺します。近衛師団の古賀参謀と謀り師団命令を捏造し、放送会館と宮内省を占拠するように命令を出します。

宮内省

宮内省は近衛師団に占拠されますが、居合わせた石渡宮内大臣、木戸内大臣は金庫室に隠れます。

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クーデターは田中静壱東部軍管区司令の判断により解決へ

宮内省、放送会館を押さえられましたが、徐々に解決の方向に進んでいきます。

東部軍管区司令部

陸軍省の井田中佐は東部軍管区司令部に赴きますが、田中静壱大将はクーデター鎮圧を決定します。午前4時には芳賀近衛第二連隊長に連絡し、近衛師団命令が偽造であることを伝えます。

近衛師団司令部

事情を承知した芳賀師団長は、椎崎、畑中、古賀に退去命令を出します。

午前5時ごろには田中大将が近衛第1師団司令部に偽造命令の停止を伝えます。ここでクーデターはついえることになります。

宮内省

午前8時には宮内省の占拠が解除されることになり、石渡宮内相と木戸内相は宮中に向かい玉音盤を取り出し、放送会館に運び込みます。

実行上は、僅か8時間ほどのクーデターでしたが、大変な状況であったことと思います。これらの場所は極めて近接したところに位置されています。

一番遠いのが近衛師団司令部ですが、これは国立近代美術館の位置にあります。東部軍管区司令部は第一生命館、放送会館も内幸町、宮内相は皇居内ですから、狭い地域の中で起こった事件でした。

当時の田中静壱大将の的確な判断で大事に至らなかったということができるでしょう。

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宮城事件の関係者のその後

椎崎中佐と畑中少佐は、宮城付近でビラを撒いて決起を求めましたが、玉音放送が始まる前の午前11時ごろには二重橋と坂下門の間で自決しております。

近衛師団の古賀参謀は玉音放送の放送中に、殺害された森師団長の遺体の前で自決しました。

井田中佐は同じく15日に自決しようとしましたが、見張りの将校に止められ断念しております。

実は井田中佐は15日の未明に阿南陸相の陸軍大臣官邸を訪れております。

その時には阿南陸相の自決の覚悟も知っておりましたから、自分もあとから行きますと言ったところ、阿南陸相から死んではならんと叱責されていたそうです。

この事件の鎮圧に最も役割を果たした田中静壱大将は8月24日に自決しております。何でと思うでしょうが、これは、戦時中に宮中への空襲に対して責任を痛感していたことが原因と言われています。

ひょっとしてこの事件も関係があるかもしれません。戦後すぐにもいくつかの反乱事件が起こっておりこれらの解決を見届けてから自決したようです。本当に責任感の強い方です。

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「日本の一番長い日」の題材となった宮城事件とは?のまとめ

小説の題材になりそうなクーデター事件ですが、やはり日本の場合にも起こっていたのです。火が小さいうちに消されたので、大事には至りませんでしたが、当事者にとっては大変なことだったと思います。

特に戦いは始めるより終わる方が難しいと言われていますが、足掛け4年も戦い、膨大な犠牲を払った戦争ですから、なかなか止めるのも大変だったでしょう。そんなことを考えながらまた8月15日を迎えることになります。

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