勝海舟とは何した人?江戸城無血開城と徳川家名誉回復

歴史人物

勝海舟の後半生、すなわち名を挙げた江戸無血開城の顛末と明治以降の徳川家の名誉回復活動について解説します。

徳川幕府の下で無役から軍艦奉行まで出世を遂げた勝海舟ですが、こと政策にあたっては、幕府と諸藩共同の海軍という理念は全く受け入れられません。

このため何度か辞職に追い込まれます。また藩主の徳川慶喜にははしごを外されたり、振り回され苦労のし通しでした。そんな彼の活動をご覧ください。

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勝海舟の江戸無血開城

勝海舟は長州との宮島談判で徳川慶喜にはしごを外されて、江戸でくすぶっていました。

明治元年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜はひたすら恭順の意を表明して上野に引っ込んでしまいますが、幕府の中では徹底抗戦派と恭順派に分かれて議論百出の状況です。

勝海舟はこの時幕府から陸軍総裁に担ぎ出されてしまいます。慶喜はこの時抗戦派を罷免してしまいます。しかし迫りくる征討軍を前にして、実は勝海舟もこの時は打つ手がなかったような状況です。

山岡鉄舟の事前交渉

官軍が駿河に到着したとの情報が入ります。そして、徳川慶喜は山岡鉄舟を駿河での和平交渉の使者に命じます。

勝海舟は山岡鉄舟に征討大総督府参謀の西郷隆盛宛の手紙を託します。何といっても西郷隆盛とは幕末に日本の態勢について議論した仲ですから。

そして西郷は山岡に次の条件を示します。江戸城を明け渡す。城中の兵を向島に移す。兵器を差し出すこと。軍艦の引き渡し。徳川慶喜を備前に預ける。この中で最後の条件はとても飲めるものではありません。

そして山岡は西郷に対して島津公を他藩預かりとなったらこの条件を飲めますかと逆質問したとしています。そしてこの条件は預かりとなって保留となります。

この交渉が江戸総攻撃とされている3月15日の6日前の3月9日になります。

勝海舟の焦土作戦

一方、勝海舟は交渉が決裂した際の作戦準備にあたります。この時の参考にされたのが、1812年ナポレオンのロシア侵略の時の焦土作戦です。

敵の攻撃を受ける前に、モスクワの街を焼き払って使い物にできなくなる作戦です。

このように江戸の町を焦土と化して、町民、軍備をすべて引き払う準備をしていたといわれています。

これも極端な計画で信憑性は疑問ですが、一旦ここまでやると腹をくくれば怖いものはなくなります。

中途半端に防衛作戦を引いて混乱する町民の中で戦うなどはずるずると敗戦を重ねるだけです。こんな作戦を最後には実行すると腹をくくれば、交渉も怖くはないでしょう。

勝海舟と西郷隆盛の会談

この会談は3月14日、15日に田町の薩摩藩江戸藩邸で行われました。

この会談によって、徳川慶喜は水戸で謹慎、徳川慶喜を助けた諸侯については寛大な処置、武器・軍艦はまとめて処分後に引き渡し、城内居住者は城外に移る、江戸城明け渡しの手続きを終えたら田安家に返却する、土民暴発につては可能な限り鎮圧、ということで、西郷はこの線で持ち帰り、無血開城の方向が定まりました。

西郷は本来は徳川慶喜についても徳川家についても強硬派として知られていましたが、この会談を通して、かなり寛大な措置に落ち着いたのは驚きです。

それだけ、幕府側の交渉相手としての山岡鉄舟、勝海舟の信頼性が高かったことでしょう。しかしこれで終わったわけではありません。朝廷で条件の再検討が行われます。

西郷が京都に戻って朝廷で条件の検討がされました。最大の問題である徳川慶喜の処遇は勝海舟の提案通り水戸謹慎で決着しました。江戸城の取り扱いも田安家に返すのは却下されましたが、大総督に一任することとなりました。武器・軍艦の引き渡しについては、一旦新政府に接収してから必要分を徳川家に下げ渡すことになりました。徳川慶喜を助けた諸侯、特に、松平容保、松平定敬については降伏するならよし、抗戦するなら討伐することとした。

これらの決定の背景として、第13代将軍家定の正室であった天璋院は薩摩の島津斉彬の養女であり、第14代将軍家茂の正室であった静寛院宮(和宮)は明治天皇の叔母にあたります。

その方面から助命、徳川家存続の嘆願が出ており、その影響もあったともいわれています。

勝海舟は最終的にこれらの交渉を行うことになります。

しかし、幕府内の強硬派である榎本武揚は軍艦をひき連れて北海道に脱出してしまいます。上野では彰義隊の戦いが勃発して、結果的に一日で相当されてしまいますが、交渉としては不利になります。

勝としては、穏便に政権移譲して、徳川の勢力の温存と外国からの介入を避けたいと考えていましたが、交渉上は不利になっていきました。結果的に徳川家宗家の領土も70万石に減封されます。

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明治時代の勝海舟

明治に入ってからも幕府の代表として新政府からは重用されることになります。しかしあまり気が進まなかったようです。

明治2年、外務大丞は1ヵ月、兵部大丞は半年余りで辞任。明治5年には海軍大輔、明治6年には勅使として島津久光の上京を促します。また海軍卿に任ぜられますが、翌年台湾出兵に反対して辞職します。

明治8年には元老院議官になりますが半年で辞職します。明治20年ごろは枢密顧問官にもなっています。

勝海舟としては、自分の仕事があるときは仕事をして、やることがなければ辞めてしまうというような感じだったと思います。

明治政府もそんなことはわかっていて、適当に使っていたのではないでしょうか。

徳川幕府の名誉回復

江戸の無血開城が勝海舟の第一の功績とすれば、幕末にあって坂本龍馬や西郷隆盛に藩としてではなく日本としての国防の在り方を説いたが第二の功績です。

徳川幕府及び徳川慶喜の名誉回復は第三の功績として考えられるのではないでしょうか。

徳川慶喜には勝海舟としても幕末にははしごを外されたりさんざんだったようです。

徳川慶喜にとっても勝海舟はずけずけとものをいうたちですから、相性は相当悪かったと思います。

しかしながら、勝海舟は明治政府に重用されたこと、それなりに知己を得ていることから、その立場を利用して名誉回復のための活動を図っております。

徳川慶喜は明治2年には謹慎解除され、明治31年には明治天皇に拝謁し、公爵となり、徳川慶喜家を新たに興すこともできるようになりました。

また勝海舟の長男の小鹿が齢39で亡くなり後継ぎがないため、徳川慶喜の十男精(くわし)を養子として小鹿の娘伊代と結婚させます。こんなこともあり、何かとしっくりいかなかった徳川慶喜との関係も修復します。

榎本武揚の母をはじめとする旧幕臣への資金援助。明治13年に徳川一族から積立金を集め、日光東照宮の保存活動を行います。

明治19年に徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた報恩義会を設立委しています。前島密をはじめとする旧幕臣の人材斡旋静岡県の茶畑開墾の奨励、新潟県のワインの製造と葡萄栽培の奨励も行っています。

また、西郷隆盛の名誉回復にも尽力し、上野の銅像建立も支援しています。

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勝海舟とは何した人?江戸城無血開城と徳川家名誉回復のまとめ

勝海舟の最大のエポックである江戸無血開城の交渉と明治以降の活動を解説しました。

勝海舟というと歯に衣を着せずに人物批評をするドライな人との印象を受けていましたが、徳川幕府旧幕臣のために何かと活動をしていたのは、今までの印象を覆す驚きでもありました。

勝海舟は明治32年(1899年)1月19日、風呂上りにトイレに寄った後に倒れ、妾に生姜湯を持ってくるように頼んだが、代わりのブランデーを飲んで意識不明となり息を引き取ったそうです。

享年77です。最後の言葉が勝らしく「これでおしまい」だったそうです。

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