昭和20年(1945年)の総理大臣は1人ではなく4人で、終戦を決断した時の首相が第42代・鈴木貫太郎です。77歳で就任した鈴木は、昭和天皇の信任を受け、ポツダム宣言受諾へ至る難しい政局を担いました。内閣府+1
太平洋戦争末期、日本は軍事的にも政治的にも重大な岐路に立っていました。鈴木貫太郎は表面上は戦争遂行の姿勢を崩さず、その一方で陸軍・海軍・外務省など意見の異なる関係者をまとめながら、終戦への道を探っていきます。
昭和20年の総理大臣は誰?4人の首相を時系列で整理
昭和20年には、小磯國昭、鈴木貫太郎、東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎の4人が総理大臣を務めました。
「昭和20年 総理大臣」と検索すると鈴木貫太郎の名前がよく出てきますが、昭和20年1年間を通して見ると、首相は何度も交代しています。
昭和20年の時期 総理大臣 在職期間
年初~4月7日 小磯國昭 昭和19年7月22日~昭和20年4月7日
4月7日~8月17日 鈴木貫太郎 昭和20年4月7日~8月17日
8月17日~10月9日 東久邇宮稔彦王 昭和20年8月17日~10月9日
10月9日~年末 幣原喜重郎 昭和20年10月9日~昭和21年5月22日
首相官邸の歴代内閣資料でも、この順序と在職期間が確認できます。鈴木内閣の在職日数は133日でした。内閣府+2内閣府+2
ここで大切なのは、8月15日の終戦を迎えた時の総理大臣が鈴木貫太郎だったという点です。
昭和20年8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾が決定され、「終戦の詔書」が発布されました。翌15日正午、昭和天皇の朗読による、いわゆる玉音放送が行われました。デジタルアーカイブズ+1
つまり、「昭和20年の総理大臣は誰だったのか」という問いには、時期によって答えが違います。
しかし「日本が終戦を決めた時の総理大臣は誰か」と問われれば、答えは鈴木貫太郎です。
この違いを押さえておくと、昭和20年という激動の一年がずっと理解しやすくなります。
鈴木貫太郎が77歳で総理大臣に就任した劇的な経緯
昭和20年4月、小磯國昭内閣が総辞職すると、次の内閣を誰に託すのかが大きな問題になりました。
戦争はすでに日本本土へ迫り、沖縄でも激しい戦闘が始まっていました。東京をはじめ各都市は空襲にさらされ、単なる政権交代では済まされない状況です。
次期首相をめぐって開かれたのが、歴代首相経験者などが参加する重臣会議でした。
当時の経緯を伝える記録では、重臣6名のうち4名が鈴木貫太郎枢密院議長を推したとされています。
一方、東條英機は陸軍から首相を選ぶ必要性を強く主張したと伝えられています。しかし意見の応酬を経た末、最終的に鈴木貫太郎が後継首班の候補となりました。
鈴木はそれ以前、昭和19年(1944年)8月から枢密院議長を務めていました。国立国会図書館の資料でも、海軍軍令部長、侍従長、枢密院議長を経て、昭和20年4月に首相となった経歴が確認できます。国立国会図書館+1
しかし、本人は首相になることを望んでいたわけではありません。
当時の鈴木は満77歳でした。しかも、生涯を海軍軍人として歩んできた人物です。
鈴木には「軍人は政治に関与すべきではない」という強い考えがあり、自分は政治家ではないとして就任を固辞しました。
それでも昭和天皇は鈴木を宮中に召し、組閣を求めます。
その際、昭和天皇が、
「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい。」
という趣旨の言葉を鈴木に伝えたことが、当時の侍従長・藤田尚徳の回想などに残されています。
鈴木にとって、これは単なる人事ではありませんでした。
かつて侍従長として長年仕えた天皇から、国家存亡の時に「頼む」とまで言われたのです。鈴木はついに辞退をやめ、組閣を引き受けました。
首相官邸の公式資料によれば、鈴木貫太郎は就任時77歳です。歴代首相の中でも最高齢での就任として知られています。内閣府+1
昭和20年4月7日、鈴木内閣が成立しました。
外務大臣には4月9日から東郷茂徳、陸軍大臣には阿南惟幾、海軍大臣には米内光政、内閣書記官長には迫水久常が就任しています。内閣府
後世の私たちは結果を知っているため、鈴木内閣を簡単に「終戦内閣」と呼びます。
しかし、発足した瞬間から「戦争を終わらせます」と宣言できるような状況ではありませんでした。
ここに鈴木貫太郎の難しさがあります。
なぜ昭和天皇は鈴木貫太郎を信頼した?侍従長時代と二・二六事件
昭和天皇が鈴木貫太郎を強く信頼していた背景には、鈴木が7年以上にわたって侍従長を務め、天皇の近くで仕えていたことがあります。
鈴木は昭和4年(1929年)1月に侍従長となり、昭和11年(1936年)11月までその職にありました。国立国会図書館の経歴資料にも、この侍従長在任期間が記録されています。国立国会図書館+1
侍従長とは、天皇の身近で日常の公務を支える極めて重要な役職です。
鈴木は海軍の第一線で長く勤務し、連合艦隊司令長官や海軍軍令部長まで務めましたが、その後は宮中に入り、昭和天皇との信頼関係を築いていきました。
さらに、鈴木の妻・たか夫人も皇室と深い縁を持っていました。
鈴木は大正4年(1915年)、48歳の時にたか夫人と再婚しています。当時たか夫人は31歳でした。
たか夫人は東京女子高等師範学校を卒業後、附属幼稚園などで教育に携わり、後の昭和天皇である裕仁親王の幼少期の養育にかかわった人物として知られています。
このため昭和天皇にとって、鈴木夫妻は単なる官僚や軍人という距離感ではなかったと考えられます。
もっとも、「妻が昭和天皇の養育係だったから鈴木が首相になった」と単純に考えるのは適切ではありません。
鈴木自身が海軍最高幹部を務めた経験を持ち、政治的派閥から一定の距離を置き、さらに長年の侍従長勤務を通して天皇の信頼を得ていたことが重要です。
そして、その信頼関係を理解するうえで避けて通れないのが、昭和11年2月26日に起こった二・二六事件です。
この事件では陸軍の青年将校らが率いる部隊が首相官邸などを襲撃しました。
斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監らが殺害され、鈴木貫太郎侍従長も襲撃されて重傷を負いました。国立国会図書館の解説にも、鈴木が襲撃を受けて一命を取り留めたことが記録されています。国立国会図書館+1
鈴木は4発の銃弾を受けたとされています。
たか夫人は、倒れた夫にさらにとどめを刺そうとする動きを制止し、
「老人ですから、とどめはやめてください。どうしても必要なら私がいたします。」
という趣旨の言葉を発したという逸話が伝わっています。
襲撃を指揮した安藤輝三大尉は鈴木と以前に面識があったとされ、とどめを刺さず部隊を引き揚げました。
鈴木は大量出血を伴う重傷でしたが、奇跡的に一命を取り留めます。
国立国会図書館の資料でも、二・二六事件で鈴木が重傷を負いながら生存したことは確認できます。国立国会図書館+1
考えてみれば、ここには歴史の不思議さがあります。
昭和11年に命を落としていてもおかしくなかった人物が、9年後の昭和20年、日本が戦争を終える最も難しい局面で総理大臣となったのです。
私はこの事実を知るたび、歴史は制度や作戦だけで動くものではなく、人と人との信頼が重大な局面で思いがけない意味を持つのだと感じます。
鈴木貫太郎は総理就任後に何をした?「強硬姿勢」と終戦への道
鈴木貫太郎が直面した最大の課題は、表立って和平を唱えれば政権そのものが立ち行かなくなる状況で、どう戦争終結への道を残すかということでした。
昭和20年4月7日に成立した鈴木内閣には、立場の異なる人物が集まっていました。
外務大臣の東郷茂徳、海軍大臣の米内光政、陸軍大臣の阿南惟幾らを抱えながら、軍部を分裂させずに国家として一つの結論へたどり着かなければなりませんでした。
就任直後の「死に花を咲かす」発言は何を意味したのか
鈴木首相は就任にあたり、これを自分の「最後の奉公」と位置づけました。
そして国民に向け、次のように述べています。
今日、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。
表面的には、戦争を最後まで戦い抜く決意のようにも読めます。
実際、当時の政治状況を考えれば、首相がいきなり「和平」や「降伏」という言葉を公然と掲げることは極めて困難でした。
そのため、後世には鈴木の強硬な言葉を、陸軍などの警戒を抑えながら政権を維持するための「カモフラージュ」と見る解釈があります。
ただし、歴史を見る際には注意も必要です。
4月の時点から8月の結末まで、鈴木のすべての発言が完成された一つの終戦計画に沿っていた、と単純化するのは避けるべきでしょう。
戦況は刻々と変化していました。
重要なのは、鈴木が異なる勢力を抱えた内閣を最後まで維持し、最終的にポツダム宣言受諾を決定できる政治的な場を残したことです。
ルーズベルト大統領死去で弔意を表した理由
組閣からわずか5日後の昭和20年4月12日、アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領が死去しました。
交戦国の最高指導者が亡くなったわけですが、鈴木首相は同盟通信を通じて米国民に弔意を示しました。
その内容は、米国が戦争で優位に立っている背景にはルーズベルトの指導力があり、その死が米国民にとって大きな損失であることを理解するとして、哀悼の意を示すものでした。
交戦中の敵国大統領に対する発言としては、非常に異例です。
これに対し、ドイツのアドルフ・ヒトラーはルーズベルトを厳しく非難する内容の声明を出しました。
両者の態度の違いは、当時国外にいたドイツの作家トーマス・マンにも注目され、日本側にはなお騎士道的な感覚が残っているという趣旨の評価につながったと伝えられています。鈴木の弔意表明自体については、後年の公的な演説資料などでも紹介されています。和歌山県公式サイト+1
鈴木の行動には国内で反発もあったとされています。
青年将校らが首相官邸を訪れた際、鈴木は、
「古来、日本精神の一つに、敵を愛すということがある。私もまた、その精神に則ったまでです」
と答えたという逸話も残ります。
私は、このエピソードで注目したいのは単なる「美談」ではありません。
敵国への敵意が社会全体を覆いやすい戦争末期に、相手の死を罵倒するのではなく、人として弔意を示した点です。
政治的な効果をどこまで意図していたかは別として、鈴木という人物の気質を知る手掛かりにはなるでしょう。
「徹底抗戦」と言いながら終戦を探った難しさ
昭和20年6月6日の最高戦争指導会議や、その後の局面でも、戦争継続を求める強い意見が存在していました。
元首相の若槻禮次郎から姿勢を問われた際、鈴木が、
「徹底抗戦で利かなければ死あるのみ。」
という趣旨の強硬な言葉を発したという話も伝わっています。
強硬派であった東條英機を納得させるほどだったとされます。
一方では、木戸幸一内大臣をはじめ、戦争終結を模索する動きも進んでいました。海軍大臣の米内光政も重要な役割を担います。
とくに興味深いのが、陸軍大臣の阿南惟幾と鈴木の関係です。
阿南は鈴木が侍従長を務めていた時代に宮中勤務の経験があり、鈴木との間には長年の関係がありました。
終戦をめぐって両者の立場が常に同じだったわけではありません。
阿南は陸軍を背負う立場から戦争継続を強く主張する場面があり、鈴木は内閣全体をまとめなければなりませんでした。
それでも阿南が陸軍大臣を辞任して内閣を倒す道を取らなかったことは、結果として非常に大きな意味を持ちました。
一人の閣僚が辞任すれば簡単に別の人物を補充できる現在とは、制度も政治状況も違います。
終戦直前まで鈴木内閣そのものが存続したことは、ポツダム宣言受諾へ向かう前提条件の一つだったと私は考えています。
ポツダム宣言受諾と「聖断」へどうつながったのか
鈴木内閣最大の歴史的役割は、意見が割れたままでは決められなかった戦争終結を、御前会議と昭和天皇の決断へつないだことです。
昭和20年夏、日本を取り巻く状況は急速に悪化しました。
7月に連合国側からポツダム宣言が発表されましたが、日本政府はすぐには受諾しませんでした。
当時はソ連を仲介役とした戦争終結交渉への期待も残っていたからです。
しかし8月6日に広島へ原子爆弾が投下され、8日にはソ連が日本に宣戦を布告します。9日には長崎にも原子爆弾が投下されました。国立公文書館+1
もはや時間はほとんど残されていませんでした。
政府内部では、ポツダム宣言をどのような条件で受け入れるのかについて意見が対立します。
外務大臣の東郷茂徳らは条件をできるだけ絞って受諾する方向を模索しましたが、軍側には武装解除や占領などについて追加条件を求める強い意見がありました。
議論がまとまらない中、鈴木首相は通常とは異なる方法を取ります。
それが、昭和天皇の判断を仰ぐ、いわゆる「聖断」でした。
8月10日の御前会議で受諾へ向けた大きな決断が行われ、さらに連合国側からの回答を受けて議論が続きます。
8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾が最終的に決定されました。
国立公文書館に現存する「終戦の詔書」には、鈴木貫太郎内閣の各国務大臣が署名しています。デジタルアーカイブズ+1
翌8月15日正午、昭和天皇の声がラジオを通じて全国へ放送されました。
これが玉音放送です。
終戦という結果だけを見ると、「首相が決断して終わらせた」と簡単に説明したくなります。
しかし実際には、首相一人で自由に決められるような状況ではありませんでした。
陸軍、海軍、外務省、宮中など、それぞれの立場と責任を背負った人々の意見が激しくぶつかっています。
そのため鈴木の重要な役割は、自分一人の考えを押し通したことよりも、誰も単独では決められなかった問題を、最後に決められる場所まで持っていったことにあったのではないでしょうか。
これは行政組織を長く見てきた私にも、非常に印象深く映ります。
大きな組織ほど、難題に直面した時に「誰が正しいか」だけでは動きません。
異なる意見を持つ人たちが席を立たず、最後まで同じテーブルについていること自体が重要になる場合があります。
鈴木内閣の133日間には、その難しさが凝縮されています。
鈴木貫太郎を支えた妻・たか夫人と二・二六事件の意味
鈴木貫太郎が昭和20年の国家的危機を担うことができた背景を考える時、妻・たか夫人の存在も忘れることはできません。
たか夫人は昭和天皇の幼少期の養育にかかわった経験を持ち、鈴木自身も7年以上にわたり侍従長として天皇に仕えました。
この夫妻と皇室との長い関係は、昭和20年になって突然生まれたものではありません。
何十年もの時間をかけて積み重なった信頼でした。
とりわけ象徴的なのが、やはり二・二六事件です。
昭和11年2月26日、青年将校らの部隊が鈴木侍従長官邸を襲撃しました。
鈴木は4発の銃弾を受け、瀕死の重傷を負います。
その際、たか夫人がとどめを制止したと伝えられていることは先ほど紹介した通りです。
事件後、鈴木は一命を取り留めました。
当時の二・二六事件そのものについて、国立国会図書館は、約1400人規模の兵が首相官邸などを襲撃し、政治・軍事の中枢を一時占拠した重大事件だったと解説しています。国立国会図書館
これは単なる鈴木家の個人的な危機ではありません。
軍の一部が武力で政治を動かそうとした事件であり、その後の日本政治にも大きな影響を残しました。
そして9年後、同じ鈴木が今度は総理大臣として、軍の強い意見と向き合いながら戦争終結を目指すことになります。
このつながりを知ると、鈴木貫太郎の終戦時の態度が少し違って見えてきます。
彼は「反対意見が強い」という程度の政治的緊張しか知らない人物ではありませんでした。
実際に銃撃され、生死の境をさまよっています。
政治的対立が命にかかわる時代であることを、自分の身体で知っていたのです。
それでも昭和20年、鈴木は首相を引き受けました。
私はここに、鈴木を理解するうえで非常に大切な視点があると思います。
「77歳なのに頑張った」という年齢だけの物語ではありません。
一度政治的暴力によって殺されかけた人物が、国家最大級の政治的対立をまとめる仕事を引き受けたというところに、鈴木貫太郎という人物の重みがあります。
考察:昭和20年の総理大臣・鈴木貫太郎から何を読み取るべきか
昭和20年の総理大臣を調べると、わずか一年の間に4人の首相が登場したことに気づきます。
小磯國昭から鈴木貫太郎へ、終戦後は東久邇宮稔彦王、さらに幣原喜重郎へと政権が移りました。内閣府
これは昭和20年が、単に「戦争が終わった年」ではなかったことを示しています。
戦時体制から敗戦、占領下の新しい政治体制へと、国家の前提そのものが短期間で大きく変わった一年でした。
その中でも鈴木貫太郎の133日間は、まさに境目に位置しています。
個人的には、鈴木の最大の功績を「未来を正確に予測していたこと」と評価するより、極端な対立の中で決定する仕組みを最後まで壊さなかったことに見るほうが、実像に近いように感じます。
鈴木自身がすべてを思い通りに動かしたわけではありません。
軍部も宮中も外務省も、それぞれ独自の考えと権限を持っていました。
それでも、阿南惟幾陸相や米内光政海相、東郷茂徳外相らを抱えた内閣を維持し、最終的に御前会議へつないだことには大きな意味があります。
また、「聖断」という言葉についても、昭和史を学ぶ時には丁寧に考える必要があります。
昭和天皇の決断が極めて重要だったことは確かです。
一方で、そこへ至るまでには政府・軍部・宮中関係者の長い議論があり、戦況の急激な悪化もありました。
一人の英雄だけで歴史が動いたと考えてしまうと、かえって当時の複雑さが見えなくなります。
鈴木貫太郎を高く評価する場合でも、すべてを一人の功績にするのではなく、対立する人々の間で最後の決断が可能になる条件をつくった首相として見るのがよいのではないでしょうか。
そして、もう一つ忘れてはならないのが時間です。
鈴木内閣成立は昭和20年4月7日、ポツダム宣言受諾の決定は8月14日です。
わずか4か月余りの間に、ドイツの降伏、沖縄戦、ポツダム宣言、広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦という重大な出来事が次々に起こりました。
現在の私たちは歴史年表でそれらを数行で読めます。
しかし、当事者には翌日に何が起きるのか分かりません。
その不確実さの中で判断し続けたという視点を持つと、鈴木内閣の133日という期間の重さがより実感できるでしょう。
77歳という年齢についても同じです。
鈴木の就任を「高齢でも活躍できる」という単純な励ましの話にするだけでは、少しもったいないように思います。
むしろ長い軍歴、侍従長としての経験、二・二六事件を生き延びた経験、皇室との信頼関係など、何十年も積み重ねてきたものが最後の133日間に集約されたと見るほうが、鈴木貫太郎の人生をよく表しているのではないでしょうか。
まとめ:終戦時の昭和20年の総理大臣は鈴木貫太郎
昭和20年には、小磯國昭、鈴木貫太郎、東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎という4人の総理大臣が在任しました。
その中で、昭和20年8月15日の終戦時に総理大臣を務めていたのが鈴木貫太郎です。昭和20年4月7日に77歳で就任し、8月17日まで133日間にわたり内閣を率いました。内閣府+1
鈴木は海軍軍人として連合艦隊司令長官や軍令部長を経験し、昭和天皇の侍従長も7年以上務めました。
昭和11年の二・二六事件では4発の銃弾を受けながら一命を取り留め、9年後、国家存亡の局面で総理大臣に就任します。
戦争末期の政府内には、終戦条件をめぐる深刻な対立がありました。
鈴木は東郷茂徳外相、米内光政海相、阿南惟幾陸相らとともに難しい政局に向き合い、最終的に御前会議と昭和天皇の決断を経て、ポツダム宣言受諾へと至りました。
昭和20年8月14日に受諾が決定され、翌15日に玉音放送が行われています。デジタルアーカイブズ+1
歴史は後から見ると一本道に見えます。
しかし、その道を歩いていた人々には先が見えていません。
鈴木貫太郎の生涯をたどると、終戦とは一人の劇的な決断だけで実現したのではなく、長年築かれた信頼、人間関係、制度、そして最後まで話し合いを続けた人々の選択が重なって生まれたことが見えてきます。
よくある質問
昭和20年の総理大臣は誰ですか?
昭和20年には4人の総理大臣が在任しました。
年初は小磯國昭、4月7日から鈴木貫太郎、8月17日から東久邇宮稔彦王、10月9日から幣原喜重郎です。内閣府
昭和20年8月15日の総理大臣は誰ですか?
鈴木貫太郎です。
鈴木内閣は昭和20年4月7日に成立し、8月17日まで続きました。8月14日にポツダム宣言受諾が決定され、15日に玉音放送が行われています。デジタルアーカイブズ+1
鈴木貫太郎は何歳で総理大臣になりましたか?
77歳で就任しました。
首相官邸の公式資料でも就任時年齢は77歳とされ、歴代首相で最高齢の就任として知られています。内閣府+1


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