鈴木貫太郎氏が総理として終戦に繋げた行動は

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太平洋戦争も押し迫った昭和20年4月、鈴木貫太郎氏は枢密院議長の要職に在りましたが、総理就任を要請されます。

鈴木内閣は終戦のための内閣と後世では言われていますが、そんな簡単なものではありません。まだまだ、国内では軍だけではなくマスコミも含めて徹底抗戦が主流なのです。

どのように総理に就任しどのような行動を起こしていったかを説明したいと思います。

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鈴木貫太郎枢密院議長が首相に就任したいきさつは

昭和20年4月小磯内閣の後継を決める重臣会議が開かれます。重臣メンバーの6名のうち4名までが鈴木貫太郎枢密院議長を推すことになります。

ところが、東条英機は陸軍からの推薦にこだわりますが、高圧的な言い方が災いし、最後は鈴木貫太郎一本に絞られることになります。

この段階で、重臣たちは鈴木貫太郎で昭和天皇に根回しを完了していたようです。

重臣会議の結果を受けて、昭和天皇が鈴木貫太郎を呼びます。そして固辞する鈴木に向かって「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい。」とまで仰せられたと聞いております。

更に、大正天皇の皇后である貞明皇太后からも「どうか陛下の親代わりになって」とまで言われています。

ここまで言われては、引き受けるしかなかったと思います。その時の年齢は満77歳、史上最高齢での内閣総理大臣の就任となります。

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鈴木貫太郎は昭和天皇、皇室から信任が厚かった理由は

鈴木貫太郎氏は昭和4年1月~昭和11年11月まで長きにわたり、侍従長をしています。しかし、この侍従長になるのにも訳がありました。

鈴木貫太郎は大正4年、48歳の時安立タカと再婚しております。その時安立タカは31歳でした。

安立タカは明治37年東京女子高等師範学校を卒業した後、付属幼稚園の訓導をしておりました。そして、明治38年から裕仁親王、後の昭和天皇の保母となり、大正4年まで10年間続けております。

裕仁親王4歳から14歳までです。

このため、安立タカは昭和天皇から絶大な信認を得ていたようです。なんでも2・26事件の時鈴木貫太郎が襲撃された際も、天皇陛下と直接電話でお話しされたとも言われています。

鈴木貫太郎が海軍から侍従長に就任したのは、このような事情もありました。

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鈴木貫太郎は総理就任後に起こした行動は

鈴木内閣の発足は4月7日になります。鈴木の胸中はどのように終戦工作をするかが焦点となっていましたが、そんなことを最初から言ってしまえば大変なことになります。

鈴木総理就任後の意見表明では国運の打開を決意

最初の表明は次のようなものでした。

今日、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。— 昭和20年4月7日、内閣総理大臣  鈴木貫太郎

ずいぶん、そつのない表明だと思います。これで、強硬派の心配はしばらく遠ざけることができます。

アメリカ大統領ルーズベルト氏の死去に際しての弔意表明

組閣から僅か5日後の、4月12日アメリカのルーズベルト大統領が病没しました。その時、鈴木総理は同盟通信の海外向け英語放送を通じて弔意を表明します。次のような内容です。

「アメリカ側が今日、優勢であることについては、ルーズベルト大統領の指導力が非常に有効であって、それが原因であることを認めなければならない。であるから私は、ルーズベルト大統領の逝去がアメリカ国民にとって、非常なる損失であることがよく理解できる。ここに私の深甚なる弔意をアメリカ国民に表明する次第である」

一方、ドイツでもアドルフ・ヒトラーが声明を公表しています。

「ルーズベルトは今次戦争を第二次世界大戦に拡大した扇動者であり、さらに、最大の対立者であるボルシェビキ・ソビエトを強固にした愚かな大統領として、歴史に残る人物であろう」

ずいぶん違いますよね。この違いに、アメリカ亡命中の文豪トーマス・マンは衝撃を受けます。そしてドイツに向けて放送で次のように語りました。

「東洋の国・日本には、今なお騎士道が存在し、人間の品性に対する感覚が存する。今なお死に対する畏敬の念と、偉大なる者に対する畏敬の念が存する。これが日独両国の大きな違いでありましょう」

残念なことに、日本では貫太郎がルーズベルトに弔意を表わしたことに不満を抱いた青年将校たちが、首相官邸に押しかけてきました。2・26の再現になりかねない事態に、正面玄関で、いきり立つ彼らを前にした貫太郎は、おだやかにこう言ったといいます。

「古来、日本精神の一つに、敵を愛すということがある。私もまた、その精神に則ったまでです」

6月6日の最高戦争指導者会議及び8日の御前会議での鈴木総理の姿勢

若槻禮次郎からの戦争継続の姿勢を尋ねられた時に、鈴木総理は「徹底抗戦で利かなければ死あるのみ。」とテーブルをたたいて意気込んでいます。これには東条英機も満足していますが、なんと、近衛文麿までが同意しているのです。

この頃には、木戸内大臣も含めて和平の方で固めており、戦争継続派に対してはカムフラージュの発言を繰り広げていました。さらに米内光政海軍大臣も和平派です。

また、阿南陸相も鈴木総理が侍従長の時の侍従であり、自分が辞任することで内閣総辞職に持ち込むようなことはしないと決めていたようです。

このような用意周到な準備をしたのち、通常であれば天皇陛下のご聖断を仰ぐなどということはないのです。

でも、ここは国を亡ぼすかどうかの非常時です。戦争継続派も組織のバックを控えていますので、決して降りるわけにはいかないのです。そんなとき、通常のルールではありえない決定の仕方をするしかなかったのです。

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鈴木貫太郎氏が総理として終戦に繋げた行動のまとめ

鈴木貫太郎氏は良い意味で最後の武士でした、そして、自分の役割をしっかり成し遂げることができたのです。

それにしても、彼がこの歴史の舞台で活躍する契機として、妻の役割があったとはとても興味深いことです。

何しろ、昭和天皇の4歳から10年間保母として終始接して、皇室からもとても評判が良かった方のようでした。

この人には、もう一つ重要な働きがあったのです。

昭和11年2月26日に鈴木貫太郎侍従長官邸も青年将校に襲われることになります。鈴木貫太郎は4発の銃弾を受けて倒れてしまいます。そして責任者の安藤大尉が現れ、とどめを刺そうとします。

その時、妻のタカが「老人ですから、とどめはやめてください。どうしても必要なら私がいたします。」と言って中に分け入ります。

安藤大尉は一度鈴木侍従長と会談したことがあります。その発言にうなずいて、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧銃」と号令して、引き上げます。実際、その時の状態ではもはや生きられないと思ったのでしょう。

このため、鈴木侍従長は大量の出血を被り瀕死の状態であったが、かろうじて一命をとりとめることができました。心臓をかすめた銃弾はその後も体内に残り、鈴木の死後、遺灰の中から取り出されたそうです。

こんなことを考えると鈴木タカが終戦を作ったといってもいいのでしょう。

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