【終戦への道筋】鈴木貫太郎内閣の誕生と知られざる舞台裏:昭和天皇からの“聖断”を導いた決断とは?

歴史人物

太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)4月、日本は破局へと向かっていました。そんな極限状態の中、時の枢密院議長であった鈴木貫太郎(すずきかんたろう)氏に、内閣総理大臣就任の要請が舞い込みます。

後世、「終戦内閣」と評される鈴木内閣ですが、その船出は決して平坦なものではありませんでした。当時の日本国内では、軍部のみならずマスコミや国民の多くが「徹底抗戦」を強く主張していたからです。この困難な状況で、鈴木貫太郎はどのようにして首相の重責を引き受け、いかにして「終戦」という日本の未来を切り開いていったのでしょうか?

この記事では、歴史の転換点となった鈴木内閣誕生の経緯から、その裏にあった人間ドラマ、そして終戦に向けて鈴木首相がとった知られざる行動の数々を、初めてこの分野の記事を読む方にも分かりやすく、丁寧な言葉で解説していきます。彼の決断が、いかにして日本の運命を変えたのか、一緒に紐解いていきましょう。

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鈴木貫太郎が総理大臣に就任した劇的な経緯

昭和20年4月、小磯内閣の総辞職を受けて、次期首相を決めるための重臣会議(じゅうしんかいぎ)が開かれました。この会議は、昭和天皇の側近である「重臣」たちが集まり、次期内閣の構想を練る非常に重要な場でした。

重臣6名のうち、なんと4名が鈴木貫太郎枢密院議長を推挙(すいきょ)します。しかし、ここで強硬派の東条英機(とうじょうひでき)が、陸軍からの推薦に固執し、高圧的な態度で意見を述べます。これが裏目に出て、最終的には鈴木貫太郎氏ただ一人に絞られることになったのです。

実はこの段階で、重臣たちはすでに昭和天皇に対し、鈴木貫太郎を次期首相とすることの「根回し(ねまわし)」を完了させていました。重臣会議の結果を受け、昭和天皇は鈴木貫太郎を宮中に召します。しかし、当時すでに満77歳という高齢だった鈴木は、度重なる就任要請を固辞(こじ)しました。

その時、昭和天皇は鈴木に向かって、「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい。」とまで仰せられたと伝えられています。さらに、大正天皇の皇后であり、昭和天皇の母にあたる貞明皇太后(ていめいこうたいごう)からも「どうか陛下の親代わりになって」という言葉をかけられたのです。

これほどの言葉をかけられては、もはや辞退することはできません。鈴木貫太郎は、日本の歴史上最高齢となる77歳で、内閣総理大臣に就任することとなりました。

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昭和天皇・皇室からの厚い信頼:鈴木貫太郎の侍従長時代

なぜ、昭和天皇や皇室は、鈴木貫太郎に対しそれほどまでに厚い信頼を寄せていたのでしょうか? その理由は、鈴木貫太郎が長きにわたり侍従長(じじゅうちょう)という要職を務めていたことにあります。

鈴木貫太郎は、昭和4年(1929年)1月から昭和11年(1936年)11月まで、実に7年以上にわたり侍従長を務めました。この侍従長就任にも、特別な事情がありました。

鈴木貫太郎は、大正4年(1915年)、48歳の時に安立タカ(あだちタカ)氏と再婚しています。この時、タカ氏は31歳でした。安立タカは、明治37年(1904年)に東京女子高等師範学校を卒業後、付属幼稚園の訓導(先生)として勤務していました。そして、明治38年(1905年)からは、後の昭和天皇である裕仁親王(ひろひとしんのう)保母(ほぼ)を、大正4年(1915年)までの10年間務めていたのです。

裕仁親王が4歳から14歳という多感な時期に、安立タカは常に寄り添い、教育に携わっていました。このため、安立タカは昭和天皇から絶大な信頼を得ていたと言われています。実際に、昭和11年(1936年)に起こった二・二六事件で鈴木貫太郎が襲撃された際も、タカ夫人は天皇陛下と直接電話で状況を報告したと伝えられています。

鈴木貫太郎が海軍出身でありながら侍従長に就任したのは、このような安立タカ夫人を通じた皇室との深い繋がりと、その人柄に対する信頼があったからなのです。


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鈴木貫太郎が総理就任後に起こした大胆な行動と戦略

昭和20年4月7日、鈴木内閣が発足しました。鈴木首相の心には、いかにして「終戦」へと導くかという重大な課題が横たわっていましたが、それを最初から公言することはできませんでした。当時の徹底抗戦論が主流の状況では、反発を招き、政権運営どころか自身の命さえ危うくなる可能性があったからです。

就任直後の「死に花を咲かす」表明の真意

鈴木首相は、総理就任後初の意見表明で、次のように述べました。

今日、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。
— 昭和20年4月7日、内閣総理大臣  鈴木貫太郎

この言葉は、一見すると「徹底抗戦」を匂わせるように聞こえます。しかし、これは鈴木首相の周到な戦略でした。強硬派の警戒を一時的に解き、彼らの反発を遠ざけるための「カモフラージュ」だったのです。これにより、彼は水面下で終戦工作を進めるための時間と空間を確保することができました。

ルーズベルト大統領死去に際しての「弔意表明」とその影響

組閣からわずか5日後の4月12日、アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領が病で亡くなりました。この訃報に対し、鈴木首相は日本の同盟通信社を通じ、海外向けの英語放送で異例の「弔意(ちょうい)表明」を行います。

「アメリカ側が今日、優勢であることについては、ルーズベルト大統領の指導力が非常に有効であって、それが原因であることを認めなければならない。であるから私は、ルーズベルト大統領の逝去がアメリカ国民にとって、非常なる損失であることがよく理解できる。ここに私の深甚なる弔意をアメリカ国民に表明する次第である」

同時期、同盟国であるドイツのアドルフ・ヒトラーはルーズベルトの死に対し、「ルーズベルトは今次戦争を第二次世界大戦に拡大した扇動者であり、さらに、最大の対立者であるボルシェビキ・ソビエトを強固にした愚かな大統領として、歴史に残る人物であろう」と声明を公表していました。

この両者の声明の大きな違いに、当時アメリカに亡命していたドイツの文豪トーマス・マンは衝撃を受けます。そして、ドイツに向けて放送で次のように語りました。

「東洋の国・日本には、今なお騎士道が存在し、人間の品性に対する感覚が存する。今なお死に対する畏敬の念と、偉大なる者に対する畏敬の念が存する。これが日独両国の大きな違いでありましょう」

この弔意表明は、国際社会に対して、日本国内に和平を模索する動きがあることを示唆するものでした。しかし、国内ではこの鈴木首相の行動に対し、不満を抱いた青年将校たちが首相官邸に押し寄せる事態も発生しました。二・二六事件の再来かと思われたその時、玄関で激高する将校たちに対し、鈴木首相は穏やかにこう語ったと言います。

「古来、日本精神の一つに、敵を愛すということがある。私もまた、その精神に則ったまでです」

この言葉は、鈴木首相の武士道精神と、冷静沈着な対応を物語るエピソードとして語り継がれています。

終戦に向けた「カモフラージュ戦略」と「聖断」への布石

鈴木首相は、終戦に向けて慎重かつ大胆な戦略を練っていました。表面上は徹底抗戦の姿勢を見せつつ、水面下では和平への道を模索していたのです。

例えば、6月6日の最高戦争指導者会議や8日の御前会議では、若槻禮次郎(わかつきれいじろう)から戦争継続の姿勢を問われた際、鈴木首相は「徹底抗戦で利かなければ死あるのみ。」とテーブルを叩いて意気込んだとされます。これには、強硬派であった東条英機でさえも満足したほどでした。

しかし、この頃にはすでに木戸幸一(きどこういち)内大臣をはじめとする和平派が着実に体制を固めており、鈴木首相もまた、戦争継続派に対してはあえて強硬な発言をすることで「カモフラージュ」を繰り広げていました。米内光政(よないみつまさ)海軍大臣もまた、和平派の一員でした。

さらに、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣は、鈴木首相が侍従長だった頃の侍従であり、鈴木首相への個人的な信頼も厚かったと言われています。阿南陸相は、自らが辞任することで内閣総辞職に持ち込むようなことはしないと決意していたようです。

このような周到な準備をした上で、鈴木首相は「御聖断(ごせいだん)」を仰ぐという異例の手段に出ます。通常であれば、内閣の決定を天皇陛下にお伺いすることはありません。しかし、これは国が滅びるかどうかの非常時でした。戦争継続派が組織の支持を背景に決して譲歩しようとしない中、通常のルールではありえない、天皇陛下による最終決定「聖断」を仰ぐしかなかったのです。

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鈴木貫太郎を支えた妻・タカ夫人の献身:二・二六事件の危機を乗り越えて

鈴木貫太郎氏が総理大臣として終戦へと導くことができた背景には、彼の卓越した政治手腕と、皇室からの厚い信頼が不可欠でした。そして、もう一つ忘れてはならないのが、妻・安立タカ夫人の存在です。

先にも触れた通り、タカ夫人は昭和天皇の幼少期の保母を務め、皇室から絶大な信頼を得ていました。この関係性は、鈴木貫太郎が侍従長、そして総理大臣として日本の命運を託される上で、計り知れない影響を与えました。

タカ夫人の献身的な働きは、昭和11年(1936年)2月26日に起こった二・二六事件の際にも発揮されます。青年将校たちが鈴木貫太郎侍従長官邸を襲撃し、鈴木は4発の銃弾を受けて倒れてしまいます。責任者である安藤大尉(あんどうたいい)がとどめを刺そうとしたその時、タカ夫人は冷静に、そして毅然としてこう言ったと言われています。

「老人ですから、とどめはやめてください。どうしても必要なら私がいたします。」

安藤大尉はかつて鈴木侍従長と面会したことがあり、その言葉に心を動かされます。彼はうなずき、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧銃(ささげつつ)!」と号令して引き上げていきました。当時の状況から、鈴木侍従長はもはや助からないだろうと判断したのかもしれません。

この妻・タカ夫人の勇気ある行動と機転が、鈴木貫太郎の命を救ったのです。鈴木は大量の出血を伴う瀕死の状態でしたが、奇跡的に一命を取り留めました。心臓をかすめた銃弾はその後も体内に残り、鈴木の死後、火葬された遺灰の中から取り出されたという逸話も残っています。

まさに、鈴木タカ夫人の存在が、夫の命を救い、ひいては終戦という大役を果たすことに繋がったと言えるでしょう。歴史の裏には、こうした個人の深い人間ドラマが隠されているものです。

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まとめ:77歳、最後の奉公で見せた「武士道」の精神

鈴木貫太郎氏は、まさに「最後の武士」と呼ぶにふさわしい人物でした。満77歳という高齢で首相の重責を担い、国内の激しい抗戦論に直面しながらも、粘り強く、そして周到な準備と戦略をもって「終戦」という日本の未来を切り開きました。彼の行動は、まさに自身の役割を全うするという、強い使命感に裏打ちされたものでした。

また、彼の成し遂げた偉業の背景には、妻である安立タカ夫人の存在、そして彼女を通じた皇室からの揺るぎない信頼があったことは、非常に興味深い事実です。歴史を動かす大きな出来事の陰には、このような人間関係や、個人の献身が大きく影響していることを改めて感じさせられます。

鈴木貫太郎の生き方と、彼が終戦へと導いた道筋は、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。困難な状況でも諦めずに、粘り強く目標に向かって行動することの大切さを、彼の生涯から学ぶことができます。

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