陸奥宗光は明治時代の大政治家、外務大臣として、日清戦争後に不平等条約の解消のうち外国人の治外法権の撤廃を成し遂げた人物として有名です。歴史の教科書でも大変な功績として掲載されています。
また、カミソリというほど切れる人のようで部下からは恐れられていたようです。
しかし、彼にも隠された過去があります。なんと国家転覆の罪で5年間投獄されていたのです。いわば前科者ですが。どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。
陸奥宗光はどのような罪で投獄されたのでしょうか
明治10年(1877年)不平士族の反乱の総決算ともいえる西南戦争が起こります。自由民権運動の中心者たちはこの機にさまざまな動きを展開します。中には、この機に乗じて同じように決起しようとする者も現れます。
土佐立志社の有志が西南戦争に便乗して暗殺、挙兵を計画する
自由民権運動の政治団体である土佐立志社の林有造、大江卓はこの機に要人の暗殺や挙兵を考えていました。
そして、この頃政府と意見を異にして下野していた板垣退助、後藤象二郎とも連絡を取っておりました。
陸奥宗光は紀州藩の出身ですが、かって坂本龍馬の海援隊に属しており、その縁で土佐藩出身者とも交わっており、同じようにこの計画の相談を受けたりしておりました。むろん秘密裏にです。
陸奥宗光は当時元老院議官として政府の中枢にいる身でありながら、この計画にいろいろなアドバイスを与えたりしていたのです。
しかしながら、どうやらこの計画はある段階で、大久保利通によって察知されていたらしく、様々な妨害にあって、資金調達と武器調達において様々な支障が生じてしまいます。
しかも、西南戦争は彼らの期待に反して当初の勢いからだんだん薩摩軍に不利な展開となってきます。そして9月には集結してしまいます。
土佐立志社の計画が暴露し、関係者は逮捕、拘引される
戦争中に薩摩軍と連絡を取り合っていたことが判明して、8月に林有造が、拘引され、次々と土佐立志社の関係者も捕まってしまいます。明治11年(1878年)5月には大江卓が拘引されます。そしてその並びで、6月には陸奥宗光も拘引されることになります。
この間の陸奥宗光の心境はどうだったでしょうか。とても神経質になっていたという記録もあります。
また、その後の裁判になっても、彼も全力を尽くして切り抜けようとしたとの記録も残っています。後世の陸奥宗光からは想像ができないくらい往生際が悪かったようです。
明治11年8月20日大審院の判決がおりました。禁獄10年4名、禁獄5年2名、禁獄3年1名、禁獄2年1名、禁獄1年8名、禁獄6ヵ月1名、禁獄100日2名、
21日もあります。この禁獄5年和歌山県士族陸奥宗光、禁獄2年1名、禁獄1年2名、棒鎖7日1名、という具合でした。
9月には陸奥宗光は山形監獄に配送されてしまいます。しかしこれは伊藤博文の配慮で比較的快適な山形監獄が選ばれたという話です。
西南戦争の真っ只中、明治10年8月、政府転覆・高知挙兵計画が露見し逮捕者が出た『立志社の獄』が起きたがじゃ
首謀者は土佐立志社の林有造、大江卓
「第二の西南戦争」勃発の可能性もあったこの事件にゃ元海援隊士で元老院議官、のちの外務大臣陸奥宗光(陽之助)も加担し投獄されたがぜよ#西郷どん pic.twitter.com/xUCv6Hyi6K— 坂本龍馬 (@historical_per) December 16, 2018
陸奥宗光はどうしてこの計画にかかわることになったのでしょう
陸奥宗光は出身が紀州藩です。しかし彼は若い頃、坂本龍馬の海援隊に所属してその才能を開花させます。
坂本龍馬は、「海援隊の中でも、二本差しをなくしても生きていけるのは、俺と陸奥ぐらいだ。」と彼を高く買っていたそうです。確かにいろいろ活躍はしますが、周り隊員から煙たがられていたようです。
新政府に才能を見込まれて仕えそしてどんどん出世していきますが、薩長土肥の藩閥政府ですので、自分より能力が劣る人物が、薩長土肥というだけで偉くなっていくことに我慢ができなかったようです。そんなことから明治政府にも反感を持っていたようです。
そして、その中で西南戦争が起こります。何分目利きが利く彼としては、この機会に薩摩軍が勝利した場合も想定して、明治政府と両天秤にかけたようです。
そのため政府からは去らずに、政府要人には反乱軍の鎮圧を呼び掛け、内部にいながら秘密裏に関係を持っていたようです。ちょっと陰険な感じがしますね。
投獄中の陸奥宗光はどうしていたのでしょう
さすがに収監されてからはこれを勉強の機会ととらえたようです。イギリスのジェレミ・ベンサムのPrinciple of Moral and Legislationという著作の翻訳も手掛けたりしております。
明治16年(1883年)特赦によって出獄することになり、伊藤博文の勧めで、欧州に留学します。そして近代内閣制度について猛勉強したといわれています。ここら辺が我々凡人と異なるところです。
別の資料の目当てに『鹿児島県史料 西南戦争 第3巻』借りてきた
宮城監獄の典獄日記めくってたら、陸奥と三浦介雄が山形監獄からセットで送られて来た~😃陸奥と三浦、同房で相当仲良くしていたらしい。
野菜畑の影に座り込んでおしゃべりしたり、陸奥がしたベンサムの翻訳を、三浦が清書したりと😄 pic.twitter.com/OYQckYSkNF— 折れたたみ (@oretatami) May 29, 2018
陸奥宗光はどのように政界に復帰したのでしょうか
明治19年(1886年)帰国し外務省に出仕します。明治21年(1888年)駐米公使として米国に赴任し、駐米兼駐メキシコ講師としてメキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約の締結に成功します。
やはり、できる人は、人も引いてくれますし、その後の成果もシッカリ挙げることができます。
帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任します。山縣有朋が陸奥宗光を農商務大臣として入閣させようとして明治天皇に奏上します。
その時、明治天皇は、陸奥宗光は明治10年の事件があるので、その人となりが信用できないと言ったと言われています。それを言われても山縣は入閣させたということは、よほど陸奥の能力を買っていたのでしょう。
結果として、その後の条約改正の大事業に結びつくのですから、山縣の人材登用も的を得ていたということになります。
陸奥宗光(カミソリ大臣)が不平等条約を解消!クセ強めな53年の生涯 https://t.co/BaEJ3UFEvW #武将ジャパン @bushoojapanより
— 初級日本歴士 (@Wdv1KJuMriZWjtU) July 28, 2021
陸奥宗光は国家転覆の罪で5年間投獄されたことを知っていますかのまとめ
陸奥宗光はこの事件のことはよほど堪えたようで、語らなかったようです。そうですよね、一生の不覚とでもいえる事件です。でも計画だけで未遂で良かったのが幸いでした。
実行犯でしたら、さすがにその後の復帰も難しかったでしょう。
でも、さらにこれには怖い話があります。計画段階で陸奥宗光に暗殺リストを照会した際に、この中に欠けている人がいると言って、わざわざ伊藤博文の名前を書き足したともいわれています。
それまで陸奥を引き立ててきた大恩人ですから、さすがに周りも遠慮していたのを書き込んだと言いますから驚きですよね。
でも、伊藤博文もそんな情報は逮捕されたときには知っていたはずなのに、面倒を見ているのはどういうわけでしょうか。おおらかというのか、我々の感覚とは違うものを感じます。
コメント