幣原喜重郎と言ってもそれ誰と聞かれる方も多いでしょう。幣原喜重郎氏は東久邇宮稔彦王の跡を継いだ戦後2番目の内閣総理大臣です。在任期間も僅か9ヵ月弱ですので全く存在感がないでしょう。
それに突然出てきたような印象も受けますね。
そして評価と言えば精々、天皇制を守るために憲法第9条を押し付けられた内閣との評価ぐらいです。
しかし、幣原喜重郎自身は戦前外交の分野で「幣原外交」と言われる国際協調路線でかなりの活躍をしていましたが、軍部からは軟弱外交として全く評価されていませんでした。
それでも幣原喜重郎が内閣総理大臣についたのは、GHQの戦後統治が本格化する時期に合致します。このため、戦後体制、特に日本国憲法の制定に重要な役割を果たします。
幣原喜重郎が内閣総理大臣に就任したいきさつ
幣原喜重郎氏は昭和20年10月9日の東久邇宮内閣が総辞職したのを受けて総理大臣に就任することになります。
最初に幣原氏を持ち出してきたのは吉田茂とも言われています。かっては外務大臣、次官の関係があり、吉田茂にとっては好都合であると判断したようです。
当初はやはり首相に指名されるのを嫌がっていましたが、昭和天皇が直々に説得されたようで断り切れなかったそうです。
そもそも幣原喜重郎が政界に復帰するのは1931年12月に外務大臣を去ってからですから、14年のブランクがあります。従ってすっかり忘れ去られた存在でした。新聞記者の中にはまだ生きていたのかわからなかったようです。
幣原内閣の集合写真、なんで陸相は軍装してないんだろ pic.twitter.com/Anf0p8ouBv
— 豊本 (@bulgaria115) December 4, 2020
幣原喜重郎が戦後体制及び日本国憲法を考えるときに行ったこと
幣原内閣に対して、GHQは5大改革指針を伝えて、国内の改革を推進するよう要請してきました。また、それと同時に大日本帝国憲法の改定についても検討を始めます。
幣原喜重郎が亡くなる直前に秘書の平野三郎氏がうかがった内容が残っています。
これは日本国憲法の最大の問題である天皇制と戦争放棄条項がどのように出されたかを記載したもので、昭和39年2月に「戦争放棄条項等の生まれた事情について」という文章で憲法調査会から公開されています。
昭和20年末の日本及び進駐軍が置かれた状況はどのようだったのか
昭和20年も暮れになると日本占領政策はある程度落ち着きを見せるようになってきましたが、進駐軍の中でも意見の相違がはっきりしてきました。すなわち天皇制と日本の戦力保持の問題です。
特にオーストラリアとニュージーランドが日本の戦力保持を非常に恐れていて、これが皇軍に結びつくことを極端に嫌っていたようです。
そのことが昂じてソ連とだんだん近い関係となり、アメリカが孤立化する恐れがありました。
一方、アメリカとしてはこの段階で天皇の存在を認める方向性はほぼ決まっていましたので、天皇制と戦力をどのようにすべきかが焦点となっていたのです。
この時に、幣原氏としては戦争放棄を唱えて、天皇制と戦力を完全に分離すれば、オーストラリアも、ニュージーランドも日本の戦力を恐れていて、天皇制は問題としないので、アメリカと歩調を合わせることができると考えたようです。
幣原総理大臣は戦争放棄条項をどうして思いついたのか
幣原氏はこの大東亜戦争の状況を見て、今後、戦争をすれは、原子爆弾なども開発されている状況から、一方の国が無傷で終わることなど考えられない。
そんなことは皆がわかっていながら、一方では軍縮交渉をして、陰では軍拡の動きをやめようとしない。こんなことをやっていてはいつまでたっても埒が明かない。
本当に平和を望むのなら、絶対権力下の平和しか方法はない。例えば一時期のローマ帝国の支配下、日本でいえば徳川幕府下の平和しかないのですが、これもなかなか完成しません。
本当は世界が一つの組織になってしまえばこれは実現するのですがまだまだ先のことでしょう。
日本は今回の大戦で一からやり直すことになったのだから、率先して、非武装、戦争放棄をすることが大切なのです。これは負けて何もなくなったた日本だからできるのです。
そして、このことから世界が話し合いで物事を解決する先鞭を切りたいと思ったそうです。
この考え方は、日本が単に独立してからも持ち続けるべきで、世間から丸腰で非常識と言われることを承知の上で打ち出したものです。
幣原総理大臣は天皇制とこの戦争放棄条項をどのように持ち出したのでしょう
幣原総理大臣は英語の達人ですから、外国人とのやり取りは全く問題とならないのです。
昭和20年の年末に、風邪を引いた時、ペニシリンを駐留軍からいただき、その御礼として、昭和21年1月24日マッカーサーを訪問しました。その時にこの問題を提案したそうです。
さすがにマッカーサーは軍人であったためこの戦争放棄については非常に驚いたそうですが、最後は理解してくれたと言っています。
その持って行きかたですが、幣原総理はさすがに日本の国体に関することであるので、日本側から持ち出すわけにはいかない。日本から持ち出せば、あちこちで反対意見が続出し立ち消えになる。
そのため、マッカーサーからの命令として伝えてほしいと進言したそうです。結果はその通りになったのです。
1945年12月17日
日本で女性参政権が認められる1945年10月23日、幣原内閣の閣議に「衆議院議員選挙制度改正要綱」が提出された。要綱には女性の選挙権・被選挙権承認が含まれていた。12月16日、帝国議会は衆議院議員選挙法改正法案を可決。同法は翌日公布され、日本で初めて女性参政権が認められた。 pic.twitter.com/aTbnyhvIF7
— 今日は何の日 (@kyouhanannda) December 16, 2020
幣原喜重郎内閣総理大臣はどう評価されていますかのまとめ
幣原喜重郎は戦前、駐アメリカ特命全権大使、外務大臣を歴任しました。その頃から、軍縮問題、中国問題の解決に努力されてきたようです。
成果としては1922年のワシントン条約、日英同盟の破棄に結びつく四国条約など一貫して国際協調、平和路線を歩んでいます。そのため、一部方面からは軟弱外交などと言われていました。
戦後の天皇制と戦争放棄の条項についてもこの頃の経験が生かされたものと考えられます。そういうことから言えば、単に押し付けられたというよりは、幣原外交の総決算と言えるものではなかったでしょうか。
我々は、戦争放棄条項、憲法第9条はマッカーサーから押し付けられたものと教えられてきましたが、こんな内容の報告書が残っていたのです。
ただ、その頃の戦争の概念と現代の戦争の概念が少し変わってきているので、この考え方がすべて踏襲できるわけではありませんが。素晴らしい答えだと思います。
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