西郷隆盛は何をした人?島流しから維新の英傑になるまでの活躍

歴史人物

西郷隆盛はいったい何をした人かといえば、維新の英傑と答えるでしょうが。その内容及びそのやり方について知っている方は少ないはずです。

イメージとしては討幕の司令官と考えるでしょうが実態はどうだったのでしょうか。その様子を解説します。

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西郷隆盛は何をした人?島流しから維新活動への復帰

元治元年(1864年)2月28日西郷隆盛は沖永良部島から鹿児島に戻ります。半月後には京都に到着して軍賦役に任命されます。

西郷隆盛は軍司令官としてのイメージが強いのですが、本領は情報操作の方にあったかと考えられます。

薩摩藩の信頼を回復させるためにいろいろな手を打っています。

当時薩摩はお茶と綿の密貿易で多大な利益を上げていました。一方そのため、茶と綿の価格が高騰しています。

世間的には薩摩藩は攘夷と言いながら、一方では密貿易をして多大な利益を上げているということです。こんなことから薩摩藩の評判は悪く誰も信頼してくれません。

このため、薩摩商人の取り締まりをして上京させぬようにしています。

また、追い詰められた長州藩にも配慮しており、中立路線に持っていきます。

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西郷隆盛は何をした人?第一次長州征伐について

元治元年7月の第一次長州征伐にも情報活動、周旋工作に活躍しております。

西郷隆盛は征長軍参謀に就任します。その前に幕府の勝海舟にも面談し、更に長州藩の内情についても調査を始めます。

どうも既に長州は下関戦争を行ったりして、体制は疲弊していました。それに内部も分裂しております。

幕府は立場上強硬策を求めていますが、参加する諸大名は大規模な戦闘は望んでおりません。

そんなころから、西郷は征長総督、元尾張藩主徳川慶勝にお目見えして、緩和策を進言します。そして最終的に大きな戦闘もなく第一次長州征伐は終了することになります。

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西郷隆盛は何をした人?第二次長州征伐について

慶応元年(1865年)幕府はこの勢いに乗って、幕府勢力の回復を図ろうとします。しかしながら、西郷隆盛はこの頃から幕府の限界を知るようになったようです。

再び長州が過激派に占拠されたことを知った幕府は再度の長州征伐を行おうと、兵を集めて上京します。

この時西郷は朝廷にも長州にも工作をします。朝廷には幕府の要求を認めないように、長州には薩摩との和解、協力関係を築くことにします。

そして長州からの兵糧米の購入、武器の供与などと連携を強めていきます。これが薩長同盟に繋がります。

慶応2年(1866年)第二次長州征伐は始まりましたが、幕府軍は戦意がなく、各地で敗れていまいます。

この時、大阪まで出陣していた将軍徳川家茂が病死してしまい。休戦ということになります。

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西郷隆盛は何をした人?討幕への仕掛けの構築

慶応3年(1867年)再び西郷はさらに工作を進めます。5月薩摩と土佐の武力倒幕を期した薩土密約、6月には武力倒幕によらない薩土盟約を結びます。

一見矛盾するような約束を結ぶとても手の込んだやり方です。

更には、大政奉還が徳川慶喜から朝廷に提出されると、朝廷から倒幕、会津、桑名の誅伐の密勅を出させ、更には王政復古の大号令を発する工作もしてしまいます。

鳥羽・伏見の戦いではこのように網の目のように仕組んだ仕掛けで動き始めます。土佐藩にしてもこの中で武装参加せざるを得ないような形で参加させてしまいます。

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西郷隆盛は何をした人?戊辰戦争では

西郷は東征大総督府下参謀という立場で、東海道を攻め上ります。もっとも、元の尾張藩主徳川慶勝の働きにより、街道沿いの諸藩は総て恭順してしまいますので、大した戦闘もなかったでしょう。

そして3月9日山岡鉄舟との会談、3月15日勝海舟との会談で、江戸は無血開城となってしまいます。

また、北越戦争では状況が思わしくないので一旦柏崎にも出かけています。しかし、このように具体的な戦闘というよりは、全体的な藩の協力関係、朝廷工作などで本領を発揮しているのです。

どうでしょう。西郷隆盛のイメージが少し変わってきたのではないでしょうか。

上野公園にある銅像のように180㎝もある立派な体格、眼も極めて大きいことから、さぞかし戦場で物おじしない優れた司令官だと思うでしょうが、実際にはこのように調整、工作に優れているのです。

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西郷隆盛は何をした人?戊辰戦争の終結から明治新政府の成立

明治2年(1869年)には戊辰戦争も函館方面を除いてはほぼ終了という段階になっています。鹿児島に戻って終戦処理をすることになります。

この頃から、戊辰戦争の終戦処理が難しくなってきます。

それまで、戦争に参加した兵士たちの処遇の問題が各地で起こり始めております。戦争が終われば兵士はいらなくなるのですが、そのまま復帰できるわけではありません。

明治3年(1870年)になると更に問題が顕在化してきます。西郷は郷里に引き込んでしまいますが、この問題の調整ができるのは、西郷しかいないということで政治改革が始まります。

明治4年(1871年)には御親兵の制度を作り、鹿児島藩、山口藩、高知藩の兵を政府直轄としてしまいます。その他にも巧みに兵力を政府直轄に持っていきます。

これによって特に官軍側の藩の軍事力が割かれてしまいます。

それを見届けたうえで、新しい制度として廃藩置県の詔書が出されます。これもその鮮やかな手口から西郷が動いたのでしょう。

つまり、各藩から武力を奪っておいて、更には、藩を取り上げるというやり方です。これでは各藩の藩主はまるでお飾りです。政治力をふるうこともできません。こうして出来上がった政府の組織は次のようなものでした。

太政大臣(三条実美)

右大臣兼外務卿(岩倉具視)

参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信)

大蔵卿(大久保利通)

文部卿(大木喬任)

兵部大輔(山縣有朋)

大蔵大輔(井上馨)

文部大輔(江藤新平)

工部大輔(後藤象二郎)

司法大輔(佐々木高行)

宮内大輔(万里小路博房)

外務大輔(寺島宗則)

ご覧のように、ここに封建制の藩主が全くいなくなってしまいます。少数の貴族と実際に働いた武士だけが残っているのです。

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西郷隆盛は何をした人?島流しから維新の英傑になるまでの活躍のまとめ

西郷隆盛の、30代のいわば明治維新を成し遂げるまでの活躍を説明してきました。

これによって西郷隆盛のイメージが変わったことと思います。あの大きな体躯とは別に、神経は非常に細やかに調整を重ねるタイプなのです。

でもどうしてもわからないのは、封建制の藩主をすべて排除した政府を作ることを本当に西郷隆盛が考えたかどうかははっきりしないことです。

出来上がった構図から言えば、維新の志士たちが政府を作ったことになりますが、それまで彼らに力を与えた藩主たちをすべて排除する構図は鮮やかなものです。

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