山内容堂、酒と漢詩を愛した幕末の四賢侯で大政奉還の提唱者

歴史人物

山内容堂の生涯とエピソードを紹介します。幕末にあっては四賢侯の一人と呼ばれ、特に大政奉還を将軍慶喜に建白したことで有名です。

また、酒を愛し面白い逸話のある藩主でもあります。土佐藩は一般的に薩長土肥と言われ維新の立役者となっていますが、その長たる藩主の心情はどうだったのでしょうか。

スポンサーリンク

山内容堂、酒と漢詩を愛した幕末の四賢侯で大政奉還の提唱者の生涯

文政10年(1827年)高知城下で生まれる。南邸山内家は石高1500石の分家。
嘉永元年(1848年)豊信が藩主に就任した。
嘉永6年(1853年)革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用し、「仕置役(参政職)」に任ずる。

家老を押しのけて西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・身分制度改革・文武官設立などの藩政改革を断行した。

豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称される。
老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。
大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。
紀州藩主徳川慶福が第14代将軍となる。

安政6年(1859年)隠居願いを幕府に提出。幕府より謹慎処分となる。

謹慎中に土佐藩では土佐勤王党が台頭し、門閥家老が藩政を掌握。
文久3年(1863年)謹慎を解かれ土佐に帰国。藩政を掌握。
土佐勤王党青弾圧する。
朝廷から参預に任ぜられ、参預会議に出席する。

慶応2年(1866年)土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介で薩長同盟が成立した。

慶応3年(1867年)薩摩藩主導で設置された四侯会議に参加、欠席を続ける。
中岡慎太郎の仲介により土佐藩の乾退助、谷干城と、薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実らが武力討幕を議して、薩土密約を締結。
坂本龍馬、後藤象二郎らは、大久保利通、西郷隆盛と土佐藩の後藤、福岡孝弟、寺村左膳、真辺栄三郎が議して、大政奉還による王政復古を目標に掲げ薩土盟約を締結。
薩土盟約は約2か月半で瓦解し、薩土密約が次第に重視せられる。
15代将軍慶喜による大政奉還。
慶応3年(1868年)小御所会議 薩摩、尾張、越前、芸州、土佐
慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、薩土密約に基づいて官軍側に就く。
乾退助は、薩土密約に基づいて迅衝隊を率いて上洛した東山道へ出発する。
明治維新後は内国事務総裁に就任したが、明治2年(1869年)に辞職した。
明治5年(1872年)脳溢血に倒れる。46歳

スポンサーリンク

山内容堂、酒と漢詩を愛した幕末の四賢侯で大政奉還の提唱の真実は

山内容堂は自分を藩主に何とかしてくれた幕府に対しては何かと恩義を感じており、参預会議においても徳川幕府の存続を図るべく尽力していた。

また、その後の四侯会議もその姿勢であったが、時代の趨勢はその方向には進んでいかない。
その途中では討幕路線の薩土密約を結んだり、同時に幕府存続路線の薩土盟約を結んだりでその方向性は矛盾に満ちている。
それでももはや討幕が避けられないとわかった時に出てきたのが、大政奉還である。元の発想は坂本龍馬でそれを後藤象二郎が聞いたものとされている。

そして後藤象二郎は自分の案として山内容堂に進言する。
山内容堂はこの案を老中板倉勝静を通して、将軍徳川慶喜に建白したことになっている。

これは確かに妙案で、政権を返上してしまうので、倒すべき幕府がなくなってしまうことで、討幕側の勢力をそいでしまうものでした。
これによって、山内容堂が大政奉還を将軍慶喜に進言したと、歴史の教科書にも載るようになってしまいました。幕末の四賢侯といっても山内容堂の知名度が高いのはこのわけです。

でもこの話はどこかで類似性があると思いませんか。

ご先祖様の山内一豊の話がありますよね。

1600年徳川家康共々上杉征伐に出向いた際、石田三成が家康討伐の兵を挙げます。家康一行は栃木県の小山で評定をします。

まだ、その一行は徳川方に全部ついているわけではないので。山内一豊は当時掛川城主だったのですが、「城も領地も明け渡して家康帰還に従う。」発言をします。

そのおかげで、全軍勢いを得て京に向かって引き返すことになったものです。この時の発言が効いて後に土佐一国を与えられたときいています。

このアイディアも実は誰か同僚の話を聞いたところで、すぐに出し抜いたものだそうです。江戸時代の前と後ろで同じような活躍をした家系だと感心しました。

スポンサーリンク

山内容堂、酒と漢詩を愛した幕末の四賢侯の酒にまつわるエピソード

山内容堂は相当の酒付きで、酒にまつわるエピソードが数々あります。うまくいけば歴史も変えられたかもしれない、とても残念なものも含まれています。

鯨海酔侯

山内容堂は自分でも「鯨海酔侯」と名乗っていたそうです。文久3年(1863年)勝海舟が山内容堂と会談し坂本龍馬の土佐藩からの脱藩を許しを得るときの話だそうです。

容堂はいつも酒に酔っていたため、その証明に一筆いただこうとしていたそうです。すると容堂は瓢箪を渡してまずは一杯というわけです。

勝海舟は下戸ですが、とりあえず一杯飲んで迫りますが、口先だけの返事でとどまります。更にお願いすると、大杯が出てきてそれになみなみと酒が注がれます。

覚悟を決めた勝海舟はそれを飲み干します。

すると満足して、「歳酔、三百六十回、酔海鯨侯」と署名をして渡したといわれています。
ちなみに高知のお酒で有名な酔鯨はここから取ってきているともいわれています。

小御所会議での失敗

同じく慶応3年の年末です。徳川慶喜の大政奉還で先手を打たれた朝廷側ですが、会議の次の手としては、徳川慶喜に官位を辞任させることと領地を返上させることが議論となっていました。

こうやって徳川方を追い詰めようというわけです。

これに反発したのは山内容堂です。せっかく大政奉還の決断をした徳川慶喜に対してのみ辞官納地を迫るのが筋が通らないというわけです。

その他の大名は今まで通りでは理屈に合わないわけで、確かに正論です。そのおかげで会議は紛糾してしまいます。

ところが酔っぱらっている山内容堂は「幼冲の天子」と言ってしまいます。これは天皇を子ども扱いする言葉で、岩倉具視に付け入るスキを与えてしまいます。

ここを起点に容堂を攻め立ててしまいます。さすがに岩倉具視は喧嘩がうまいですね。筋論では負けていても相手の不規則発言を攻めまくるのは、喧嘩の常道です。

このとき山内容堂が正気であったら、討幕派の狙い通りには進まなかったでしょうに、残念ですね。必ずしも正論が通るわけではない一例です。

引退後の生活

山内容堂は引退後も酒の女と作詩に明け暮れる生活を送っていました。また連日、酒楼で飲み明かしていたようです。家来が諫めても「酒で身上をつぶした大名はいない」と聞かなかったそうです。

そんな生活がたたったのでしょう、明治5年脳溢血で亡くなってしまいます。46歳でした。

スポンサーリンク

山内容堂、酒と漢詩を愛した幕末の四賢侯で大政奉還の提唱者のまとめ

幕末の四賢侯の一人と言われ、大政奉還の提唱者として有名な山内容堂の生涯をエピソードとともに説明しました。

エピソードでは酒の話が中心でしたので、ただの酔っぱらいのような印象も受けたかもしれませんが、それでも、その時の状況判断はわきまえていたようだと思います。

そんな容堂も詩作が好きで多くの漢詩が残っています。こんな艶やかな詩も残していますので紹介します。
墨水竹詞     隅田川を詠う
水樓酒罷燭光微, 水楼(水辺の高殿)酒やみて燭光(ともし火)微かに
一隊紅粧帶醉歸。 一隊の紅粧(美人たち)醉を帯びて帰る。
繊手煩張蛇眼傘, 繊手(細い腕)張るを煩わす蛇眼の傘
二州橋畔雨霏霏。 二州橋(両国橋)畔(たもと)雨霏霏(霧雨がしとしとふる)

歴史人物一覧 へ

コメント

タイトルとURLをコピーしました