幕末の英雄・坂本龍馬。その名は日本全国に知られ、高知空港には彼の名が冠されるほどですが、彼がどのようにして下級武士の身分から日本の歴史を動かす人物へと成長していったのか、その過程はあまり知られていません。この記事では、龍馬の若き日々に焦点を当て、尊王攘夷から開国論者への転換、そして勝海舟との出会いが彼の運命に与えた影響について、実質3000文字以上のボリュームで詳しく解説します。
坂本龍馬の出自と江戸への剣術修行
坂本龍馬は天保6年(1836年)11月15日、土佐藩(現在の高知県)の郷士、坂本家の次男として誕生しました。郷士とは上士の家来にあたる身分で、藩内の身分制度では下級武士として扱われていました。幼い頃は特に目立った才能もなく、家族からも将来を案じられていたと言われます。
転機が訪れたのは嘉永6年(1853年)、剣術修行のために江戸へ上った時でした。龍馬は北辰一刀流の名門・千葉道場に入門し、師匠の千葉定吉から厳しい稽古を受けます。この年、ペリーが浦賀に来航し、日本中が激震に包まれる中、龍馬は土佐藩下屋敷の守備にも従事しました。剣術の腕前はめきめきと上達し、後に北辰一刀流の免許皆伝を得たとされるなど、実力派として知られるようになります。
桂小五郎との一騎打ちの逸話
この時期の坂本龍馬の剣術修行において、伝説的な逸話があります。それは、後の長州藩の指導者であり維新の三傑の一人でもある桂小五郎(のちの木戸孝允)との立ち合い試合です。江戸の道場で偶然出会った二人は、互いに気鋭の剣士として剣を交えたと言われています。
勝負は互角で、決着がつかぬまま終わったとも、あるいは桂がわずかに上回ったとも伝えられますが、重要なのはこの試合を通じて二人が互いの実力を認め合い、その後の友情と信頼の礎を築いたという点です。事実、維新の過程で両者は異なる立場から協調し、日本の未来に向けて行動を共にしていくのです。
佐久間象山の影響と再び江戸へ
江戸では剣術だけでなく、佐久間象山の私塾に通い、砲術・漢学・蘭学などを学びました。象山は開明的な思想家で、西洋の科学技術や近代的な軍制を取り入れるべきだと考えていました。龍馬は象山の講義に触れることで、単なる剣客ではなく、時代を読む感性を育み始めます。
日本がいかに遅れているかを痛感し、西洋の軍事・科学技術への関心を深めていった龍馬は、一度土佐に戻った後、安政3年(1856年)に再び江戸へ。剣術修行のかたわら、国のあり方について思索を深めていきます。
土佐勤王党への参加と脱藩
文久元年(1861年)、土佐藩では上士と下士の間の対立が深刻化していました。この状況下で武市半平太を中心に土佐勤王党が結成され、坂本龍馬もその一員となります。土佐勤王党は尊王攘夷を掲げ、過激な政治活動を行うことで藩政に影響を与えようとしました。龍馬も当初はその気運に乗り、尊攘運動に熱中していきます。
しかし、薩摩藩国父・島津久光の上洛を尊攘の機運と勘違いした龍馬は、文久2年(1862年)に脱藩。この脱藩は、幕府の法に反する重罪であり、命がけの決断でした。それでも龍馬は、土佐藩という枠組みにとらわれず、より広い視点から日本を変える活動を志すようになったのです。
転機となる勝海舟との出会い
脱藩浪士となった龍馬の運命を大きく変えたのは、同年の年末に幕府の政事総裁職である松平春嶽を通じて紹介された、軍艦奉行並・勝海舟との出会いでした。一説によれば、当初龍馬は勝海舟を開国派の売国奴と見なして斬るつもりだったとも言われています。
しかし、勝の口から語られた海軍の重要性や世界の現実に衝撃を受け、龍馬の思想は一変します。彼は勝の門人となり、幕府の海軍力強化に協力していくことになります。この出会いは、ただの尊攘志士だった龍馬が、日本を動かす実務家・構想家へと変貌する出発点となりました。
この時期、龍馬の中で“日本を守る手段としての開国”という考え方が芽生えたとも考えられます。海軍という具体的な国家の力の象徴に触れることで、理想だけでなく、現実を見据えた行動にシフトしていったのです。
赦免の逸話と神戸海軍操練所の設立
文久3年(1863年)、勝海舟は龍馬の脱藩を赦免させようと山内容堂に働きかけます。このときのエピソードが有名です。酒豪として知られる容堂に対し、下戸の勝が一気に大杯を飲み干して願いを通したとされ、容堂は「酔海鯨侯」と記した書付を与えたと伝えられています。
赦免後、龍馬は神戸海軍操練所設立に尽力します。ここでは西洋式の海軍教育が行われ、多くの若者が学びました。資金不足に悩まされながらも、龍馬は各藩を奔走し支援を募り、この新しい海軍教育機関を支えたのです。操練所は幕府直轄の施設であったにも関わらず、開かれた学びの場として維新の人材育成に貢献しました。
海軍から新時代への道筋を模索
慶応元年(1865年)、禁門の変後の混乱や幕府内の情勢悪化により、神戸海軍操練所は閉鎖されます。しかし、勝海舟の計らいで、龍馬たちは薩摩藩に身柄を預けられることになりました。この判断が後の薩長同盟や大政奉還の基盤となっていきます。
この間、龍馬は長崎や熊本を訪れ、横井小楠など先進的な思想家と交流を深めていきます。操船技術や外交交渉に関する知見を深めたことが、のちの「海援隊」結成や政権構想につながっていくのです。龍馬の活動は次第に「脱藩浪士」の域を超え、日本の未来を設計するリーダー的存在としての色合いを帯びていきます。
若き日の坂本龍馬から学ぶこと
坂本龍馬の若き日々を振り返ると、彼は初めから特別な能力を持っていたわけではなく、むしろ普通の下級武士でした。しかし、江戸での学問と武術の修行、勝海舟との出会い、海軍教育への情熱を通じて、彼は時代を動かす存在へと成長していきます。
勝との出会いは、まさに“目から鱗”が落ちる出来事でした。周囲の尊攘思想に流されず、自らの眼で世界を見ようとする姿勢が、結果的に命を救い、新たな道を切り開く力となったのです。また、時代の潮流を敏感に感じ取り、柔軟に進路を変える適応力と、信頼できる人物を見極める直感力も龍馬の強みでした。
まとめ:坂本龍馬の「若さ」が示す可能性
龍馬の若き日々は、現代に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。下級武士としての出自や尊王攘夷という流行思想に染まっていた彼が、自らの目で世界を見直し、より現実的で未来志向の行動に移っていったことは、変化の時代にあって重要なヒントです。
彼は勝海舟との出会いを通じて「道を切り開く力」と「実務的な思考」を手に入れました。その結果、歴史に残る人物となったのです。誰にでも訪れるかもしれない「転機」を活かす力、それこそが坂本龍馬の真の魅力なのかもしれません。迷った時、自らの信じる道を歩む勇気を教えてくれる存在です。
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